
自分と他者を区別する境界線「バウンダリー」とは?ソーシャルワーカー鴻巣麻里香さんによる解説 こここスタディ vol.20
私が望む関わり方と相手が望む関わり方は異なる。どんなに親しい関係でも、嫌なことは嫌で、踏み越えてほしくない線は存在する。その線をどうすれば守ることができるのか、相手の線を尊重できるのだろうか。そのヒントとなる概念が「バウンダリー」だ。
KAKECOMI代表 鴻巣麻里香さんは、ソーシャルワーカーとして、地域に暮らす「生きづらさ(病、貧困、トラウマ等)」を抱えた方々の支援に携わる。鴻巣さんに、バウンダリーとはなにか、自分の線を踏み越えてくる要注意な言葉についてなど寄稿いただきました。(こここ編集部 垣花)
「いいえ。私は私、あなたじゃないわ」
これはテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の、とある登場人物の台詞です。初めてこのアニメがテレビで放映されたとき、私は高校生でした。この「私は私、あなたじゃない」という何気ない、そして当たり前の台詞が、なぜか当時の私の心に大きく響き、そして今もふと思い出します。
私は私、あなたじゃない
そしてあなたはあなたで、私じゃない。しごく当然、自明なことです。ですが高校生だった私は、この「私は私」という感覚がぐらんぐらんに揺らいでいました。
私の行きたい大学と、先生が私に行ってほしい大学
私が望む進路と、親が私に期待する進路
私が好きなことと、友だちが好きなこと
私が心地よい休日の過ごし方と、親が決めたスケジュール
誰かと意見が異なるとざわつく心
断れない誘い
断られて全てが拒絶されたように感じた誘い
少しのズレが大きな不協和音のように聞こえる集団のノリ
私の意思を無視して頭や肩に触れてくる誰かの手
一緒にいるとなんとなく疲れる誰かを嫌だと感じることへの罪悪感
ノックなく開く自室のドア
勝手に開けられた机の引き出し
不機嫌な親が立てる大きな音
他者からの評価という物差しへの恐れと依存
大人が口にする「あなたのため」へのもやもや
どこまでが私の願いで、どこからが他者の期待なのか。その境目が曖昧になり、私の「嫌だ」が他者の期待や願いや欲求によって封じられていき、ただ違っているだけのことに強い不安を感じる、それが高校生の私でした。
ただ、当時は「私は私」が揺らいで苦しいのだと自覚できてはいませんでした。40代も半ばになり振り返ったことで、当時の私が抱いていた苦痛や悩みやもやもやの大半が、バウンダリーの揺らぎや侵害に起因していたと謎解きできたのです。
自分と他者の境界線「バウンダリー」とは?
自分と他者を区別するもの、違いでありその違いを守るもの、つまり「私は私」という境界線がバウンダリーです。
私たち大人にとってその境界線の太さや強度は一定ではなく、相手に応じて分厚く、強くなったり、逆に薄く、弱くなったりします。ぐわっと踏み込んでくる人、勝手に決めつけたり意見をきいてくれなかったり断りなく身体に触れてくる人に対して、私たちはバウンダリーを分厚く強固にすることで自分を守ります。逆に安心できる相手と一緒なら、私たちのバウンダリーはやわらかなものになります。強固な境界を引かなくても自分が守られている、尊重されている、そういった安心があるからです。
バウンダリーの存在を認識でき、相手に応じてその強度や厚さを調整して自分を守り、また相手のバウンダリーを大切にすること、それが「コミュニケーション力(コミュ力)」だと私は考えます。
しかしながら、このバウンダリー調整力は自然に育つものではありません。「そこにバウンダリーがあるよ」と教えてくれる人、そしてバウンダリーを守ってくれる人の存在が不可欠です。
子どもにとってそれは身近な大人、親であったり、あるいは「先生」と呼ぶ誰かです。親も「先生」も、子どもに強い影響を及ぼす存在です。子どもは親の庇護なく生きてはいけず、また「先生」という肩書きを持つ人からの評価が子どもの可能性に大きな影響を及ぼします。自分に対して強い影響力を持つ大人が「あなたはあなた」という境界線を大切にしてくれることで、私たちはバウンダリーを守り、調整する力を身につけていきます。
どうすればバウンダリーは育まれるのか?
そもそもバウンダリーは生まれながらに備わっている機能ではありません。おぎゃーと生まれた赤ちゃんにとって、世界と自分は一体です。自分と「自分以外」との心理的な境は存在しません。子どもに「私と私以外」の境界線の存在を安全に示すことが、子育ての大切なミッションだと言えます。
この「安全に」が大切です。例えば子どもが泣いているとき、「勝手に泣いてなさい」と突き放すことではありません。悲しい気持ちを汲みながら、なぜ悲しいのか、泣いてしまうのか、その理由を探し、示し、子どもと共有し、子どもが「私が」悲しいという主語を獲得していくことを手助けします。まだバウンダリーが構築されていない子どもは、自他の境界線が曖昧です。
例えば仕事がうまくいかないことで親がイライラしているとき、子どもはそのイライラの原因が自分にあると信じてしまいます。誰かが悲しいと、自分が悲しませてしまっていると信じたり、また自分も同じように悲しくなってしまったりします。
私は東日本大震災で被災した方の支援に従事しましたが、「自分が悪い子だから地震がおきた」と信じている幼い子どもと度々出会いました。誰かがイライラしているのは、悲しいのは、そして悪いことが起きるのは自分のせい。幼い子どもがそう信じてしまうのは、「私と他者(世界)」とを区別するバウンダリーがまだ脆弱だからです。
子どもが「私は私」「あなたはあなた」の境界線を引く手助けをし、子どもが他者の気持ちの責任を負わないこと、自分の気持ちを軽んじてしまわないよう説明をしていくことが、子育てにおけるコミュニケーションの「キモ」だと言えます。
バウンダリーを侵害する言葉や行為たち
残念なことに、子どもに対して強い影響力を持つ大人ほど、子どものバウンダリーを侵害し、蔑ろにする傾向があります。その理由は、バウンダリーを侵し、揺らがせることで、自分より弱い立場にある相手(子ども)をコントロールすることができるからです。
例えば「あなたのためを思って」と言いながら意見を押し付ける、子どもの失敗を責め「私(大人)の言う通りにしておけばよかった」というメッセージを送る、子どもの趣味や好みを否定する、予定を勝手に決める、不機嫌の理由を説明せず大きな音や行動で「察しろ」を示唆する。
ほとんどの人が一度は経験したことのある、ありふれた大人の行動ですが、そのひとつひとつが「あなたの意見には価値がない」「私の気持ちを優先しろ」というメッセージとして子どもに伝わります。そして、少しずつ子どもをコントロールしていきます。バウンダリーを侵すことは、相手を心理的に支配する手段なのです。
DV(家庭内暴力)や児童虐待も同様です。DVでは心理的、そして身体的な暴力によって「お前は私なしでは生きていけない無力な存在だ」「私の機嫌と願いを察して動け」というメッセージを送り、信じ込ませ、相手を支配します。児童虐待も同様に暴力(心理的・身体的)を手段として子どもを支配し、しばしば「お前のために(暴力を用いて)しつけている」と支配を正当化します。
DVでも児童虐待でも加害者は「暴力をふるわせているのはお前だ」と、被害の責任を被害者に押し付けます。自分が受けている暴力は自分が引き起こしていると信じ込ませ、そして加害者から逃げられなくする支配の手段です。
私なしでは生きられない
察して動け
お前のためだ
お前のせいだ
全てバウンダリーを侵害する言葉です。「私は私」という境界が侵され、相手の機嫌や意思の前に自分自身の願いや意思が揺らぎ、消え、「私」という存在が価値のないもののように思え、屈服する。そして被害者は、つらい暴力の日々に耐えるために、自ら「私は私」というバウンダリーを手放すことすらあります。
「私は私」を手放すことで、むしろ苦痛を減らすのです。抵抗や怒り、苦痛を苦痛だと感じることは、自分の尊厳を守るために必要な反応です。ですがそれらの反応を維持するためには、「私は私」のバウンダリーが必要です。怒り続け、抵抗し続ける力を奪おうと、加害者はバウンダリーの破壊を試みます。
被害者が「私は私」の軸を手放し加害者に従属すれば、暴力の頻度を減らせるだけでなく、苦痛を鈍らせることができます。「苦痛を感じる私」が消えてしまうからです。DVからの避難、児童虐待を受ける子どもがSOSを出すこと、あるいは性暴力被害者の抵抗や相談が困難な理由は、被害によってバウンダリーが侵されたことに起因していると言えます。
抵抗しない、何もアクションを起こさずその場にとどまり続けることで、苦痛を感じる「私」を手放し、さらなるダメージを回避することで自分の身を守っているのです。
「なぜNOと言わないのか」という言葉で相手を責める二次加害
そもそも私たち人間には、今ここの環境に適応することで生き延び対処するスキルが備わっています。暴力、性暴力被害にあい、特にその加害者が自分に対して強い影響力(支配力)を持つ人物である場合、被害にあった事実を日常化し、適応することで自分の生活が崩れることを防ぎ、身を守ります。
この原稿を書いている今も、SNS等で性暴力被害者に対し「なぜNOと言わないのか」「なぜすぐ相談しないのか」「なぜ被害にあった後も加害者と親しい関係を続けているのか」などの二次加害的な言葉が次々と生まれています。もしその「なぜ」が純粋な疑問であれば、その疑問を解く鍵のひとつがバウンダリーです。
「私は私」の境界線が心理的・身体的に侵されることで、「私」を手放して相手を受け入れ、被害の事実を日常の中に組み込もうとします。それはバウンダリーの侵害によるもうひとつの被害であり、またバウンダリーを侵された人がかろうじて日常を守り生き延びるための手段だと言えます。
ちなみに「なぜ」の形をとって相手を責めることも、バウンダリーをぐらぐらにするメッセージの一形態です。「(あなたは)なぜできないの」「(あなたは)なぜそんなことするの」どちらも疑問系ですが、ほとんどの人がそれらが単純な疑問ではないと知っているでしょう。
疑問の形をとって相手を責めることで、「私はそうしてほしくなかった」「私はこうしてほしかった」という「私は」の主語を用いて自分の言葉で伝える責任を手放しています。「(あなたは)なぜできないの」と見えない主語に相手を置くことで、「私の期待に応えなかったあなたが悪い」というメッセージを伝え、かつ疑問系をとることで「責めているわけじゃない、そう受け取ったならそれは相手の問題」という逃げ道を用意し、とことん相手のせいにします。
「なぜNOと言わないのか」等は、疑問の形をとった二次加害です。被害者をさらに加害したいだけなので、疑問に対して丁寧に解説しても必ず何らかの難癖をつけて受け入れようとしません。そもそも純粋に疑問を抱いただけならば、信頼に足るような返事があるかどうかもわからないSNSに質問を書き込むようなことをせず、別のさまざまな手段を用いて調べるはずです。少数の加害的な声が大きく響くSNSは、バウンダリーを侵害する新たな、そして効率的なツールだと言えます。
傷ついたバウンダリーを復元するという視点
私はソーシャルワーカーとして、何らかの困難の中生きる人たちを支援する仕事に携わっています。日本には(充分であるとは言えませんが)生活困窮や疾患・障害、暴力や虐待の被害を受けた人々の生活を支える様々な制度があり、そういった制度や、医療や法律等の専門家、民間の社会資源を活用して困難の中にある人を支援するのがソーシャルワーカーです。
私はDV被害者や困窮する女性、家庭環境に困難のある10代の子どもたちといった、日本の制度設計の遅れから、その隙間に置き去りにされた人々を主な対象としていますが、日々「なぜNOと言わないのか」「なぜ相談しないのか」など二次加害との戦いです。
バウンダリーについては対人支援専門職の間でもまだ理解が浅く、当事者がやっとの思いで相談に行った先で非難や叱責を受けたり、また自ら助けを求めない被害者や虐待する親を庇う子どもが守られず、放置されています。また、さまざまな逆境による心的外傷(トラウマ)によってバウンダリーが侵害され、脆弱になると、人はさまざまな「問題ある行動」をとることがあります。
例えば自分を支配し虐げる相手を繰り返し選んでしまったり、誰かを極端に遠ざけたり近づいたりという「振り回す」行動をしてしまったり、苦しくても誰も頼らずギリギリまで抱え込んだり、などです。そういった行動は、第三者の目には自分で自分を窮地に追いやっているように見えるので、「好きで苦しんでいる人」のラベルが貼られて放置されたり、叱責や非難を受けて自己責任とされてしまうのです。
しかし、支配的で加害的な相手を繰り返し選ぶことはバウンダリーが侵害され続けた状況への適応であり、また「私は私」の軸を失ったことによって自分で自分を支えることができなくなってしまったからです。他者を振り回すのは、自分を守る境界線を手探りで探す不器用な対処だと言えます。そして「私の願い」が尊重されてこなかった人が、誰かを信頼し相談することはとても困難です。困っている人との関わりにおいて、この「バウンダリー」という視点を持っていないと、私たち支援する側が二次加害を繰り返すことになってしまいます。
かくいう私も、対象者のバウンダリーを侵害してしまうことがしばしばあります。例えば避難や保護が必要なのに、逃げようとしないDV被害者。自分を助ける手段が目の前にあるのにそれが選べないのは、バウンダリーが侵されたことで自分を守る力と尊厳が奪われてしまっているからです。そこで本人の意思を無視して強引に保護をしても、すぐに加害者の元に戻ってしまったり、また同じように加害的な相手を選んで傷つきを繰り返すことがあります。
しかしながら、当事者が傷つき続けることを「本人が保護を望まないから」といって見逃すわけにもいきません。常に迷いながら、時に支援という力を用いてバウンダリーを踏み越えながら、その時々の最善を探しています。
DVや虐待、性暴力によって侵害され、傷ついたバウンダリーを復元することも、支援(福祉や医療、心理など)における大切なプロセスです。心理の専門家によるカウンセリングが有効な場合も多々ありますし、職種問わず当事者に関わる人たちがトラウマとバウンダリーについての理解を深め、当事者との関係性の中でしっかりとバウンダリー守っていくこと、そしてその理解を当事者の生活環境内にいる人々(家族や恋人など)に広げていくことが重要です。
侵害されたバウンダリーを復元するために何よりも必要なのは、今この場でバウンダリーを守ってくれる、安全な他者の存在です。
学校において発生しうるバウンダリーの侵害
DVや虐待を例に書きましたが、バウンダリーを侵害する行為や言葉は、何も暴力や虐待だけではありません(そしてDVや虐待は多くの人が思っているよりもずっと身近にありふれています)。なぜなら、バウンダリーを侵害することは、相手をコントロールするための実に効果的な手段であり、親や教師や上司といった人たちが自分の権威を守るために活用しているからです。
例えば学校です。学校を訪問し教員による指導の様子を観察すると、ありとあらゆる場面で生徒のバウンダリーを侵害し、子どもをコントロールする仕掛けが目につきます。
連帯責任、飴と鞭(報酬と罰)によるコントロール、失敗を晒し恥をかかせる、大勢の前で叱責する、排泄や気分不良時といった生理現象による退席にも許可を求めさせる、大声で怯えさせる、不機嫌な態度で萎縮させる、自分で考えなさいと言いながら期待通りの答えでないと叱責し意見表明の力を奪う、床に座らせて上から指導する……このように羅列してみると、パワハラ上司が従業員をコントロールする手段そのものです。しかし学校では、これが指導としてまかり通っています。
このような指導は、子どもから「私は私のままで価値ある存在だ」という尊厳を奪い、個を消して集団を乱さないことを強要します。「私は私」の個が消え、権威ある教師が集団に期待することが最優先事項となる、バウンダリーの侵害です。
学校におけるバウンダリー侵害の厄介なところは、「バウンダリーが侵害されている」という感覚すら失わせることです。バウンダリーの機能がまだ充分に育っていないうちに、子どもたちは学校という集団の中で「私は私」の境界線を踏みにじられてしまいます。多くの子どもにとっては「そこに境界線があるよ」とちゃんと教えてもらい、理解する前のことなので、侵害を察知する警報装置が作動しません。そうやって学校では、バウンダリーを侵害しながら、同時にバウンダリーが侵されていることへの警戒や防衛という力を奪っていくのです。
例えば部活動や文化祭の練習で、大声で頭ごなしに怒られたり、間違えると連帯責任にさせられたり理不尽な罰を与えられ、プライベートの予定を優先するとみんなの前で責められて、どれもすごく嫌な経験だったはずなのに、従順になったとたんに手のひらを返したように褒められて、なんだか理不尽に怒られたことも「良い経験」になったような気がして、しかも仲間(集団)との結束が高まった気がして、謎の高揚感で良い気分になって……という経験がある人は珍しくないと思います。
理不尽なことを理不尽だと、苦痛を苦痛だと、嫌なことを嫌だと感じる力が奪われてしまい、なんとなくふわふわした「良い経験」という記憶が残ります。体罰を肯定し続ける大人は、苦痛を「良い経験」の記憶として保存しているのだと思います。「私は苦しかった」が「なんだかみんなで良い経験をした」に押し流されてしまう、これもバウンダリーが侵害された結果だと言えます。
人が互いに傷つけあわないためにバウンダリーは存在する
冒頭で例に挙げたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』では主人公がA.T.フィールドという力を使って敵と戦います。作中でA.T.フィールドは「誰もが持っている心の壁」だと説明されました。心の壁が物理的なバリアになって敵の攻撃を防ぎ、対抗できる、まさにバウンダリーそのものだと言えます。
また、アンチA.T.フィールドという力も登場します。これはA.T.フィールドに相反するもの、心の壁という境界線を踏み越えて中和し、消失させる力です。作中では、このアンチA.T.フィールドで全ての人類が持っている心の壁(A.T.フィールド)を無くし、自分と他者という境界線のない世の中を目指す権力者たちの秘密組織が登場します。
自他境界線(バウンダリー)を消失させようとする権力者たちの考えに主人公は抵抗し、心の壁を守ろうとします。バウンダリーを侵害しようとする大人と抵抗する子どもという図式もまた、私がこのアニメに惹きつけられた要因のひとつなのかもしれません。
アニメの中で権力者たちは、「自他境界線(バウンダリー)が消失すれば、人間同士が争いあうことも傷つけあうこともない」と考えています。しかし現実では、権威を持つ人たちが弱い立場におかれた人たちをコントロールするためにバウンダリーを侵害し、消失を試みています。
人が互いに傷つけあわないために、バウンダリーは存在します。バウンダリーは決して「傷つけあってでも守らなければならないもの」ではなく、傷つけあわないために上手に調節するものです。
(後編は以下カードリンクへ)
後編:「『個人の心の問題』の多くは環境や政治の問題でもある〜『あなたのため』というバウンダリーの侵害〜」
Information
・かけこみ寺+コミュニティ=みんなの、わたしの居場所『カケコミ』 支援金募集
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・鴻巣さん新著情報
『わたしはわたし。あなたじゃない。 10代の心を守る境界線「バウンダリー」の引き方』(リトルモア) 詳細はこちら
Profile
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鴻巣麻里香
ソーシャルワーカー/KAKECOMI代表
精神科医療機関勤務、東日本大震災被災者支援を経て、フリーランスのソーシャルワーカーとして福島県白河市を拠点に活動している。2015年に非営利団体KAKECOMI(カケコミ)を立ち上げ、こども食堂と民間シェルター(シェアハウス)を運営。福島県のスクールソーシャルワーカーを兼務し、子どもと親子をとりまく様々な社会問題に取り組む。3匹の保護猫と暮らすシングルマザー。2023年に『思春期のしんどさってなんだろう?あなたと考えたいあなたを苦しめる社会の問題』(平凡社)を刊行。他共編著に『ソーシャルアクション!あなたが社会を変えよう!』(ミネルヴァ書房)がある。
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