福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【画像】ビデオカメラをもち、木の下に立ついまむらあやこさん【画像】ビデオカメラをもち、木の下に立ついまむらあやこさん

今村彩子さん【映画監督】 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道 vol.12

  1. トップ
  2. 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道
  3. 今村彩子さん【映画監督】

手話を第一言語とする「ろう者」はどんな仕事をしているのでしょうか。

連載「働くろう者を訪ねて」では、写真家であり、ろう者である齋藤陽道が、さまざまな人と出会いながらポートレート撮影とインタビューを重ねていきます。

最終的な目的は、働くろう者たちの肖像を1冊の本にすること。その人の存在感を伝える1枚の写真の力を信じて、「21世紀、こうして働くろう者がいた」という肖像を残していきます。(連載全体のステートメントはこちらのページから)

第12回は愛知県名古屋市で映画監督として働く、今村彩子さんを訪ねました。

今村彩子さん【映画監督】

【画像】ビデオカメラをもち、木の下に立ついまむらあやこさん

―お名前、年齢、ご職業は?

私の名前は今村彩子、42歳です。映画をつくっています。

―出身地はどこですか。

愛知県名古屋市です。

―今まで通っていた学校はどこですか。

2歳のときに聞こえないということがわかって、名古屋市の千種ろう学校幼稚部へ入りました。小・中学校は地元の学校へ通い、中学2年生から3年生までは愛知県立豊橋ろう学校。高等部は千葉県の筑波大学附属聴覚特別支援学校(筑波付属ろう)へ。でも合わなくて、高等部1年生の3学期から、豊橋ろう学校高等部に転入しました。高等部卒業後は愛知教育大学教育学部に入りました。

だからたくさんの制服を持っていました。夏服冬服と制服代がかかっちゃって親には負担かけてしまったけど、今となっては笑い話になっています。

地元の中学校へ通っていた間はいじめられ、場に馴染まず、3ヶ月間不登校になっていました。母親が心配して、「ろう学校へ行ってみる?」と提案してくれましたが、当時の私はろう学校も手話も大嫌いでした。「手話は日本語の読み書きができない人、話せない人が使うもの」という偏見を持っていました。

でも地元の中学校にはもう行きたくない、と悩んでいたので仕方がなく、ろう学校へ転入しました。そこには幼稚部時代の幼馴染たちがいたので、少しは安心できました。

それにね、一つ上の学年にかっこよくてやさしいツッパリの先輩がいて、一目惚れしたんです。完全に恋しちゃってね、「ああ、ろうに生まれてよかった!」と思っちゃうほど。その先輩ともっと話したくて、すごい勢いで手話を覚えました。

―こどものときの夢は何でしたか。

童話作家。小学生の私は本の虫で、ごはんより本に夢中でした。挿絵をいろいろ描いたり、アトリエにも通ったりしていました。

その後に興味を持ったのが映画監督で、そのうち映画監督とろう学校の先生の両方になりたいと考えた時期も。

先生になりたいと思ったきっかけは、筑波付属ろう高等部で出会ったろうの先生です。その先生に対しては心を開くことができ、いろいろと相談していました。自分もろう学校の先生になって、きこえない子ども達の相談相手になれたらという思いが芽生えました。

―映画監督になろうと思ったきっかけは?

家族はみんな聞こえていて、私だけ聞こえない。家族全員で映画やテレビを見ていたらみんなが笑って盛り上がっている。母がときどき通訳してくれたけど全部はわからない。「ああ、寂しいな」と思ったんです。小学2、3年生のときでした。

その様子を気にしていた父が洋画の日本語字幕付きビデオを借りてきました。はじめて観た洋画は「E.T.」でした。字幕のおかげで内容がすごく伝わってきて、物語自体にも感動しました。その様子が父にも伝わったようで、毎週いろんな洋画のビデオを借りてきてくれました。「E.T.」は今でも一番好きな映画です。

小学校の同級生とはうまくコミュニケーションがとれませんでした。それでも、家に帰るとビデオがある。映画がある。字幕があるからわかる。映画から生きる勇気をもらえました。

私もいつか映画を作って、誰かに生きる勇気を伝えたいと思ったんです。

―映画監督になれるまで、どのような過程がありましたか?

20歳から映画を作り始めたから、今年で22年目になります。

19歳のとき、愛知教育大学教育学部在籍中にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校へ留学し、映画制作を学びました。帰国後は復学したんですが、大学のほうをおざなりにして、映画を撮りに行っていたので教授に叱られました。

「あなたの本業は映画を撮ることではない。大学で学ぶことです。あなたが手話通訳者などを要望したので情報制度を整えたのに……」と。まあ、とにかく、謝りましたが、もう映画を撮ることに夢中でした。

―これまでの職歴、経歴は?

大学を卒業しても、相変わらず映画のことばかり考えていました。いきなり映画だけでは食べていけないな、と思っていたので、就職活動ではいくつかのテレビ局を受けました。でも全部落ちてしまって。悔しくって。もうこうなったら自分でやっちゃおう!と、25歳で「Studio AYA」を設立しました。

教員免許を持っていたので、週に3日は豊橋ろう学校で非常勤講師をして、それ以外は映画を撮っていました。今は愛知学院大学で講師をしながら映画製作をしています。

―制作での主なテーマは?

幼いころから悩んでいたテーマが「コミュニケーション」なんです。人間関係……。なので映画制作するときはそれが主なテーマとなっています。これまでは30本以上制作しています。

はじめて制作したのは豊橋ろう学校のドキュメンタリー。それを名古屋ビデオコンテストに応募したら優秀賞をいただきました。第一作目を応募する、しかもそれで賞を取るなんてそうそうないと言われました。

でも私は目的がないと燃えない。目的があると意欲が出てきて制作し始めることができるタイプなんです。

その作品のため、豊橋ろう学校で2日間撮影をしたときに印象深い事がありました。聴者のリポーターと2人で行ったんです。私はカメラを持ってずっと撮影。

彼はろう者の友人がいて、手話も少しできるので、ろう生徒との会話に戸惑いはなさそうでした。その夜、彼は男子生徒と一緒にごはんを食べたりお風呂に入ったようです。

撮影終了後、彼はいろいろ語ってくれました。

「ろうの友人はいるけど、実は、その友人に対して、かわいそうとか…そういうことを思っていたんだ。でもこの2日間、ろう生徒と一緒に過ごしてみて、かわいそうなのは自分のほうだって気づいたよ」

思いがけない一言でした。そういうのを狙ってのキャスティングではなかったのでびっくりしました。この作品は「ろう学校は楽しい」でまとめようと思っていたんですが、彼の感想も撮り、作品に組み込みました。振り返れば、当時の私の映像技術は未熟でしたが、撮影に同行していたリポーターの強い想いが、審査員に伝わって受賞できたのかもしれません。

彼とのやりとりがきっかけで、自分の進むべき道、撮るべきものの軸が決まりました。創作ではなく、ドキュメンタリーを作りたい。生きる人々を撮り続けたい。この第一作目は私の大きな起点となっています。

手話サークルに通う聴者から「ろう学校って暗く、ネガティブなイメージがあったんだけど、第一作目を見てびっくりしました。一般の学校とそんなに変わらないんですね」という感想をもらったんです。それを聞いて、自分のドキュメンタリーには伝える力があるんだ、と手応えを感じました。

―「Studio AYA」のメンバーは? どのように制作をしていますか?

私と経理担当のスタッフさんで、2人です。スタッフさんは週1回、事務所へ来てくれています。

20代は撮影、編集、広告、経理などすべて私一人でやっていました。30代に入ってからはそれぞれのプロへ依頼するようになりました。経費はかかりますがそのぶん、良いものが仕上がります。作品によって依頼するカメラマンを変えています。

多くの聴者にも観てほしい。私の映画をきっかけに、ろう者のことや日常を知ってほしいので音響、音楽にも気を配っています。なので、音響関係のスタッフも信頼しているひとにお願いしています。彼らから学ぶことは様々で、私の大きな財産になっています。

―5年後の自分は、どうなっていると思いますか?

映画を作っていると思います。死ぬまでずっと。20代、30代、そして今。心境が変わってきています。これからも新しい経験や出会いをして、また変化していきます。私がどんな映画を作ってるかは、5年後の自分にお任せですね。楽しみです。

―好きなたべものは何ですか?

お菓子は、芋けんぴが好きです。手が止まらない。あとは、豚の生姜焼き。

―最近幸せだと思ったことは何ですか?

やっぱり、上映会や映画館でお客さんから感想をいただけたときが嬉しい。上映されるまではずっと緊張しっぱなしです。怖い。不安。見に来てくれるひといるのかな、と。映画館に来てくれたひとたちを見ると「来てくれてありがとう」っていう嬉しい気持ちで胸がいっぱいになります。

インタビュー動画(手話)

インタビューの様子や、日常の様子をまとめたこの映像には、音声も字幕もテロップもありません。写真だけではどうしてもわからない、その人の手話の使い方に滲みでてくることばの特徴を感じてもらうためです。
たとえ手話がわからなくても、そのリズムに目をゆだねてみてください。じわりと浸透する何かが、きっとあります。「こういうふうに話す人なんだなあ」と知ってもらった上で、写真を見てもらうと、見え方がまた変わります。

Series

連載:働くろう者を訪ねて|齋藤陽道