福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】水色のシャツを着ているみずたにさん。メガネをかけている。【写真】水色のシャツを着ているみずたにさん。メガネをかけている。

“困った”は恥ずかしいことじゃない。「わだちコンピュータハウス」水谷真さんのまなざし 福祉のしごとにん vol.17

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同じ空間にいるだけで緊張する上司との関係が、ガラッと変化した経験がある。

あまり笑わず、荒っぽい言葉を使う人だった。若手社員はみんな彼を恐れていて、なるべく関わらないのがベターというのが暗黙の了解だった。入社後半年で彼のチームに異動になることを知らされたときの、暗澹たる気持ちをよく覚えている。

案の定、私たちは良い関係を築けているとは言えなかった。彼のどんな発言に対しても、私は「はい」としか応答しなかったし、「そんな理不尽な……」と感じることがあってもこわくて意見できなかったのだ。

何か月経った頃だろうか。どうしても我慢できないことがあり、「もう辞めてもいいや」という覚悟で反論した。我慢していた分、ずいぶん生意気な物言いになったと思う。すると上司は目を見開いて驚いた様子を見せ、「失敗したら俺が責任をとるから好きなようにやってみな」とニヤリとした。私が意見する日を、待ち構えていたかのようだった。

そこから私たちは、言いたいことを言い合う関係になった。自分の気持ちや困りごとを正直に発信した瞬間、私にとっての「働きやすさ」は大幅に改善されたのだ。

率直に話し合える関係性が、こんなにも「働きやすさ」に直結すると学んだにもかかわらず、私はその教訓をなかなか生かせないでいる。なぜ自分の気持ちや困りごとを発信するのは、こんなにもむずかしいのだろう。

そんな思いをたずさえて話を伺ったのは、名古屋市にある「わだちコンピュータハウス」の水谷真(みずたに・まこと)さんだ。

1984年に小さな無認可作業所として生まれた「わだちコンピュータハウス」。水谷さんは、その黎明期から30年以上現場に立ち続け、仲間たちとともに「障害がある人が力を発揮できる場所」を模索し続けてきた。バリアフリーのまちづくり、ITへの参入、行政へのコンサルティング、災害支援――事業の形は時代とともに大きく変わってきたが、根底に一貫してあるのは「一人ひとりの声をどう拾い上げるか」ということを大切にしてきた歩みだ。

何が働きやすい場所をつくるのか。水谷さんの歩みをたどりながら、その答えを探ってみたい。

相手の世界に一緒にもぐりこんでいくこと

高校時代は帰宅部で、読書に親しんでいたという水谷さん。「ブルーバックス」などの科学系新書を好んで読むかたわら、ユングの深層心理学にも興味を持つようになったそう。

名古屋大学に進学して心理学を専攻すると、関心は臨床心理、とりわけ児童心理へと移っていった。障害児の療育グループにも関わり、卒業後は心理判定員として、児童相談所に勤めた。「自閉症」の子どもたちとの関わりに惹かれていた、と当時を振り返る。

わたしが出会った彼らは、自分の中の興味の回路がぐるぐる回っている世界で生きていて、そこに一緒にもぐりこんでいくのが非常に面白かったです。今は「自閉症」ではなく「自閉スペクトラム症」という言い方になっていますけど、スペクトラム(連続体)とあるように、こだわるポイントや、度合いにグラデーションのような違いがあるだけなんですよね。彼らと接するなかで「自分の中にもこういうところあるよな」と親近感を抱いていました。

一口に「自閉スペクトラム症」といっても、その特性は多種多様だ。社会との間に存在してしまう障害も一人ひとり異なる。その前提はありつつも、水谷さんは「“こだわりの世界”は大なり小なりみんな持っているのでは」と話す。

相談所の仕事のおもしろさは感じつつも、当時の職場は「専門職として働く」という理想とは少し違う場所だった。「県庁から出向してきて、あと何年で戻れるかを日々数えているような人が多くて、なかなか馴染めなかった」。上司からのパワーハラスメントも重なり、水谷さんは転職を考えるようになる。

【写真】インタビューにこたえるみずたにさん

そんな折、大学の先輩を通じて知ったのが、名古屋で障害当事者が自ら福祉のあり方を切り拓いていた団体「AJU」だった。

見学に訪れたのは、古い木造の教会を間借りした、無認可の作業所。そこには、四肢麻痺がある人を中心に障害のある人が自分の生活を良くしていこうと行動する「非常に生き生きとした姿があった」という。

工賃が月数百円というところに甘んじてきた人たちが、こんなはずじゃない、もっと能力を生かせるはずだと作ったのが、わだち作業所だったんです。自分たちで社会福祉法人を立ち上げて、職員に管理されるんじゃなく障害のある人たちが主体になって働くんだ、という心意気に惹かれました。

社会人3年目の1988年、水谷さんは思い切って転職を決める。

仕事は「お米を炊くところから」

入ってすぐのころは、まさに何でも屋だった。朝はお米を洗って炊くところからスタートし、冬はストーブに灯油を入れ、時にはネズミにかじられた配線の断線トラブルにも対応する。当時の作業所は、車いすを使う障害当事者の所長・山田昭義さんを含めてわずか3人で運営されており、力仕事や介助、営業などのあらゆる作業が水谷さんの役割になっていった。

決して「働きやすい」環境ではなかったはずだが、それでも水谷さんが続けられた理由を聞くと、月に一度設けられていた「フューチャートーク」という時間のことを教えてくれた。どんな職場にしていきたいか、自分の将来をどう描くか、みんなで夢を語り合う場だったという。

一人前の給料をもらったら独り立ちして地域で暮らしたいとか、結婚して子どもをもうけたいとか、みんなが夢を語っていました。もっと自立しよう、前に出よう、稼ごうというモチベーションが非常に高くて、やる気をもらっていましたね。

障害のある人が指示を出し、仕事を進めるモデル

【写真】わだちの外観。3階建てになっている

1990年、無認可だったわだち作業所は社会福祉法人「AJU自立の家」を設立し、身体障害者通所授産施設「わだちコンピュータハウス」をスタート。パソコンがまだ一般に普及する前の時代。最初の仕事は4万件の実態調査の入力作業だった。

わだちコンピュータハウスの仕事のあり方で興味深いのが、「障害のある所員が、健常者に指示を出しながら働く」というモデルだ。大学の前でビラを配り、作業してくれる人を集める。そうして集まった人たちに所員が仕様を説明し、チェックをして精度を上げていく。いわば管理者としての役割を担う仕組みがつくられていった。

当時、名古屋にはヘルパー制度がまだなく、重度障害者が地域で生活しようと思えば自分でボランティアを探し、介助のやり方を教える必要がありました。障害のある人たちが自ら指示をして生活を回していくしかなかった。それと同じように、仕事もできるはずだという思いでやっていました。

手書きの文章をワープロで清書するだけで仕事になった時代もあれば、企業から毎週何千件と届くユーザー登録はがきをデータ入力する仕事が、売上の大半を占めた時期もあったそう。

1996年度には売上1億円を突破し、利用者の平均月額工賃は10万円を突破。この工賃は、重度四肢麻痺の利用者が中心の就労支援施設では異例だという。

昔から、障害のある人は、働けない、能力が低いなどと言われてきました。でもそんな人たちがここでは活躍して、お客さんに喜ばれる仕事をしている。ゴルフ場のシステムをつくった所員は重度の四肢麻痺で、足の親指でPCを操作していました。バッグヤードの人たちに聞き取りをして、何に不便を感じ、どこを効率化したいかを把握してシステムを開発したんです。所員たちがそんなふうに、世間の常識をひっくり返してくれることがとても愉快でしたね。

失敗しても「次に生かそう」「謝るの俺がやるから大丈夫だ」と言ってくれる上司

水谷さんの仕事観を形づくってきたものの一つが、所長だった山田昭義さんの「迷ったらやってみろ」という言葉だ。データ入力の仕事から一歩踏み出し、行政の福祉計画づくりにコンサルタントとして関わることになったときのことを、こう振り返る。

「やってみたら?」って簡単に言われたんですけど、「コンサルなんてできるわけがない」と思っていたんです。行政に向けて提案する立場になるなんて、当時は全然考えられませんでした。

それでも、山田さんの「失敗したらまた挑戦すればいい」という言葉に背中を押されるように一歩を踏み出した。

だが当時の愛知県の担当課長は、水谷さんたちがまとめた報告書を「こんな分析はおかしい」と一蹴。水谷さんは山田さんに相談し、成果物には自信がある。納得がいかないのなら、お金は要らない、契約破棄で構わないという覚悟でもう一度県庁を訪ねたという。そこで山田さんが課長を説得し、最終的には受け入れてもらうことができた。

ところが話はそれだけでは終わらない。

こちらが謝って終わる話だと思っていました。それが「福祉のコンサルティングをやっている業者がほかにいないから、今後もやってほしい」と担当者から言われたんです。

これがきっかけで、のちに愛知県内で策定される障害福祉計画の約4分の1を、わだちコンピュータハウスが受諾していた時期もあるという。

本当に自信になりましたね。失敗しても咎めるのではなく「次に生かそう」「謝るの俺がやるから大丈夫だ」と言ってくれるリーダーがいたから、現状維持ではなく、挑戦した先でどんどん広がっていったのだと思います。

「アリバイ作り」にしない、当事者参画のあり方

思わぬ形で始まったコンサルティング事業は広がりを見せ、2005年に開港した中部国際空港や、同年に開催された「愛・地球博」といった国家プロジェクトにも参画した。

バリアフリーやユニバーサルデザインの計画には、当事者目線に加えて建物の構造や動線に関する専門知識も欠かせない。そこでAJU自立の家は、山田さんを中心に大学の研究者など外部の専門家を頼り、少しずつ協力してくれる人たちのネットワークを広げていった。「わたしの器では、とてもネットワークを作れなかった。山田さんのおかげだ」と水谷さんは語る。

名古屋大学を訪ねて、ユニバーサルデザインの研究をされていた谷口元先生に協力をお願いしたのが最初でした。また、中部国際空港の計画に尽力された竹内伝史先生からは、磯部友彦先生をご紹介いただきました。磯部先生は中部大学で交通工学や都市交通計画を専門としており、つながりから少しずつ協力してくださる学識者の方が増えていったんです。

こうしてできたつながりはやがて、福祉の視点からまちづくりや建築のあり方を研究する「福祉のまちづくり学会」の東海北陸支部という形になり、愛・地球博記念公園内にできた「ジブリパーク」や、名古屋市に新設された国内最大級の「IGアリーナ」といった大規模プロジェクトの基盤にもなった。

水谷さんはこれらの仕事を振り返り、「『障害者の声を聞きました』というアリバイ作りに終わらせないことが大切」だと話す。

意見を述べて終わりじゃなくて、それがどう反映されたかを必ずフィードバックしてもらう。基本設計、実施設計、施工段階、竣工前、オープン後と、いろいろな段階でチェックを重ねて見直していかないと、本当にいいものにはならないんです。

中部国際空港では、車いすユーザーがバリアフリートイレだけでなく一般トイレも使えるようにと、奥行きや開口部を広く設計した。すると、キャリーケースなどの大きな荷物を持つ人や、ベビーカーを押す人からも「使いやすくなった」との声が届いたという。

中部国際空港が一つのモデルになって、羽田や成田、新千歳でも同じような見直しがされるようになりました。これは我々の誇りですね。

一人の困りごとに向き合うことが、じつは多くの人の困りごとを解消する。そんな循環を、水谷さんたちは仕事を通じて何度も体感してきたのだろう。

2025年6月、国土交通省が「建築プロジェクトの当事者参画ガイドライン」を策定。2030年以降、対象となる公共建築物を設計する際は、高齢者や障害のある人たちなどの当事者参画を原則100パーセントにすると掲げたことに触れ、水谷さんは「ようやくここまできました」と喜びをにじませた。

被災地で孤立する人たちの声

もうひとつ、水谷さんたちが力を入れてきたのが、災害時の障害者支援だ。阪神淡路大震災の頃から、被災した障害のある人たちを緊急避難させたり、いち早く現場に入って、報道では伝わってこない要配慮者の状況をキャッチし、支援につなげたりしてきた。東日本大震災の際には、「介助者が被災して障害のある人たちが生活できなくなってるから、至急スタッフをよこしてほしい」という一本の電話だけを頼りに、翌日には5名の先遣隊を送り出した。

災害の現場で繰り返し目にしてきたのは、支援が必要な人ほど避難所にたどり着けなかったり、孤立してしまったりする皮肉な現実だったという。

被災した障害のある人たちに「大丈夫ですか」と聞くと、多くの人が「大丈夫です」と答えます。でも「これまでどうやって生活してきましたか」「薬は途中で切れませんでしたか」と具体的に聞いていくと、まったく大丈夫じゃないことがわかってくる。よそと比べて自分たちはまだましだと言い聞かせながら、困難を抱え込んでいる人が数多くいました。そうした孤立が、震災関連死につながってしまうケースを何度も見てきたんです。

そもそも、なぜ孤立が生まれてしまうのか。水谷さんは、避難所に来られない人が見過ごされてしまう構造を指摘する。

孤立するのは、避難所に行くことができないから。避難所に行けないと、避難者名簿にもつながらないし、食料の数にもカウントされません。「家にいる人は大丈夫だろう」と判断され、避難所に来る人しか“見えていなかった”んですね。なんとか避難所にたどり着いたとしても、今度は自分の居場所がないと悟ってしまう障害のある人たちが、圧倒的に多かったんです。

避難所という同じ空間にいることさえ、特性によっては大きな負担になる。声を上げてもらわなければ気づけないことのひとつだと水谷さんは言う。

「孤立している人を見つけて、その声を拾い上げられる仕組みができないと、いつまでたっても状況はよくならない」というのが、水谷さんたちが得た教訓だ。

自治体に向けて、被災した障害当事者や支援団体の人に、実際にどう困っていたかを語ってもらう。そうやって当事者と連携しながら、避難計画に盛り込んでもらうよう働きかけを続けています。

「大丈夫です」の裏にある本音を、どうすくいとるか。それは災害現場に限らず、日々の職場や暮らしの中にも通じる問いのように思える。

「誰もが暮らしやすいまち」も「働きやすい場所」も、誰かが最初から完璧な仕組みを用意してくれるわけではない。異なる背景を持つもの同士が集う以上、一朝一夕でできるものでもない。話し合いながら、時に失敗しながら、一人ひとりが声を上げたり挑戦したりできる場をその都度つくり直していった積み重ねの先にそういった環境があるのかもしれない。

「フューチャートーク」のエピソードを聞いたあと、「水谷さんはどんな夢を持っていたんですか?」と尋ねると、「僕自身がどうなりたいかはあまり考えてなかった」と水谷さんは笑った。コンサルティング事業の拡大も、災害支援も、行き当たった先で出会った人たちの声に応えてきた結果だ。水谷さん自身が何かを成し遂げたいというより、目の前の「困った」に耳を傾け、仲間や当事者とともに一つひとつの場をつくり直してきた。そうして積み重ねてきた三十数年だったのだろう。

目の前の人がどうありたいかをともに考え続けること。それが水谷さんにとっての「どうありたいか」だったのかもしれない、と想像する。

【わだちコンピュータハウス訪問記】


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連載:福祉のしごとにん