福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】インタビューにこたえるさいとうさん【写真】インタビューにこたえるさいとうさん

共に暮らし、支え合える仕組みをつくる。「わっぱの会」斎藤縣三さんが歩んだ半世紀 福祉のしごとにん vol.16

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「これはあんぱん。これはピロシキ。これはチョコで…」

平日の昼下がり、名古屋市にある桜山駅を訪れたときのこと。小腹を埋めようと駅を出たところで、たまたまパンの行商をしている人を見つけた。

丁寧な説明を聞きながらさんざん迷った挙句、後ろに並んでいる人がいることに気づき、あんぱんと大きなくるみパンを急いで買った。

天気がよかったので近くのベンチであんぱんを頬張る。ほどよい甘さのあんこと、ふわふわの生地がすごく好み。

私がものの2分ほどでぺろりとたいらげたこのパンは、「わっぱの会」が製造・販売する「わっぱん」だ。食の安全性に着目し、自家農場の小麦を使って無添加にこだわり、1984年から長く愛され続けている。障害がある人もない人も、日本人も外国人も、若い人も高齢の人も、いろいろな人が混じり合って、わっぱんはつくられている。

「障害がある人もない人も共に働き、助け合える場所」をつくろうと、たった3名でスタートしたわっぱの会は、現在400人以上の仲間と複数の事業を展開。2025年の事業高は18億円にのぼった。

独自の仕組みをつくることで理想を現実に手繰り寄せてきた代表の斎藤縣三さんに、これまでの歩みを聞いた。

学生時代、自分たちの手で「暮らしの場」を

大学時代、斎藤さんは福祉とは縁のない学生だった。転機は、友人に誘われて携わった「フレンズ国際ワークキャンプ(以下、FIWC)」。FIWCは、「貧困や差別など社会問題の発生している現場に出かけ、労働という手段を通して問題の解決を目指していこうとする団体」だ。

当時は、地域の人たちが住む場所から離れた山の中に、知的障害のある人が入る施設がどんどんできていた時代でした。愛知や三重にある施設にボランティアとして参加していたんです。

さまざまな施設を訪れているうちに、斎藤さんは違和感を覚えはじめた。鍵のかかった扉、フェンスに囲まれた敷地、入所者が「自由に外へ出ることが基本的にできない」という仕組みが当たり前の時代だった。お盆や正月など特定の日にしか帰省が認められず、それさえかなわない人もいた。

自分たちは好きな時にワークキャンプをしに行って、また帰ってくる。でも障害のある人たちは、施設に入ったらずっとそこにいなければならない。大学に通いながらボランティアをしている自分との立場の違いを、すごく感じました。

今でも鮮明に覚えている景色がある。毎回キャンプを終えて帰るとき、一緒に過ごし親しくなった入所者たちがフェンス越しに、見えなくなるまで手を振り続けてくれた。

その姿を見るのがとてもつらかった。障害のある人のためにあるべき福祉施設が隔離・収容する場になっていて、明らかに矛盾していると思いました。

【写真】インタビューにこたえるさいとうさん

1970年当時は学生運動が盛んな時代でもあった。斎藤さんには、大学のなかでいくら声を上げても世の中は何も変わらないという感覚があったという。そのもどかしさは、「自分たちの手で、街のなかに暮らしの場をつくればいいじゃないか」という思いへ変わっていく。

仲間と名古屋の街頭に立ち、自分たちの考えをまとめた冊子を手渡しながらカンパを集め始めた。最終的に約五百万円が集まり、滋賀県での拠点づくりを試みる。しかし街から離れた立地になってしまったことから「自分たちの思いとは、ずれてしまう」と感じ、頓挫した。

お金は使い果たしてしまいました。市民に対して、そういう場所をつくると言っておきながら、何もできないままでは済まない。責任を感じました。

斎藤さんは大学を中退、町工場に就職する。そこは知的障害者を16名雇用し、「福祉工場」と銘打たれている場所だった。

町工場で働きながら、障害のある人もない人も同じ屋根の下で

【写真】団地の敷地内に立つさいとうさん

町工場で働きながらも、拠点づくりを模索していた斎藤さん。まず、わっぱの会の前身となる「共同生活体」を立ち上げた。一軒家を借り、障害のある人もない人も同じ屋根の下で暮らし、財布を一つにして生活費を出し合う。最初は3名だったメンバーが、1年足らずのうちに7、8人に増えていった。

みんなで家事を分担して、一緒に食事を作って食べていました。もやし炒めとか、本当に貧しいもんです。

斎藤さんは、町工場の給料をすべて生活体に入れていた。生活はギリギリだったというが、当時を「大変だった」とは表現しない。

目指すべき夢があって、それに向かっている充実感がすごくありました。だから暮らしが大変というより、この取り組みをどう充実させていくかを考えることが大変でした。

こうした暮らしにこだわった背景には、それまで抱いていたある思いがあった。

福祉施設では、「職員」と「障害者(利用者)」に区別されてしまいます。世話をする人とされる人、というふうに役割が固定されてしまうんです。その構造自体に違和感がありました。

「支援する・される」という関係じゃなく、みんなが同じ生活者として対等に認められ、できることを持ち寄って助け合う。斎藤さんが模索していたのは、そうした場のあり方だ。共同生活体での日々は、まさにその実践だった。

差別をする社会があるから施設が必要になる。差別をなくしていかない限り、自分たちがいくら生きやすい場所をつくろうとしてもうまくいかない。差別はまちがっていると社会に訴えつつ、施設ではない暮らしの場をつくりたかったんです。

「共同生活体」での分け隔てない暮らしが、のちの「わっぱの会」の土台となっている。

きちんと賃金を払える仕事を。無添加パン「わっぱん」の誕生の背景

【写真】できたてのパンが複数並んでいる

「共同生活体」を育む一方、町工場では障害のある作業員への虐待が発覚する。斎藤さんは当事者たちとともに訴えを起こし、1年かけて人権侵害の認定を得た。しかし工場は閉鎖され、障害のある人たちは働く場所を失い、もといた施設や家族のもとへ帰されてしまったそうだ。

今あるものを変えようと思っても、そんな簡単には変わらない。だとしたら、自分たちで新たにつくり上げていかない限りはダメだ、と実感しました。

斎藤さんが次に動いたのは、「働く場所」探しだった。当時借りていたのは、倉庫付きの二階建てのアパート。生活の場として3部屋を使い、倉庫を改造して働く場をつくって、印刷や段ボール加工の仕事を請け負っていた。だが、この住まいと仕事の規模では、これ以上メンバーを増やすのは難しい。そこで目をつけたのは、街中で空いたままになっている土地だった。

しかし、法人格をもたない任意団体の斎藤さんたちに、土地を貸す人はいなかった。ハンガーストライキなども行いながら、地道に行政へ働きかけ続けた結果、1975年、名古屋市に障害のある人とない人が共に働き、共に生きる「共同体」をつくるための補助金制度が誕生する。斎藤さんたちはこの制度を活用し、ようやく自分たちがのぞむ仕事場を持つことができた。

いざ事業を始めてみると、新たな壁にぶつかる。下請けの軽作業では、どれだけ手を動かしても工賃は安く、メンバーにしっかりとした賃金を分配できるだけの収益には到底届かなかったのだ。

「みんなにきちんと賃金を払える仕事をつくらないと意味がない」。そう考え辿り着いたのが、「手作り食品」という分野だった。

機械による大量生産の時代になりつつあったけど、食品にはまだ手作りの可能性が残っていた。食の安全にこだわれば、じゅうぶん稼げる事業になるんじゃないかと考えました。

候補が漬物・豆腐・パンの三つに絞られたとき、生協の紹介で、脱サラして無添加パンの工場を始めた職人と出会う。斎藤さんはそこで半年間、無給の見習いとして修業した。

パンを一通り作れるようになって、見習いをしながら個人で注文を取り始めました。これでやっていけるという自信がつきました。

3年後の1984年、自前の製パン事業「わっぱん」が正式にスタートした。今では障害のある人が参加するパン作りは珍しくないが、当時では全国で初めての取り組みだった。商品は塩パンとバターロールの2種類で、初月の売上は20万円。そこから40万、80万、160万円と倍々に伸びていったという。

ここまで反響があるとは思っていませんでした。無添加・国産小麦使用という食の安全へのこだわりが受け入れられたんだと思います。

つくればつくるだけ売れていく状況で、パンを練ったり焼いたりする技術が必要な工程のほかに、出荷・掃除・片付け・運搬といった作業が次々と生まれた。

障害が重くてパン作りができなくても、仕事はいくらでもありました。働く仲間も増えていき、障害のある人もない人も一緒にやっていこうという機運がどんどん高まっていきました。

わっぱの会の生命線である「分配金」とは

共同生活体での暮らしを経て、わっぱの会はその後、組織としての形を整えていく。当初は任意団体としてスタートしたが、1987年には社会福祉法人「共生福祉会」を設立。だが社会福祉法人化するということは、「制度」の枠組みのなかで「施設」をつくるということになる。わっぱの会の理念には反しないのだろうか。

社会福祉法人になってもそれまで通り、共に暮らす、共に働くという理念のもと、独自の運営形態を貫いてきました。制度はあくまで、その理念を実現し、守り続けるために活用しているものなんです。

わっぱの会のそうした理念を根幹で支えているのが「分配金(※注1)」である。障害の有無や、成果、能力で区別せず、働く人みんなで収益を平等に分配する仕組みだ。具体的には、全員一律で支払われる「基本分配金」と、個々の生活状況に応じて上乗せされる「生活加算金」がある。

※注1:基本分配金は、障害基礎年金などを受け取っている場合、その受給分が差し引かれる。生活加算金は、住宅、世帯、育児、継続、教育、通勤、単身など条件に応じて付与される仕組み。

より多くの成果を上げた人が、より多くの給料を受け取ることができるのが今の社会では一般的かもしれません。

しかし、極端な成果主義のもとでは、仕事に就くことが困難な障害者は年金以外の収入を得られません。

わっぱの会では、みんなが助け合って生きることができる賃金体系をつくりあげています。
いわゆる給料のことを、分配金と呼んでいます。

どんなに重い障害がある人も相応の仕事をすることで、だれもが最低限の自立生活を保障され、分配金を受け取れるようになっています。(わっぱの会ウェブサイトより)

斎藤さんはこれを「わっぱの会の生命線」と表現する。

施設で働く職員には国からしっかりと給与が保障されているのに、障害がある人(利用者)は生産活動で得た収益を分け合うだけ。大した収入を生まない仕事なら、障害がある人はわずかな賃金しか得られません。人が生きるにあたって、こんな区別や経済格差があるのはおかしいことなんです。

複数の組織にすることで、保たれるもの

【写真】わっぱの会の組織図

その後斎藤さんは、2004年に「NPO法人わっぱの会」を、2025年に「社会的協同組合 わっぱ社会的協同組合」を立ち上げた。現在、3つの組織を総称して「わっぱの会」と呼んでいる。

なぜ一つの法人に統合せず、複数の組織にする形をとってきたのか。それはわっぱの会の理念を、絵に描いた餅で終わらせず、仕組みとして実践するためだ。

たとえばNPO法人わっぱの会は、生活を支える仕組みとして「分配金年金等管理機構」をつくっている。

何歳になっても、たとえわっぱの会での仕事が難しくなっても、一人ひとりの暮らしを保障するために独自の仕組みをつくりました。

自分で金銭管理が難しい人もいるため、弁護士などの専門家も加えてチェック体制を整えながら、年金やわっぱの会から受け取る分配金を適切に管理できるようサポートをしているという。通常では難しいとされる障害者本人名義の口座管理も実現している。

そして2025年に設立したわっぱ社会的共同労働組合が目指しているのは、イタリアをモデルとした「社会的協同組合」だ。

イタリアの社会的協同組合は、メンバーの30パーセント以上を、障害者・元受刑者・依存症患者・難民など、社会参加に困難を抱える人々にすることが要件。自治体からの優先発注が受けられるなどの利点もあります。

障害のある人だけが集まるのではなく、若者も、一般の労働者も、さまざまな人が混ざり合って働き、支え合う。そのあり方が、私たちの考え方ととても近いのです。日本でもこの仕組みを運用できるようにするのが目標です。

「分配金」が働く場の公平性を担い、「年金分配金管理機構」が生涯の暮らしを支える。「労働組合」によって、さまざまな立場の人が働きやすい環境を点検し続ける。これらはわっぱの会独自の仕組みの一部に過ぎないが、斎藤さんたちがつくり上げてきたのは、障害のある人もない人も、同じひとりの人間として、生涯にわたって尊重される社会のあり方なのだと感じた。

原点の景色をもう一度

半世紀にわたる活動を振り返って、斎藤さんが最初に口にしたのは「原点」という言葉だった。

今わっぱの会が運営する暮らしの場は、障害者だけが集まる場所になってしまっています。でも私の原点は、ひとつ屋根の下で暮らしていた共同生活体です。労働と暮らしを一体にした場所を、いつかまた実現したい。

現在、大曽根の集合住宅の一部を借りて、さまざまな人たちと混ざり合って暮らすことがなんとなくできつつあります。障害者も健常者も、高齢者も若者も、垣根を越えて人と人がつながり、助け合える場所にしていきたい。そして、そこに暮らす人たちの多様なニーズに応えられるサービスも提供していければと思っています。

【写真】ソーネおおぞねの外観

取材中、印象的な場面があった。インタビューの途中で、斎藤さんのところに人が訪ねてきた。わっぱの会で長年働いてきた障害のある方の親御さんが、「自分たちも年を取ったので、これからは息子の近くで暮らしたい」と、大曽根住宅(わっぱの会が運営する複合施設「ソーネおおぞね」や、障害のある人、高齢者、外国人、わっぱの会メンバー等が暮らす「ミドゥムおおぞね」がある)に引っ越してきたという。その挨拶に立ち寄ったそうだ。

斎藤さんは笑顔で迎え、短い言葉を交わした。半世紀かけて積み上げてきた仕組みが、こうして誰かの暮らしに静かに根を張っているのだと感じた。

声を上げることだけでなく、それを仕組みとして形にしなければ何も変わらない。学生時代から変わらないその覚悟が、「福祉」や「共生」という言葉からこぼれ落ちる人たちを支え、街の景色に少しずつ変化をもたらしている。

わっぱの会が運営する複合拠点「ソーネおおぞね」訪問記


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連載:福祉のしごとにん