
その人らしさをそのまま伝える「ユーモア」って? ギリギリアウトから“普通”を広げていく、木ノ戸昌幸さんとの対話 マイノリティ化する子どもたちと|青山誠 vol.06
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「青山さんの保育の話を聞いてると、京都のある福祉施設が掲げる『ギリギリアウト』って言葉を思い出すんですよね」。そう知り合いの研究者に教えられて知った、障害福祉施設の〈スウィング〉さん。ギリギリアウト、すごい言葉だなあと思ったのを覚えています。
全身ブルーのタイツを着て、まちのゴミ拾いをする。京都の複雑なバス路線図を覚えて、勝手に道案内をする。思わず笑っちゃうようなセリフや詩を商品にしちゃう。社会のキワ(際)っぽいところを進む姿勢は、言われるとたしかに自分の保育実践の空気と近いものがあるのかもしれません。
スウィングさんはなぜ、ギリギリを狙うのか。なぜ、セーフのギリギリじゃなくアウトのギリギリなのか。この言葉を結晶させた代表の木ノ戸昌幸さんに、今の子どもたちの世界ってどう目に映ってるのか。ちょっとの怖さと、たっぷりしたワクワクをもって、春の終わりの上賀茂を訪れました。
【青山誠】
連載『マイノリティ化する子どもたちと|青山誠』
https://co-coco.jp/series/minority_children/
保育者として幅広く活動する、上町しぜんの国保育園の元園長・青山誠さんと一緒に、「マイノリティ」とされる人々の傍で活動する方をたずねる対談シリーズ。子どもをはじめとする、社会の周縁に追いやられてしまいそうな存在も含めて、多様な人と人とがともに生きる方法を考えていきます。
【こここ編集部】
「ギリギリアウト」ってどういうことだろう
青山 スウィングさんを知って、「オレたちひょうげん族」とか「ゴミコロリ」とか、なんだかすごいことをやっている団体だなと気になっていました(笑)。特にこの「ギリギリアウト」という言葉が、どうやって生まれたのか、ずっと聞いてみたくて。
木ノ戸 スウィングの活動を振り返るなかで出てきた言葉で、10年くらい前から、外に向けても意識的に使うようになりました。「ギリギリセーフ」だと、所詮はセーフの内側。そうじゃない言葉で、既存の狭い許容範囲を少しずつ広げてしまおう、という考え方ですね。
木ノ戸 例えば、スウィングでは「アートが仕事なんだ」と言い張っていますけど、詩を10年以上書いてきて3枚くらいしか売れてない人もいるし、「それは仕事じゃないだろ」と言われるかもしれない。でもそう思うのは、お金を稼ぐことだけが“仕事”だ、と思い込んでいるからで。
世間的なアウトも、常態化して文化にしてしまえば、「こういうのも仕事としてありだよね」と見られるようになるんですよ。
青山 ギリギリアウトの考え方を知って、僕は自分が保育の世界に入った頃のことを思い出したんですね。初めて子どもたちを連れて散歩に行ったとき、なんて言うのかな、学校をずる休みしたような解放感があって。周りの同世代はみんな会社に行っているのに、僕は子どもたちと遊んでいるだけでお金がもらえるなんて、ラッキーだなって思ったんです(笑)。
そういう開放感のままにずっと保育の仕事をしてきたんですが、最近は「こどもまんなか」というスローガンのもと、子どもが「教育」や「管理」の対象になって息苦しくなってきました。僕自身も含め子どもに関わる人たちって、ちょっと“キワっぽい”ところを、子どもと一緒に楽しむ感覚がそれまではあったと思うんですね。「いいや、やっちゃえ」みたいな。
今はそのセーフゾーンがどんどん狭まって、僕が子どもとやってきたことの多くが、いつの間にかアウトになってきた感じなんです。
木ノ戸 障害福祉の文脈でも、似たようなところがありますね。障害者総合支援法(2013年)が施行されたあたりから、過去できていたことができなくなって。
例えば、スウィングのように生活支援や創作活動が中心の「生活介護事業所」と、わかりやすく対価の伴う就労を支援する「就労支援施設」とがはっきり色分けされて、それ以外のことはしてはいけないかのような雰囲気になりました。法律の締め付け自体もありますが、施設の運営者側も一緒になってその雰囲気を強めていった感じもあるんですよ。自主規制的に、事業者自身が「この枠組み内では、この活動をしてはいけない」と勝手に解釈していく部分があったんです。
僕には、法律のせいにしてやらない理由を作っているようにも見えました。
青山 よくわかります。自治体から保育園に「こうするように」と事務連絡が来て問い合わせると、「行政からの推奨として制約をかけてもらいたい、という園もある」と言われたりしますから。
そうやって行政的な管理と現場から共依存的に生まれる「普通」に、どう抗えばいいかと思うとき、スウィングさんのギリギリアウトが、僕にはすごく軽やかに見えるんですよ。既存の枠組みを外したり解体したりしているはずなのに、攻撃的じゃなくて、むしろクスッと笑ってしまう。しかも、笑ってしまった自分自身のことも嫌じゃないんです。いつのまにか障害福祉という領域への遠慮や恐れもなくなって、「自分も関わりに行っていいのかも」と思える感じ。あのユーモアは、何なんだろうなって。
共通項としてのユーモアや笑い
——スウィングさんを見ていると、「何が普通で、何が普通でないか」の評価軸が揺らいできて、そもそも「普通」や「まとも」という概念は誰が作っているのかな……と考えさせられます。
木ノ戸 「普通」の内容を決めるのは、やっぱりその時代や社会状況における大多数なんじゃないですかね。合わせられる人の多いことが「まとも」と言われて、人々の共通見解になっていく。「人によって『普通』は違うよね」という前提はありつつ、今の社会構造のなかでは、そういう道標がないと成り立たないんですよね。そして、合わせられる度合いが高いマジョリティ側の人たちが、またその「普通」を強化していく。
僕らが「普通」と「普通じゃない」を混ぜ合わせたり、遠い世界だと感じるものを引き寄せて、人同士をつなぐための共通項のひとつが、青山さんが触れてくれた「ユーモア」や「笑い」なのかもしれません。笑って緊張が解けると壁がなくなる。「普通」を知っている人に向けて、「普通」からズレた状態のままで発信することがおもしろいし、それが人をその人のまま大事にすることだと思います。
今対談しているこの空間を、公共図書館として地域に開放しているのも、本という共通項を通じてつながれる場を作りたかったからなんです。本って誰でも知っていて、生活の中にあるものなので。この前中学生がただの図書館だと思ってフラッとやってきてね。福祉施設だと知ってびっくりしてましたけど(笑)、そういう出会いがつくれるといいなと。
青山 クスッと笑わせるような活動のトーンは、最初から?
木ノ戸 原点としては、僕自身が小学校でしんどい思いをしたときに、劇を作って人を笑わせることや絵を描くことで救われた経験がある気がします。
ただ、ここにいるメンバーみんなが笑いに持っていきたがるのは、関西であることも関係していると思うんですよ。みんな詩を書くときも、最後に必ずボケないと気が済まないんです。力んでオチをつけるもんだからおもしろくなくて、逆に「ボケなくていい」とアドバイスすることのほうが多い(笑)。
青山 スウィングさんの活動を見ていて、作家の坂口安吾が初期に発表した「茶番に寄せて」という文章を思い出すんです。そこで安吾は「道化はいつもその一歩手前のところまでは笑っていない」と書いているんですね。ただふざけているのではなくて、笑う直前まで現実を見つめてるんだって。スウィングさんの作品や活動も、すごく切実さみたいなものを感じますよね。でも、それを最後の最後に、笑いとユーモアのほうにうっちゃって(投げ出して)いく。
木ノ戸 ひとつの捉え方や言葉に回収されないようにすることは、いつも意識しています。例えば「障害者アート」っていう文脈に乗せられて、すごく美しいものにされないように、とか。
青山 具体的にどうやってるんですか?
木ノ戸 どうやってるんだろう。逃げ続けてるって感じがしますね。「作品や表現は、その人を伝える媒介のひとつでしかない」といろいろな手段を通じて訴えるんです。
人にはいろんな側面があるなかで、たまたま作品が生まれているだけであって、それ自体をその人とはまったく思いません。だから、外に発信するときは、作品と並列的にあえて別の側面を見せたりします。やっぱり作品よりも、人間のほうを発信したいっていう気持ちがありますね。
青山 人間って、行動の意味を一つひとつ問われたり、一見無駄なことがすべて排除されたりしちゃうと、しんどくなりますよね。そこを意識されているから、作品や活動から、その人が生きているリアリティみたいなものを感じるんだと思います。
今、切実さと笑いについて考えながら、ふとコロナ禍で職員たちと考えた「キラキラナイト」っていうのを思い出しました。当時、マスクや消毒やワクチン、何より「不要不急」という言葉に僕は疲弊していたんですよね。あるとき街を歩いていたら、クリスマスのイルミネーションが輝いていて、でもそんなご時世だから閑散としてて誰も見ていない。「ああ、これ無駄だ」と一瞬思ったんですけど、すぐにまた、人生に無駄なことが禁じられて、いちいち意味を問われてるから苦しいんだと気づいたわけです。
いっそ無駄なことを思いきりやってやろうと思って、みんなで園庭を無意味にキラキラさせてみたり、ナイトプールみたいにキラキラの足湯を作ったり、ヒカリモンだからって理由で、職員の実家で作られているさんまのつみれ汁を食べたり(笑)。意味のないことを一生懸命やって笑い合いましたけど、今振り返ると、あのときの自分たちは切実でしたね。
木ノ戸 閉塞した状況をなんとかズラしていく手法が、ユーモアなのかもしれないですね。スウィングの理念が「Enjoy! Open!! Swing!!!」で、それはロクでもない世の中なんだから、せめて楽しもうっていう意味。そもそも「世の中は楽しいもの」というプレッシャーが、強すぎるなと感じています。そんないいもんじゃないのに、「せっかく生まれてきたんだから人生を楽しまなあかん」なんて言われるからしんどいですよ。その前提がなければ「こんなもんか」って笑えるのに。
本来は「方便」で「ギャグ」だったはずなのに
青山 僕は小さい頃から、ふざけてすぐ怒られるような子どもだったんです。だから、保育の「子どもといるからやれちゃう」という気楽さが好きなんですよね。もちろん保育をしていて、周りから怒られることがありましたけど、以前は怒られて終わりでした。
だけど今は、「適切か、不適切か」で判断されてしまう。不適切と判断されたらすぐ指導の対象と見なされてしまうことに違和感を訴えていたら、いつのまにか「変わったことを言う人」みたいなポジションになってきちゃいました。
木ノ戸 青山さん編著の、発達障害のある子どもたちの世界を記した『ニューロマイノリティ』も読ませてもらいました。「今の時代は、こういう考え方にまで来たのか」という嬉しい気持ちがあった一方で、「これを言ってる人はまだ少ないだろうな」とも思いましたね。僕もスウィングにいると、ポジティブな勘違いをしちゃうことがありますから。
青山 勘違いというと?
木ノ戸 この場所では、僕も含めて人生でダメージを受けてきた人たちが出会うからこそ、一人ひとりの自由を大事にするんです。その中にいると、その人がその人であることが大事だというのが当たり前になりすぎて、「障害」と言われるものが意味をなさなくなるんですよ。そして、世の中全部がそうなんだと、時々錯覚しちゃうんです。ここでは冗談で「あれ、障害あるんちゃう?」とか言えちゃうんですけど、スウィングの外に出たら、施設の中の価値観は世間の常識ではないんだって現実に気づくことが多いですね。
青山 世間が求めるものと、ちょっとズレているという自覚はうちの園にもあります。ただ、多くの人が納得しやすいように話すことはできるんですよね。例えば最初の入園説明会みたいなところで、「教育」や「発達」の文脈に乗せた話をすることもあります。ただそれはあくまで方便というか。
保育だと、子どもが泥団子を作っているのを見て、大人が勝手に「情緒の安定を図るため」とか言ったりします。いや、別に子どもはそういう目的で泥団子をこねているわけじゃないよって思うけど、それで世間が納得して僕らをほっといてくれるなら、まあ合わせようかって感じだったんです。だけど、だんだん「え、方便をみんなマジだと思ってるの?」みたいな場面が増えてきて……。
木ノ戸 あー、めっちゃわかるなあ。僕の場合、それをギャグって言いますね。スウィングも「アートで社会参加を支援します」とか言って、まあ実際まじめにやっているんですけど、活動の中には全然そうじゃないものもあるんです。でも、外の人がギャグを本気にして、勝手な目的に当てはめようとしてくる感じで。
青山 そうなんですよ。もちろん、いろんな活動を通して子どもは育ちます。だけど、それを細分化して「体育指導でこれが伸びる」「造形をやれば小学校につながる」みたいなことは、到底信じられない。大人がそういうふうに解釈したいだけでしょう。ギャグっていいですね、今後使わせてもらおう(笑)。
木ノ戸 子どもや障害のある人に対してのそういう分析って、する側が自分たちの首を絞めているようにしか見えないんです。「良い/悪い」という評価軸に縛られているというか。彼ら自身が楽しそうには見えないから、全然そっち側に行きたいと思えないんですよね。
もちろんスウィングでも、展覧会で評価されたりお金を得たりといったわかりやすい成果を目指す場合もあります。それがモチベーションになる人もいる。けど、決してそこが一番大事ではなくて。感覚としては、青山さんの言うように本当に泥遊びしてるだけで、その遊び自体に別に意味はないんですよ。
でも、「泥さえあれば大丈夫です」と思っていても、世間にはなかなかそれが通じない。何かの評価軸に乗らされそうなことを、いかに大したことじゃないことにするか。そういう地鳴らしを意識的にしてますね。
青山 障害のある人や子どもを立派なものにしたがるというか、立派であることを求めるところもありますよね。
木ノ戸 障害のある人は美化されたり、聖なる存在のような扱いをされたりすることは多いです。だからこそ、あえて「いや、僕やあなたと同じようにアホですよ、もうむちゃくちゃなんです」って伝えるようにしてます。それが自然な人間のあり方だし、それでいいわけですから。同じように、たしかに子どもも「すごい」って言われますよね。
青山 子どもをやたら美化したり、持ち上げたりする言説もありますが、僕としては違和感を感じますね。そこにやはり上からの評価を感じてしまいます。子どもは「すごい」ときもあるけれど、全然そうじゃないときだってあるのに。
木ノ戸 「子どもなのにすごい」「障害者なのにすごい」が多いですよね。それがどれだけ人を低く見ているのかってことに気づいてない。
青山 大人だって逸脱するはずです。だけど、それが子どもになった瞬間に急に「教育」の対象にされ、すぐ矯正されなければいけないものにされちゃう。大人のほうが堪え性がない感じがします。
今は学校も、不登校の子どもが35万人いると言われてて、いわゆる「普通」とされてきたものがもう成り立ってないですよね。さまざまな形で豊かな教育や、改革は進行しつつあるにせよ、制度的にも崩壊している「普通」の教育に、無理矢理合わせにいく必要はあるんだろうかと思います。
「暴力性」や「間違い」をないものにさせない
青山 冒頭に言ったように、僕は子どもや保育に、ちょっと“キワっぽい”ものを感じていたんですよ。そして、社会がまだそれを認めていた。子どもって汚いこと、こっちが思わないようなこともするけど、同時に「まあ子どもってそういうもんだよな」とされる範囲が、昔はもっと大きかった気がするんです。ただ、今は子どものちょっとした逸脱行為なんかがすぐ本当に大事件になっちゃう。
木ノ戸 障害福祉も、それで支援者の方が緊張しちゃってる部分がありますね。例えば以前スウィングには、施設のトイレを使わずに、わざわざ近くにある神社のトイレに行く人がいたんですが、それは管理的な観点から言うと脱走、あるいは行方不明になっている状態。保育園から子どもがいなくなるのと同じことなので、仕方なくルールを作って行けないようにする、という流れがありました。
青山 保育園でも、子どもの見失いってやっぱりあるんですよ。散歩の途中で、ひとりだけどこかに行っちゃったとか。
木ノ戸 僕も育児をしながら感じてますが、子どもって迷子になるようにできてますよね(笑)。ならないほうがおかしい。
青山 それでも、10年前くらいまでは「迷子はよくないけど、子どもっていうのは時に自ら迷子になりに行くこともある。だから迷子になっても平気なまちにしないといけない」みたいな話もできていたんです。大人が勝手に「ここまで」って定めたなかに収まるような存在じゃない、という子どもへの認識を前提に、さてどうしようかねという話ができていましたが、今はそういう前提を何重にも言わないといけなくなりました。すぐに「重大な事故」として取り扱われてしまいますから。
木ノ戸 人間は必ず間違いを犯すし、何か許されないことをしてしまうことがありますよね。「許されないことをしないように」と約束させ、それを全員が守れるはずだという前提が間違っているんじゃないかなと思います。そういう共通認識が欲しい。
青山 今、保育者になりたい学生がどんどん減っているんです。いろんなニュースや状況を見て、親御さんの反対もあるのかもしれない。徹底した指導管理が投げかけられ、何かあれば袋叩きにあって世間的に重たい罰が下ってしまう業界になりましたから。子どもと一緒に何ができるのかなって楽しみより、何をしちゃいけないのかなって考えさせられてしまう。
もちろん、かつては当たり前のようにあった体罰などが、問題視されて減ってきたのはいいことです。でも新たに細分化された規範やルールや「スタンダード」が生まれ、より相互監視社会が強まってきてもいます。
——規範が変わるなかで、多様な立場の人について考える機会が増えているなとは感じます。ただ木ノ戸さんの言うように、それでも人は間違えてしまうことがある。そこも踏まえて「傷つけてしまったとしたら、謝る」とみんなが共通認識を持つことも、最近は大事だと考えるようになりました。
木ノ戸 自分にはギャグのように思えてしてしまう考え方も、相手には同じくらいの強い気持ちがあるんだと、最近になってようやくわかってきました。「こっちだけが正しい」と思うことほど乱暴なものはない。なので理解できなくても、まずは並べてみなければいけないんだろうなと思いますね。
その上で、どういう立場であれ人間が人間である限り持つ暴力性は、どれだけ隠そうとしても隠せないとも思うんですよね。「傷つけないように」と体罰や攻撃を無理矢理に禁止したところで、人間の仕組みそのものが変わるわけではないので、どこかで滲み出てしまう気がします。実はスウィングの中でも以前、メンバーが自分より仕事ができない人を見つけて攻撃する、という場面が日常的にありました。福祉施設ですら、正しい100点を作ってしまうと、そこに届きやすい人が届きにくい人を見つけて攻撃してしまうんだなって。
だからこそ、表現活動に振っていった部分もあったんです。表現には正解がないのでダメと言えないし、その人にしかできない表現に価値を置けば「ああ、あなたらしくていいね!」と褒め合えますから。
「自由」とは面倒くさいものである
青山 最近は保育園や幼稚園でも、子ども同士の取っ組み合いの喧嘩が起こらなくなっています。でも、子どもって本当はすぐ引っ掻いたり手が出たりするんですね。「教育」のなかでは、喜怒哀楽のうち「怒る」という感情が一番認められていない気がしますが、あまりにも大人のほうで感情を評価し、抑制をすると、おっしゃったように結局それが違う形で出てくるだけなんだろうと。
もちろん子どもの力でも叩かれたら痛いし、噛みつかれたらもっと痛いし、僕らも「それはやりすぎ」と声をかけることもあります。だけど、「1対1であること」「物は使わない」「危ないところでやらない」というルールさえ守っていれば、実際は幼児がありったけ喧嘩したって、そんな大したことにはならないんですよ。
木ノ戸 今日ひとつ聞きたいと思っていたんですが、今の青山さんのような考え方を「ゆるい場所だ」と捉えられることってないのかなと。自由を大切にするのは楽で、自分にとって都合のいい場だ……と勘違いする人が、僕は結構多いなと感じるんです。本来、自由の方が圧倒的に難しくて面倒くさいと思うんですけれども。
青山 本当におっしゃる通りで、自由であるほど面倒くさいですよね。例えば、家庭から園へのおもちゃの持ち込みって、一般的には「キーホルダー2個まで」などのルールがある。けど、うちの園はもう各家庭にまず考えてもらうんです。もちろん持ってきたら汚れたり、壊れたりしちゃうこともあるから、家のものを持ってくるのかどうかをまず話し合ってもらって、その上で持ってきたものについて園で起こったことは、園でみんなで話し合うことにしています。
そうすると、いちいち考えたり、子どもと大人で話さなくちゃいけないから、「面倒くさい」って言われるんだけど、こっちだって面倒くさいよって。「面倒くさいことがいいから、みんなでやりましょう!」みたいにいい話として語りたいわけじゃなくて、つくづく面倒くさいと思っているんですけど……(笑)。でも仕方ないじゃんって。人といるって面倒くさいんだから。
木ノ戸 青山さんは、以前の対談で「混沌」と「混乱」を分けて考えているとおっしゃってますよね。それ、すごくよくわかるんです。自由というのは放っておくとどんどん混乱につながって、より強い自由、わかりやすい自由を持っている人に偏るんですよ。すると、例えば「ただ静かに過ごしたい」と思う人の意志は尊重されにくくなっちゃう。
スウィングでも、互いの自由はいつも衝突していることを意識しながら、同じ空間にいる人たちが調和しやすい環境を考えています。特にこういう場所は保育園のように卒園がないので、自由を混乱に、もしくは過剰な管理に向かわせない工夫が大切です。感覚としては、5年に一度くらいは大きく手を入れないといけないかな。
青山 どんな感じで手を入れるんですか?
木ノ戸 人がひとり加わればもう雰囲気が変わるので、その時によってさまざまです。活動の内容や、机などの制作スペースの配置を丸ごと変えることもあります。面倒くさいし、毎日やめたいと思ってますけど、やめてないっていう(笑)。
青山 それは何でだと思ってます?
木ノ戸 やっぱりおもしろいんですね、きっと。それが人同士が関わるということで、逆に面倒くささをなくしたら何がおもしろいんだろう……。
青山 自由と管理、面倒くささの種類が違う感じですよね。本当は管理だって大変で、こちらの思うとおりに子どもたちに言い聞かせるほうが、僕には面倒くさそうと思っちゃいますけど。そして、管理する側に過剰適応してしまうと、「教育欲」とも呼べる人の欲求が表に出やすくなると思うんです。そもそも人間には、もちろん僕も含めて人を教育したい欲があるから、一度覚えるとなかなかその快感から逃れられない。
木ノ戸 ああ、障害福祉の領域でも言う「支援欲」に近いですね。支援するって気持ちが高じてしまうと、暴力性につながってしまう。ただそれも先ほど話に出た暴力性と同じで、僕たち人間がもともと持っている欲が形を変えて出てきているだけなのかもしれないとも思います。
ここで出会う障害のある人たちの多くは「Aに合わせる」ということがすごく苦手で、どうしてもBやCに行ってしまうんですね。だから、それを変えようという考えを支援者が持つこと自体が「無理だ」とわかりやすい。子どもだと、そういった教育が通じてしまうものですか?
青山 恐ろしいけど、表面上はAに向かっちゃえる子は多いんですよね。一見正しく見える教育や発達というストーリーに沿っているから、本人も影響されてしまうと思うんです。でも、無理してきた蓄積はどこかで溢れるんじゃないかなあ。
木ノ戸 やっぱり我慢はし続けられないということですよね。僕も面倒なことは好きじゃないけど、これがないときっと生きていけないんだろうなって。
青山 教育欲には快楽があると言いましたが、子ども自身の「その人らしさ」に出会うことで、少しずつ「それでいいんだ」ってほぐれてくる人は少なくありません。面倒くさいと言いながら関わり合ううちに、変わっていく保護者も多いです。僕自身本当に面倒くさいと思いながらも、人同士が少しでも自由にいられる形を模索し続けているのかもしれません。
Profile
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木ノ戸昌幸
株式会社NPO 代表取締役
1977年生まれ・愛媛県出身。株式会社NPO代表取締役、フリーペーパー『Swinging』編集長、スウィング公共図書館CEO。引きこもり支援NPO、演劇、遺跡発掘、福祉施設勤務等の活動・職を経て、2006年、京都・上賀茂に〈スウィング〉を設立。仕事を「人や社会に働きかけること」と定義し、清掃活動「ゴミコロリ」、芸術創作活動「オレたちひょうげん族」、京都人力交通案内「アナタの行き先、教えます。」等の活動をプロデュース。ギリギリアウトを狙った創造的実践や発信を通して窮屈な社会の規定値を拡張したいと願う。単著に『まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験』(2019/朝日出版社)。
(プロフィール写真撮影:Numata Ryohei)
Profile
- ライター:ウィルソン麻菜
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「物の向こう側」を伝えるライター。製造業や野菜販売の仕事を経て「背景を伝えることで、作る人も使う人も幸せな世の中になる」と信じて、作り手のインタビュー記事や発信サポートをおこなっている。個人向けのインタビューサービス「このひより」の共同代表。現在は、二児の英語子育てに奮闘中。
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連載:マイノリティ化する子どもたちと|青山誠
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