福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】ある利用者の家の冷蔵庫の前で、訪問スタッフと利用者が会話をしている様子【写真】ある利用者の家の冷蔵庫の前で、訪問スタッフと利用者が会話をしている様子

安心して歳を重ねられる町とは?鞆の浦・さくらホームをたずねて “自分らしく生きる”を支えるしごと vol.16

Sponsored by 厚生労働省補助事業 令和6年度介護のしごと魅力発信等事業(情報発信事業)

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瀬戸内海に面する小さな港町へ

むかし、鞆の港では小魚がよう獲れてね、煮付けにして食べたのよ。この町には知り合いもいるし、ここの人たちはみんな親切で家族みたいだし、安心して過ごせるの。長生きしてよかった。

はにかみながらそう話すのは、坂本佐波子さん。取材の案内役を待っている間、偶然近くの席に座っていて話し相手になってくれたのだ。

【写真】椅子に座りほほえんでいるさかもとさん

今回訪れたのは、瀬戸内海に面する小さな港町・広島県福山市鞆町の「さくらホーム」。2004年に開所して以来、高齢者介護事業や放課後等デイサービス、就労継続支援B型事業所などを展開してきた。

「年齢を重ねても 障がいがあっても 居場所となるまちづくり」をミッションとして掲げるさくらホームは現在、鞆の浦で5つの福祉拠点を構えながら地域密着型のケアを行っている。

【写真】とものうらさくらホームの外観
拠点のひとつ「鞆の浦・さくらホーム」

冒頭で出会った坂本さんは、さくらホームの利用者でもある。職員いわく、これまでさまざまなご苦労を経験されてきたそう。それでも「長生きしてよかった」と坂本さんは笑顔で話す。この言葉は一体どのような環境から生まれたのだろう。

鞆の浦を望む港町に3日間滞在する中で目の当たりにしたことをお届けする。

【写真】高台から見える港の景色

同じ暮らしはひとつとしてない

さくらホームの特徴のひとつは地域に根ざした在宅での介護だ。たとえ介護度が高くても、本人がそう望むならできる限り自宅で暮らし続けられるように24時間365日サポートを行う。

利用者の暮らしがフォローしやすいように、地域住民の生活区域から半径400m以内に拠点を配置。それぞれの拠点をベースに職員が一日に何軒ものお宅を訪問できる体制が敷かれている。

【画像】さくららホームの各拠点の場所がわかる地図
利用者や地域住民が、徒歩でも気軽に立ち寄れる距離間にいずれかの拠点がある(提供画像)

現場では日々どのように介護が行われているのだろう。取材を通じて十数件の訪問(※注1)に同行させていただいた。

朝8時すぎ、さくらホームの拠点で訪問スタッフの国近みはるさんと合流。当日のスケジュールを確認したら、さっそく町へ出る。この日の移動手段は自転車だ。道端ですれ違う町の人と挨拶を交わしながら、坂道を上がり、細い路地をぐんぐん進む。

※注1:「訪問」は、小規模多機能型居宅介護(通称:小多機)で提供できるサービスのひとつ。小多機は訪問、通い、泊まりなど利用者それぞれの状態に合わせたサービスが提供できる。

「〇〇さん、こんにちは、さくらホームです。」わたしたち取材チームもお邪魔していいか確認し、あがらせてもらう。

【写真】ある利用者さんとお昼の話をしているくにちかさん
国近さんは冷蔵庫を開ける前、「冷蔵庫、開けてもいいですか」と必ず利用者に確認していた

声をかけたり、雑談をしながら、冷蔵庫の中身を確認して食事の用意をしたり、洗濯や掃除、服薬、排泄をサポートしたりする。時には近くの商店に電話をかけて食べ物を手配したり。一口に「訪問」と言っても、ケアの内容や方法はさまざまだ。

「この人はこのあんパンが好物だから」「ここにいつも腰掛けて海を眺めているの」。国近さんは、利用者一人ひとりのエピソードを次々と教えてくれる。

【写真】窓から見えるとものうらの港の景色
ある方の家から見えた景色。この町、景色のそばに最期までいたいと望む住民の声も多いという

わたしたちの訪問を快く受け入れてくれた利用者の反応も多様だ。ビールやいちじくを冷蔵庫から取り出してもてなそうとしてくれたり、部屋に飾られた写真の説明をしてくれたり、鞆の町の歴史を教えてくれることもあった。わざわざ家の前まで見送りに出て、見えなくなるまで手を振ってくれた方もいた。

さらに、家の間取りや内装の違いにも気がつく。賃貸に住み慣れている私の目には、ひとつの壁、ひとつの扉、ひとつの椅子に、長い年月をたたえた生活の跡が染みついているように映った。

同じ暮らしがひとつもない。生活のあり方は人それぞれであり、移ろうものだとあらためて実感する。人によって異なる暮らしを支えるスタッフは、どんなことを考えながら仕事をしているのだろう。

その人が暮らす家や生活を大切にする

まずお話を伺ったのは、訪問スタッフの麻井宏美さん。訪問の合間に利用者の部屋で話を聞かせていただいた。

【写真】隣り合い座って談笑をするふたり
麻井さん(左)と、府木さん(右)

麻井さんが以前働いていた施設はルールが厳格に決められていて、利用者の要望を自由度高く叶えるのが難しい環境だった。介護の仕事は好きだったが、思うようにケアができないことにジレンマを感じていたと麻井さんは振り返る。

麻井:こちらの都合で利用者が嫌な思いをしないようなケアをしたい、ただそれだけなんです。もちろん利用者がどのような状況・状態に置かれているのか把握は必要ですが、それが支配にならないように、本人の意思をなるべく聞くように心がけています。

それは、食べたいときに食べ、トイレに行きたいときに行ける、いわば「普通の暮らし」を送るために必要なサポートに他ならない。

麻井:鞆の家は山の上にあるので、坂道も多いし、体力的には大変なこともある。だけど、その人を大切にするには、その人が暮らす家や生活を大切にする必要もあると思うんです。こちらの都合だけに合わせて相手を変えるんじゃなくて、わたしたちが変わるようにしています。

なんとかなる方法を一緒に見つけてくれる人がいること

次に話を伺ったのは、さくらホームでケアマネジャーを務める石川裕子さん。

福山市内の老人保健施設に入り、さくらホームに開所メンバーとして加わった石川さんは、20年以上にわたり鞆の町で介護の仕事を行ってきた。

「顔を見ると『安心する』」。冒頭でご紹介した坂本さんは、石川さんのことをそう語る。

【写真】椅子に座り、談笑するいしかわさんとさかもとさん
坂本さん(左)、石川さん(右)

安心して共にいられる関係性はどのように育まれているのだろう。石川さんは「わからないけれど」と前置きしつつ、宮下奈都さんの小説『誰かが足りない』(双葉社)からの影響を伝えてくれる。

石川:誰しも失敗はあるし、ダメだと思うことがある。でもそれは受け取り方次第だし、人生すべてがダメなわけじゃない。自らに失望している人がいたとして、傍にいる人が勝手に重く捉えすぎない方がその人にとっても生きやすいんじゃないか。

それは介護も同じだと思うんです。認知機能が低下したり、失敗することが増えて落ち込んでしまうこともある。でも、なんとかなる方法を一緒に見つけてあげさえできれば乗り越えられるかもしれない。

そうした石川さんの言葉の背後には、数えきれないほどの経験があるのだろうと想像する。

石川さんはある人のことを教えてくれた。以前、ご主人の逝去がきっかけで急に認知症が進行してしまった女性がいた。娘さんの家で同居をはじめたが精神的に安定しない。結局、周囲に心配されながらも住み慣れた自宅に戻り、一人で暮らすことになった。

あるとき、昔仲良くしていた友人たちがその女性を心配して訪ねてきた。すると、彼女に大きな変化が生じたという。

石川:友人に会うことで、その方が一気に落ち着いたんです。そのとき、「その人らしく生きる」のに必要なのは、専門家が提供するサービスだけじゃないんだと思いました。その体感が私のベースになっています。その人にとって大事な人やことを見つけることができたら、何とかなるんじゃないかと思うんです。

きっと娘さんが大事な人ではなかったわけではない。その女性にとっては、「母」として過ごしたり、「一方的に介護される側」でいるのではなく、気心の知れた「友人」という関係性があることが重要だったのだろう。

その人が望むものを実現できるのは、鞆の町で暮らす昔ながらの友人かもしれないし、馴染みの店かもしれないし、散歩中にすれ違う近所の学生かもしれないし、見慣れた景色かもしれない。もしかするとさくらホームの職員がその役割を担うこともあるかもしれない。

「関係性がおもしろいんです。利用者から『あんたは姪じゃ』って言われたり、最近は『あんたはうちじゃ』って言われたり。鞆は親戚同士での結婚もよくあったと聞くから、近しい人として認識してもらっているんだなと」と石川さんは笑う。

【写真】夕暮れどきに、海岸線が見える場所で立ち話をするいしかわさん
訪問の途中、ご近所さんと立ち話をする石川さん

自分たちだけでケアをしない

石川さんは「『その人らしく生きる』のに必要なのは専門家が提供するサービスだけじゃない」と語った。その言葉は、さくらホームが大事にする「住民とともに」暮らしやすいまちをつくるという姿勢と重なる。専門職だけで、それぞれの暮らしを十分に支えるのは難しいからだ。

さくらホームの拠点のひとつ「原の家」の管理者を長年務めた旗手隆さんは、初期メンバーの一人として、鞆の町との関係性を一から築いてきた。

【写真】インタビューにこたえるはたてさん
旗手隆さん

旗手:利用者のことを考えるときに、さくらホームの職員だけではなく、その人に関わってきた人たちを必ず巻き込むようにしているんです。自分たちだけでケアをしないように。

さくらホームの仕事は、いわゆる「介護」だけではありません。利用者それぞれの事情からトラブルが起きる場合もあります。でもそれらも含めてその人が生きてきた証じゃないですか。そこで間に入ったり、誰かにつないだり、住民や町との調整役も担わなくてはいけないと思っています。

ただし住民や町と良い関係を築くことは一朝一夕ではなしえない。協力を仰ぎはじめた当初は町の人に遠巻きで見られたりお叱りを受けたりすることもあったと振り返る。それでも、粘りづよく、関わり続けてきた。町の行事や祭りに準備から参加したり、消防団に入っている職員がいたり、あるときは「戸が壊れたから直しに来て」という要望に応えたり。「地域の一員」として汗をかいてきた。

旗手:自分たちが一生懸命関わっていれば、町の人たちもその姿を見てだんだん協力してくれるようになるんです。地域に対しても、利用者に対しても、責任を持って、逃げずに最後までやる。「困ったときにはさくらホームがなんとかしてくれる」そう感じてもらいながら、住民の意識が変わることで、地域の人たちを巻き込んだケアができるようになるのだと思います。

さくらホームは2024年4月で20年を迎えた。その期間にわたり地域での実践と試行錯誤の積み重ねがあったからこそ、今につながっている。

【写真】コンクリートで、段差が舗装されている道
ある利用者の家に向かう途中にある坂道。かつては階段しかなかったそうなのだが、近くに住む方の知り合いが、車椅子でも通れるようにと直してくれたそう

職員を大事にできないと、利用者を大事にはできない

利用者の「その人らしさ」を大事にする。そのために住民とともに、住民として、まちのことを考える。取材しながら感じたのは、利用者のみならず、職員それぞれの「その人らしさ」が存分に生かされているということだ。根底で大切にしているものはつながりつつ、やり方、関わり方はそれぞれに委ねられている。

ともすれば、ケアが属人的になりすぎてしまう可能性があるようにも思える。さくらホームはどのように「チーム」として成り立っているのだろうか。

さくらホーム「原の家」は、24時間365日利用者の暮らしをサポートするための拠点であり、チームとしてケアを支える要だ。看護小規模多機能型居宅介護(※注2)と訪問看護(※注3)ステーションの機能をもつ。ここでは1日40件〜50件ほど訪問を行なっているという。

※注2:「訪問」、「通い」「宿泊」の3つのサービスに「訪問看護」の機能を加え、看護と介護を一体的サービスを提供する場所。通称「看多機」
※注3:看護師などが居宅を訪問して、主治医の指示や連携により行う療養上の世話又は必要な診療の補助を行うサービス。

訪問するメンバーは、介護職だけではなく、看護師やリハビリ職など、そのときの状況に合わせて変わる。

利用者の状況に合わせてシフトを組むため、ケアマネジャーや利用者の家族、病院等から依頼や連絡を踏まえ、随時調整しているという。また拠点には、各所からの連絡をリアルタイムで受けて、記録・共有する役割のメンバーもおり、その日の様子や変化なども随時反映できるようになっている。

旗手:大事なのは、利用者が今まで暮らした場で、自分らしくいられること。ただ、職員を大事にできないと、利用者を大事にすることはできないとも思っています。職員がやりがいをもちながら、無理なく働いてもらうためにはどうすればいいか考えながらやってきました。

一緒に働く人を大事にする。その考えは、さくらホームの立ち上げをともにした魚谷美子さんや創業者である羽田冨美江さんから教わったことでもあるという。

旗手:お二人が共に働く人を大事にする姿を見てきましたし、冨美江さんからは「やさしい言葉をかけるだけでは噓になる。人をよく見て、得意・不得意を受け入れてかかわるように」と教わってきました。

その言葉は、これまで私が担っていたことを引き継いでいる職員にも最初に伝えました(笑)。

【写真】うおたにさんと談笑する利用者さん
鞆の浦・さくらホームのデイサービスに現在は有償ボランティアで携わっている魚谷さん(写真中央)

安心して暮らすために「生活を組み直す」

20年以上にわたり築かれてきた関係性の中で、さくらホームに新しく加わる職員はどのように仕事を覚え、町の人たちとの関係を築いてゆくのだろうか。

ケアマネジャーとして働く下畠理沙さんは、教育福祉を学んでいた東京の大学の実習でこの町へ来たことがさくらホームとの出会いだった。卒業した2015年に鞆へ移住し、さくらホームに就職。現在2人のお子さんを育てながら働いている。

【写真】インタビューにこたえる下畠さん
下畠理沙さん

東京にいた頃は特別養護老人ホームでアルバイトをしたり、生活困窮者の支援も行うなど他の進路もあり得た下畠さん。それでも、住み慣れた土地を離れてまでさくらホームに就職したのはなぜなのか。さくらホームの実習で受けた印象は、職員が楽しそうに仕事をしたり、利用者と話している姿だったと振り返る。

下畠:みなさん利用者さん一人ひとりのエピソードをどんどん聞かせてくれるんですよ。目の前にいる利用者のことがほんとうに好きなんだなって思いました。

【写真】インタビューにこたえる下畠さん
足を怪我してしまったとき、しばらくのあいだ小規模多機能型居宅介護の「通い」の利用者と一緒に座って過ごしたことがあるそう。「利用者さんの目線で業務を見ていると、忙しいときのバタバタという足音をすごく気にしている方がいることや、職員が話しかけ方を利用者さんによって変えていることとか、それまでは見えていなかったことに気けた」と下畠さんは語る

下畠さん自身も、たくさんの住民と関わる中で、鞆の人たちは「ほんとうにこの町が好きなんやろな」と感じるようになった。それは「自分の家に住み続けたい」とか「この家で死にたい」というこだわりを持つ人にたくさん出会ってきたからだ。

下畠:自分のことをよく知っている人が近くにいることが安心感につながるんだと思います。「一人の生活をみんなで支えようとする関係が鞆にはある」と鞆の外に住む人たちに言われることも多くて。そのことを鞆の人に伝えると、みんな「まあ、昔からのつながりじゃからなあ」って言うんです。

【写真】テーブルで、会に集った人と談笑する下畠さん
「NPO法人鞆の人と共に暮らしを」が運営する場で開かれている、地域の福祉会。そこにも下畠さんの姿が

鞆の町で長い年月をかけて紡がれてきたつながりを大切にしながら、歳を重ねても「その人らしい」生活を送れるようにサポートすること。それがさくらホームでの仕事だと下畠さんは話す。

下畠:私の仕事を一言で表すなら、「生活を組み直す」ことだと思います。本人も家族も地域の人も安心して生活できるように、地域の人たちと連携してサポートしていきたいです。

誰しもが、その人らしく生きていけるまちを目指して

さくらホームの事業は、高齢者介護領域だけではない。誰しもがその人らしく、頼ったり頼られたりしながら生きていけるまちづくりを大事にしているからだ。「誰でも泊まれる」を目指すお宿や、スープとおにぎりが定番メニューのカフェなど形はさまざま。

その中の一つに、子どもたちの放課後の居場所「さくらんぼ」がある。福祉制度上では「放課後等デイサービス/児童発達支援」と呼ばれる。

さくらんぼでは、その日やることを子どもたち自身が決める。ドッジボールや卓球をしたり、一人で宿題をしたり、時には海で釣りをすることもある。そして職員も一緒になって遊ぶ。

【写真】教室で各々自由に座って過ごしているこどもたち
今日どう過ごすかそれぞれに聞いている様子
【写真】波打ち際で釣りをするさくらんぼメンバー
さくらんぼのすぐそばで釣りをする人も
【写真】砂浜で波打ち際を眺めるさくらんぼメンバー
すこし遠目から眺める人も

さくらんぼは「NPO法人鞆の人と共に暮らしを」と同じ敷地にあり、昼間に地域の住民たちが歌ったり体操をする場所で、放課後は子どもたちが駆け回る。

【写真】ふれあいサロンで歌を歌っている様子
NPO法人が運営する地域交流の場「鞆の津ふれあいサロン」
【写真】各々自由に座って今日やったことを振り返っている
さくらんぼの帰りの会

正面の門はいつも開かれているため、さくらホームの利用者がやって来ることもある。海につながる道ですれ違ったおばあちゃんたちは、「どこ行くん?」とか「車が来たけん端に寄り!」としきりに子どもたちに声をかけていた。

さくらんぼで管理者を務める鷲野太平さんは、この場所はさくらんぼができる前から地域の人たちに大切にされてきた場所だと話す。

鷲野:この場所はもともと、保育所だったんです。閉所が決まって、取り壊す話も出ていたんですけど、「人が集まれる場所を残しておきたい」と声をあげてくれたNPOの方がいて、残ることになりました。さくらんぼも、間借りさせてもらっています。この近くに住む人にとっては馴染みの場所であり、ずっと大切にされてきた場所です。だからこの場所としての思いも、さくらホームが大事にしていることもどちらも引き継いだ場所でありたいです。

【写真】インタビューにこたえるわしのさん
鷲野太平さん

人にも家にも、そしてまちにも、それぞれに固有の歴史と物語がある。唯一無二の人と人とのつながりがある。そうした目には見えない、けれども確かに紡がれてきたものを大切に継いでいこうとしているのが、さくらホームであり、鞆で暮らす人たちなのかもしれない。

鞆の浦は、スタジオジブリの映画『崖の上のポニョ』の舞台になった町としても知られている。監督の宮崎駿さんは、子どもたちに「生まれてきてよかった」と感じてほしいという願いを映画に込めたそうだ。「生まれてきてよかった」という感覚は、今回の取材の冒頭で坂本さんが言っていた「長生きしてよかった」という感覚と分かちがたく結びついているように私には思える。

坂本さんの言葉が生まれたのは、たとえ介護が必要な状態になったとしても、過去の暮らしと今の暮らしが切り離されていないからではないか。これまで色々あったけど、それでも「生きてきてよかった」と思えること。そうしたまちづくりに、利用者も職員も町の人たちも「その人らしさ」を決して手放すことのない形で関わっている光景を、私は3日間の滞在期間に何度も目にした。

ひとりの人が生きてきた足跡は、たとえ目には見えなくても、たとえはっきり思い出せなくなったとしても、まちの景色や暮らしの中に、そして人と人との関係の内に、確かに刻まれている。


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