福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【イラスト】生い茂る緑の植物に囲まれ、人が横たわっている【イラスト】生い茂る緑の植物に囲まれ、人が横たわっている

ケアってなんだろう? ナイチンゲール看護研究所・金井一薫さんをたずねて “自分らしく生きる”を支えるしごと vol.03

Sponsored by 厚生労働省補助事業 令和5年度介護のしごと魅力発信等事業(情報発信事業)

  1. トップ
  2. “自分らしく生きる”を支えるしごと
  3. ケアってなんだろう? ナイチンゲール看護研究所・金井一薫さんをたずねて

「ケア」という言葉を聞いて、なにを想像するだろう。

自分を大切にする文脈で使われる「セルフケア」、髪や肌の手入れを示す「ヘアケア」や「スキンケア」、身の回りのものに対して使う「ハウスケア」や「カーケア」……。そうした広く社会へ浸透してきた言葉を思い浮かべる人もいれば、看護や介護の領域で日々実践されている行為や、「ケアワーカー」「ケアマネジャー」といった職業にまつわる単語を連想する人もいるだろう。

幅の広さも奥行きもある「ケア」という言葉は、使う人、文脈、分野が異なると、具体的な意味や定義も変わってくるはず。私たちは、広がりゆくこの言葉にどう向き合っていけばいいのだろうか?

そんな問いをもって、今回たずねたのが〈ナイチンゲール看護研究所〉所長の金井一薫さん。金井さんは、職業としてのケアワークの確立に大きく貢献した、イギリスのフローレンス・ナイチンゲール(1810〜1920)の研究者だ。

「ナイチンゲールの思想には『ケアの原形』があります。そこに立ち戻ることで、今さまざまな形で行われているケアの本質が見えてくると思っているんです」

そう語る金井さんに、そもそも「ケア」とはなにか、また「いいケア」があるとすれば一体どのようなものなのかを伺った。

領域が広く、答えが出にくい「ケア」という言葉

そもそも日本において、ケアという言葉が一般的になったのはいつなのか。「介護」という言葉が公に使われはじめたことがきっかけでは、と金井さんは述べる。

1987年に国家資格として「介護福祉士」が誕生し、マスメディアでも「介護」という単語が使用されるようになりました。2000年に介護保険制度が始まると、それが本格的にクローズアップされるようになります。介護福祉士に該当する英語として「ケアワーカー(care worker)」が用いられ、そこでケアという単語が介護に置き換わることが増えるなかで、社会一般でもケアという単語が使われるようになっていきました。

【写真】こちらを向く金井さん
ナイチンゲール看護研究所・所長の金井一薫さん

一方で金井さんは、そうした社会全体での注目以前に、看護領域ではケアという言葉を当たり前に使っていたと話す。それは自らが行う専門的な「看護行為」を表す語だった。

ケアという単語を、私は誰かが独占するべきものではないと考えています。ただ、医療や福祉に携わる専門家たちにとっては、ケアは専門領域を明確にするための重要な概念です。

漠然と「ケアってなんなのか?」と考えようとすると、領域が広いので答えが出にくい。なので私の立場としては、「看護と福祉の領域を包括した専門的な言葉」としてのケアを、今回お話ししたいと思います。

ナイチンゲールの『看護覚え書』に記された「ケアの本質」とは

金井さんが紹介するのが、今から150年以上前に『看護覚え書』(副題:「看護であること看護でないこと」)を記した、ナイチンゲールだ。

「白衣の天使」「クリミアの天使」「ランプを持った貴婦人」などの言葉を思い浮かべる人も多いナイチンゲールだが、​​19世紀のイギリスで医療や福祉の基盤を整えた功績は、あまり知られていないかもしれない。実際には「nurse」(=看護師)という職業の地位を確立させたほか、社会改革者、統計学者、衛生改革者、病院建築家などの一面もあり、さまざまな分野から人々の「健康」の実現を目指して改革を推し進めた人物である。

【モノクロ写真】こちらを向くナイチンゲール
フローレンス・ナイチンゲール(1810〜1920)

ナイチンゲールが社会的な定義を試みた「nursing」という語は、今「看護」「介護」どちらの英訳としても使われる。その思想にふれることが、「ケア」を探る手がかりになると金井さんは語る。

『看護覚え書』は、「nursing」の社会的位置づけが低かった時代に、その専門性を明確にしようとしたものです。私はその内容を読み、今の看護や介護に通じる「ケアの原形」が書かれていると驚きました。

金井さんが注目したナイチンゲール思想の一つが、「人が持っている力を引き出す」ことを大切にする視点だ。たとえば同書には、次のような言葉がある。

「看護(nursing)がなすべきこと、それは自然(nature)が患者に働きかけるのに最も良い状態に患者を置くこと」

人にはもともと、外界や内部の変化に合わせてバランスをとろうとする力が体の中にある。具体的には、気温が高ければ汗をかいて体温を下げ、寒ければ毛穴を塞いで体温を逃がさないようにしたり、体に害となるものを食べたときには下痢や嘔吐によって排泄したりする。ウイルスが侵入すれば、免疫細胞たちが集団で闘う。これらの回復システムができるだけうまく作用するよう計らうことが、いい看護や介護につながるケアの視点だ。

【イラスト】生い茂る緑の植物に囲まれ、人が横たわっている

もう一つカギとなるのが、「生命力の消耗を最小にする」視点だ。『看護覚え書』には、やはり次のような言葉がある。

「看護(nursing)とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさなどを適切に整え、これらを活かして用いること、また食事内容を適切に選択し適切に与えること、こういったことのすべてを患者の生命力の消耗を最小にするように整えること」

これは、体内の回復システムが妨害されたり、働かなくなったりするのを避けることを指します。たとえば発熱がある場合、身体は汗を出して解熱させようとしますが、汗を吸収した寝衣やシーツ類を取り替えずにいたままでは次第に身体が冷え、免疫力は下がってしまいます。だからこそ、部屋を暖かくし、寝具類の交換と同時に身体をきれいに拭くようなケアをすることが、回復過程を妨げないために必要です。

「生命力の消耗を最小にする」には、ただ安静にさせればいいわけではありません。もちろん絶対安静が必要なときもありますが、一方で寝たきりで刺激が少ないままでは、筋力はますます衰え、 細胞も活性化しない。閉鎖的で変化のない環境は、それ自体が「生命力の消耗」につながってしまいます。

どのような関わり方が最小の消耗で済むか、常に天秤にかけながら適切な判断をしていくには、「からだのしくみ」や「いのちのしくみ」を知らなくてはいけません。ナイチンゲールの思想の根幹にある、「体内の自然治癒力のシステムが発動しやすいように、常に最良の条件・状況を生活過程の中に創る」営みこそが、私は介護をはじめ、さまざまなケアワークの現場に通じる「ケアの本質」だと捉えています。

“暮らしを整える専門家”として看護師・介護職がすべきこと

『看護覚え書』の原書には、「care」の単語が約40回登場し、いずれも「配慮」「気遣い」「世話」などの意味で使われているという。この時代には介護という概念はまだなかったが、ナイチンゲールが指摘した「たしかな根拠をもって関わり、回復過程を助ける」という行為において、金井さんは看護と介護の本質に違いはない、と語る。

もちろん看護、介護それぞれの独自性はありますが、どちらも暮らしを整える専門家であることは共通しています。これは病気を診断したり、治療したりする医師の専門性とは明確に異なるんですね。いかに“生活の処方箋”を書き、回復過程を整えていくかに、看護と介護の本来のテーマがあるんです。

たとえば、神奈川県湘南エリアにある介護事業所「あおいけあ」は、一人ひとりの尊厳を大切にする上で、「アセスメントシート(※注)」だけではなく、利用者と関わるなかで印象に残った場面を記録している。また、その人のこれまでを形作ってきた情報、利用者一人ひとりの背景にあるものを時間をかけて知りながら、その人にとって最適な暮らしを考えたケアプランを意識していた。金井さんが指摘したケアの専門性は、こうした視点にも垣間見ることができるだろう。

※注:介護サービスの利用者がサービスを利用することになった背景や、必要な支援の内容といった基本情報をまとめたもの

大切なのは、“その人らしい生き方”の実現に向け、それぞれのケアに目的を据えることです。たとえば「この人の気持ちがどうすれば安定するか」という視点を持って、声をかける。「どうすれば体内で働く力が安定するか」という視点で、生活環境を見直す。専門家として行うアプローチだからこそ、必ずなんらかの明確な「目的」があるべきです。

【イラスト】人が立ち、大きな紙に向かっていくつも絵を描いている。内容は歩いている人や、横たわる人、食事の内容など

一方で金井さんは、ケアを通じて生活を整え、“その人らしい生き方”を実現した先には、時に「死」という形が現れることも専門家は意識してほしいと指摘する。そもそもいのちのしくみは必ず「最期に逝く」ようになっており、先ほどの「人の生命力」に力を貸していくような関わりも、見方を変えれば「からだが自然な死に向かうこと」を促す行為になるからだ。

そのように考えておけば、終末期に過度な治療行為は必要でないとわかります。ただし、現代の社会では、自分だけで自然死をつくることは難しい。老衰で最期を迎えるときも、延命措置をするかどうかの判断は死に臨む人間ではなく、それに立ち会っている家族や親しい人々がする場合が多くあります。いざ臨終という場面になって、たまらず救急車を呼び、本人が望んでいない点滴や呼吸器装着の治療を医師へ依頼してしまうかもしれません。

だからこそ、本人と家族間の意思疎通が大事であり、家族を含めさまざまな人によるケアが必要となります。とくに看取りに精通した看護師や介護職のサポートが普段からあれば、本人の意思を尊重した選択もしやすいはず。ケアの先にはそんな、穏やかな死もあっていいのではないでしょうか。

分化できない「暮らし」を、ケアの視点でつなぎ直す

ナイチンゲールを参照しながら、金井さんが説くケアの専門性。その理解が進んでいくと、「ケアとは専門家が実践するものであり、それ以外の人は関わってはいけない」と感じる人もいるかもしれない。しかし、金井さんはそうではないとも念押しする。

たしかに看護師や介護福祉士など「専門職業化」されたケアは、本来誰もが簡単に行えるわけではありません。体系化された知識と技術を持ち、行為を裏付ける論理にしたがったアプローチが求められるからです。

でもそれは、専門家以外がケアに関わってはいけない、という意味ではありません。むしろ制度的にも専門分化が進んでいる現代においては、さまざまな方がケアの視点を持ち、領域を跨ぐような関わり方を増やしていく必要があると思っています。

専門は尊重しつつ、領域を超える視点を持つとはどういうことなのだろうか。そのヒントとして、金井さんはナイチンゲールに始まったと考えられる、福祉事業の歴史を共有してくれた。

【イラスト】同根だった福祉と介護が、ケアの社会化に伴い、枝分かれし発展していく過程を時系列で表した図。最初は、貧困階層を対象とした慈善事業の枠組み1つだったが、19世紀半ばになると、貧困社を対象とする福祉的ケアと、病人・高齢者・障害者・子どもを対象とする看護的ケアに分かれる。さらに20世紀後半になると、3つに分かれ、自立できない高齢者・障害者・子どものケアが領域として立ち現れるが、現在はそれが入り混じりながら、再び一つに統合されるような矢印が未来に向けて描かれている

19世紀半ば、イギリス社会では貧困階層を対象とした慈善事業が発達していました。この時点では、病気があろうが無かろうが、もうごちゃごちゃ。そこでナイチンゲールは、「病人」と「高齢者」「障害者」「子ども」を「看護的ケアが必要な人たち」としてひとくくりにし、「健康な身体をもつ貧困者」と分けてケアを提供しようと考えたんです。なぜなら、提供すべきケアの目的が違うから。

これが看護の世界と福祉の世界のスタンダードにつながっていったのではと、私は捉えています。しかし時を経て、20世紀後半には「貧困者へのケア」と「病人へのケア」に加えて、双方に重なる「高齢者・子ども・障害のある人」へのケアの重要性が高まり、福祉的ケアと看護ケアは双方が連携して、協働するシステムを取るようになっていきました。この時、日本では介護福祉士が誕生しました。

ただしケアという領域は広く、必要としている人の状況もさまざまです。そもそも人の暮らしって、特定の制度やカテゴリーに分けられない領域も多いじゃないですか。どうしてもはみ出してしまう部分があるので、専門分化するところはしつつも、もう一度統合して考えていく必要があると思います。

多くの人々へ効率的に最適なケアを提供するために、専門分化は重要だ。しかし実際の困りごとには、さまざまな要因が混ざりあっており、個々の制度だけでは見過ごされてしまうことも多い。だからこそイギリスでは、社会保険制度を「National Insurance」に一元化しており、国営の保健サービス「National Health Service」で全国民が原則無料で保健医療サービスを受けられるようになっている、と指摘する。

では日本においてはどうだろうか。専門分化が進む一方で、たとえば介護の世界における「小規模多機能型居宅介護」のように、個々のニーズや暮らし方をこまやかに、複合的にケアしていく流れも生まれつつあることは、変化の一つの現れと言えるかもしれない。

今多くの人が生きづらさを感じているのは、「この場合はこう」といった単純な縦割りで、一つの制度や環境に“当てはめられている”ことがやはり要因にあると思うんです。それでうまく生活できる人もいるだろうけど、健やかに生活しづらくなっている人も多い。だからこそ、さまざまな状況の人たちが「ケア」という裾野が広い領域に関わって、みんな一緒に助け合っていく必要があると思うんです。

金井さんが語ってくれた「いいケア」をもたらす視点は、自分の身近な場所でも、「目の前にいる人は消耗している状態なのでは?」「この人は本当に、この環境で今ある力を発揮できているのだろうか?」などの問いを生んでくれる。『看護覚え書』以来、看護や介護の現場で長く実践されてきた関わりや環境のつくり方は、私たちが日常的に何気なく他者を気遣う場面でも大きなヒントになり、日々の暮らしの見え方を変える可能性がある。

【イラスト】家の窓が大きく開いている。カーテンが心地よくそよめき、中には花をいけた花瓶が置かれ、音楽が流れている

あらためてケアとはなんだろうか? 「看護と福祉の領域を包括した専門的な言葉」としてのケアは、ナイチンゲールの『看護覚え書』を通して、具体的に考える入り口を金井さんに教えてもらった。ただ取材の冒頭で「考えようとしても領域が広いので答えが出にくい」ともあった通り、明快な答えを出すのは難しい概念でもある。一つ言えるのは、何をケアと呼びたいのか、自分がどの立場で、どのような目的をもってケアと関わりたいのか、今一度考える必要があるということだ。

最後に、金井さんが紹介してくれたナイチンゲールの言葉を一つ紹介したい。

「新しい芸術であり、新しい科学であるものが、最近40年の間に創造されてきた。……その芸術とは、病人を看護する芸術である。……それは健康についての芸術である。」(1893年)
(『ナイチンゲール著作集第2巻』病人の看護と健康を守る看護 より)

ナイチンゲール思想の根幹にある、「体内の回復システムが発動しやすいように、常に最良の条件・状況を生活過程の中に創ること」が看護であり、介護であり、ケアの本質なのであれば、ケアの仕事に携わる人たちはまさに「その人らしい暮らしを支える」芸術家であり、科学者と呼べるかもしれない。19世紀末にナイチンゲールが残した上の文章は、100年以上の時を超えて、今この時代におけるケアの魅力と可能性を教えてくれるのではないだろうか。


Series

連載:“自分らしく生きる”を支えるしごと