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【画像】指をねぶりながら壁に画をかいている勝山さんのイメージイラスト【画像】指をねぶりながら壁に画をかいている勝山さんのイメージイラスト

「壁画」と「まなざし」 砕け散った瓦礫の中の一瞬の星座 -ケアと表現のメモランダム- vol.04

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ユニークな方法で他者と関わることを「アート」と捉え、音楽や言葉を手立てに、全国の市街地、福祉施設、学校、復興団地などで文化活動を手掛けてきた文化活動家・アサダワタルさんによるエッセイ連載。本連載では、アサダさんがこれまでにケアの現場で経験してきた出来事、育まれてきた表現、人々との関係性を振り返り、揺れや戸惑いも含めて、率直に感じたこと・考えたことを綴っていただきます。(こここ編集部)

vol.01 「指で覆われる景色」 >vol.02 「句点「。」の行方」 >vol.03 「この現場から、「考える」を耕す」

「壁画」と「まなざし」

僕の目の前で、少年はチュパチュパと可愛い仕草で人差し指をねぶり、そしてその唾液の付いた指をそのまま部屋の「壁」に擦り付け、動物の顔を描いてゆく。「ねこ?」とスタッフが反応すると、少年は拳を握りしめた手で胸を叩きながら「ご・り・ら!」と訴える。猫ではなくゴリラだったのだ。次に雪だるま、そして「しんかんせん!」と言いながら車体を描く。唾液が絵の具代わりのイラストはすぐに乾燥し、徐々に消えてゆくだろう。でもこれはあくまで「下絵」だ。このあと、少年は壮大な「壁画」の創作を人知れず始めてゆくのだ。

僕は時折、リサーチに出かける。行ったことのない街の、行ったことのない福祉施設に。「面白い人がいる」という情報を嗅ぎつけ、その方に会いに行く。そしてお話ししたり、つくったものを見せてもらったり、散歩したりする。支援を担当するスタッフにもお話を伺う。普段どんな様子で過ごしているか。いつからその行為を始めたのか。きっかけは? その後の変化は? その行為をスタッフとしてどう受け止めていますか? などなど。

2019年に出会って衝撃を受けたのが、勝山直斗さんだ。紹介してくれたのは、埼玉県内で障害のある方の表現活動を先駆的に支援し、近隣の事業所とも密に連携しながら展覧会をおこなっている知人。「部屋の壁一面に絵を描いている少年がいる」と聞いて訪ねた先は、さいたま市内にある知的障害児が暮らす入所施設「久美学園」。そこに13歳(2019年取材当時)の勝山少年は居た。

普段から絵を描くのが大好きな勝山少年は、スタッフから鉛筆や画用紙をもらい、乗り物や動物、植物などを描くのが日課だ。そんな彼はある時、インフルエンザに罹ってしまう。入所施設なので、感染が広がったら大変だ。だから数日間は、他の人と接触しないように、個室で過ごすことになる。勝山少年は絵を描くことを怠らない。でも、慌ただしい対応のなか、スタッフが絵を描く道具を渡しそびれたその結果……。彼はなんと唾液を指につけ、ゴシゴシとゆっくり部屋の壁紙を剥がすという驚きの「創作」を開始。

深く削って現れる壁紙の層の色と、浅めに削って浮き出る層の色とが、独特かつ豊かに混じり合い(そもそも壁紙って何層にもわたっているのか!)、それがとても優しい風合いの模様を生み出す。剥がされた壁紙は当然ポロポロと地面に落ちてゆくわけだけど、さらにすごいことに、勝山少年はその壁紙の断片を一旦口に含んで唾液を馴染ませ、それを指でつまんで出して捏ねて丸めて宙に「ポイっ」と投げる。するとまだ粘着力が残っている断片が部屋の天井のあちこちに付着するのだ。さらには、後日手に入れたマーカーペンで畳の上にまで描くものだから、もう部屋全体が彼の「インスタレーション」として埋め尽くされてゆくのだ。

【画像】勝山さんが描いた壁画のイメージを伝えるイラスト

「夜な夜な、ちょこっとずつやってる感じですね」と答えるのはスタッフの小川さん。「壁画」のパーツを一つひとつ指差し確認しながら解説してくれる。

「何を描いているのか一つずつ決まってて“猫”とか“犬”とか。一緒にいるとちゃんと説明してくれます。“カニ”とか、これだと”アンパンマン”とか”カタツムリ”とか」

施設長の柏田さんも同席してくれて、僕が壁紙の層による色の違いに驚いていたら、「一番はじめに壁紙があるからそれをバーっと剥がして、ここをこう。何層にも……5層くらいになっているんですよね。こここう、唾で削っていきます」とジェスチャー付きで創作のディテールを伝えてくれる。

そうこうしていると、勝山少年が特別支援学校から帰ってきた。他の子も一斉に帰ってくるから施設が一気に活気付く。「おおがたばすに!(「大型バスに乗っています」という歌詞がある曲のフレーズ)」と連呼しながら興味深そうに、僕のところに近づいてくる勝山少年。彼がこれまで制作をしてきた部屋を、直接案内していただく贅沢な時間がスタート! 風邪や体調不良で移動した先々の部屋で描くので、「壁画」は複数にわたっているのだ。

そして冒頭に書いた、勝山少年の「下絵」制作が突如始まる。じっと見入る。会話が止まる。これは何だろう、静かに非日常が歩み寄ってくるような不思議な感覚だ。ちょっとひと段落したところで、「周りに人が居てもこうして描いてくれるんですか?」と小川さんに尋ねる。

「あんまりいないときにやることが多いです。寝たあとに少しずつ」

「これやってたら寝れないよね(笑)。こんな量……勝山さん、ちゃんと寝れてる?夜な夜なだよね。すごい量だよね。剥がすのを考えたらすごい時間だよね」と思わず畳み掛ける僕に対して、勝山少年は意に関せず。すみません……、つい興奮してうるさくして。彼はただただ描いたモチーフを「しん、かん、せん!」「でー、ん、しゃ!」と、連呼するのみだった。

【画像】指をねぶりながら壁画をかく勝山さんのイメージイラスト

素敵だ。この「壁画」は感動する。
でも、「悩むこともあった」と施設長 柏田さんは話す。

「見方によってはこれは物損行為なんですよね。壁を剥がすって。修繕する暇もなかったけど(笑)。畳とかも決してペンを渡したんじゃなくて、ペンを持っていっちゃったんですよ、知らないうちに。描かせてあげたわけじゃなく、描いちゃった」

僕ががっつり関わっている品川の現場でも、壁の破損は日常茶飯事だ。あるメンバーさんは気に食わないことがあると壁にグーで一撃。他のあるメンバーさんは床に寝転んだまま蹴りでドンドン。壁はしょっちゅう穴が開いたり、ひび割れたりする。そして区に始末書を書く……。それに比べたら、勝山少年の行為はまぁ壁自体の構造は破壊していないので……。うーん、どうなのかな。畳に描くのもまぁ大したことないと言えるかもしれないが……。でも、そこは塵も積もれば……である。施設のハード面へのダメージはじわじわ響いてくるだろう。しかし、彼はそんなことは関係なくどこまでも描く。

「描きたかったんだと思います。描きたくて、描きたくて。障害でいうとかなり重度で、目を離すといなくなっちゃうんですよね。外出するにも職員が手を離せないような子で。そのなかでも描くときは静かで、落ち着いて集中しているところがあるんです」

そんな勝山少年を見守る柏田さんや小川さんたちに変化が訪れる。このリサーチのきっかけを与えてくれた埼玉県内の「アートセンター集」とのつながりがきっかけだ。

「みんな”すごいね、上手だね”ってだけ言ってたところが、集さんがやってるミーティングに参加するようになって、“ああ、アートっていう見方があるんだ”となったのが本当に最近です。“うまい”としか言ってなかったのに、”アート”っていう。実際にここまですごいんだって感覚が職員の中にはなくて」

そう、柏田さんや小川さんたちスタッフは、こうして勝山少年の行為を物損行為としてのみ捉えるのではなく、「これは彼の独自の表現なんだ!」と読み替えていった。柏田さんはさらに興味深いことを言った。

「やっぱり生活の場なので、彼の表現を守りたいは守りたいんですけど、他の方の居室でもあるので、他の人が剥いでしまうのも止めようがなく、このまま自然に消えていく可能性もある。それで、この建物を立てた建築会社の方を呼んで、壁外せるか相談しようかと。予算の関係で一回だけになっちゃんうんですけど。もしあの壁が外れるなら、今の状態だけでもせめて一枚キープしてあげたいな、と」

この発言、何気にすごくないだろうか。「壁のキープ」って、そんな話、聞いたことがない。なんだか笑えるけど、笑えるだけでない。「支援」が明らかに伸び伸び柔らかく広がってゆく。そんな優しいイメージがその言葉から感じられたのだ。

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「“アート”っていう見方があるんだ」

柏田さんのこの言葉を、僕は「まなざし」という言葉で表してみる。そう、スタッフたちは支援における新たな「まなざし」を獲得していったのだ。なんで、支援にアートが必要なのか? 表現活動が大切なのか? この問いにスバっと答えるのは難しい。

だって、一人ひとりまったく異なる個性を持った障害当事者に対して行う支援のあり方は当然ながら三者三様だし、全員にアートが等しく必要かなんてまったく思わない。ただ、アートには、ものの見方をガラリと変えてくれる、価値を反転させる力がある。その人に寄り添う支援者がその人のある行為を「問題行動」として捉え制止することは往々にしてあるし、実際他人を傷つける行為や、その人自身の身体や生命に危険が及ぶ行為は速やかなに対応しないといけない。

でも、問題行動にも様々なレベルがあり、グラデーションがあることを踏まえたとき、もし支援者に感性的・美的な「まなざし」が備わっていたなら。その行為をもう一歩踏み込んで 、「その人なりの他者との独自の関わり方=コミュニケーションのかたち」なのではないかと捉え直すことができるだろう。そうすれば、具体的な支援のあり方に確実な変化が訪れる。支援の間口がパーっと広がるのだ。

アートの効能は他にもまだある。自分にとって身近なメンバーさんの行為を新たな「まなざし」で捉えたその先にある、支援者であるはずだった「私」の変化だ。支援者はメンバーさんの表現をサポートしているようで、彼ら彼女らのその「やり方」を通じて、その感覚に「感染」しているのではないか。そう。勝山少年が作り上げたあの「壁画」に、柏田さんや小川さんは明らかに「感染」したのだ。僕もこれまで出会ってきた障害当事者による表現に何度も「感染」している。

支援を通じて、相手を変えようとする前に、「私」こそが変わってしまうという体験。大げさに聞こえるかもしれないが、ひとつの「問題行動」を「アート」と読み替えられるならば、その法則をより一般化することで、社会の自明性が相対化される地平にまで行き着けるのではないか。つまり、何が「まとも」で、何が「まとも」でないのか。どこまでが「ふつう」で、どこからが「ふつう」でなくなるのか……。

考えてみれば、私たちは常にこの問いに向き合って、日々生きていないだろうか。会社でも、学校でも、スマホやテレビから流れるニュースからも、そして分かり合えているはずの恋人や家族や親しい友人と共にいる時間でさえ……(ここでは踏み込まないけど、コロナ禍になって、社会の自明性に対する感度はみなさん否応無しに上がったのでは?)

ここまで書いてきて改めて思う。もし「アートで支援ができるから導入しよう」、「表現活動を通じてメンバーさんの能力を開発しよう」と“だけ”思うなら、それは強い言葉だけど非倫理的な態度かもしれない。答えのないゲームを共にすることで「自分も変えられてしまう」という体験を覚悟せず、メンバーさんにだけ変化を求める(仮に「その人のためにやっている!」という強い気持ちがあったとしても)思考であるなら、それは一方的で、不均衡で、凝り固まった支援観なのではないか。

「私」も対等にその場を楽しむという覚悟をもって関わるときに、アートである意味が初めて成立するだろう。仮に支援職として「その人のために」と“なりすます”としても、そのことを強く自覚しておくことが、むしろ倫理的な態度だと、僕は思う。

 


*参考資料:厚生労働省 令和元年度 障害者芸術文化活動普及支援事業 南関東・甲信ブロック 広域センター『東京アール・ブリュットサポートセンターRights 報告書 まなざしラジオ!!』(2020年3月31日発行)


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連載:砕け散った瓦礫の中の一瞬の星座 -ケアと表現のメモランダム-