句点「。」の行方 砕け散った瓦礫の中の一瞬の星座 -ケアと表現のメモランダム-|アサダワタル vol.02
10年以上に渡り、「ケア」と「表現」の交わる現場に関わってきた文化活動家・アサダワタルさんによるエッセイ連載。
アサダさんは、ユニークな方法で他者と関わることを「アート」と捉え、音楽や言葉を手立てに、全国の市街地、福祉施設、学校、復興団地などで文化活動を手掛けてきたアーティストです。特に障害福祉領域に関わる経験が豊富で、これまでに〈kokoima〉(大阪府)、〈カプカプ〉(神奈川県)、〈ハーモニー〉(東京都)などの福祉の現場でアートプロジェクトやワークショップを実施されてきました。2019年からは、〈品川区立障害児者総合支援施設ぐるっぽ〉(東京都)にて、障害のある人とともに創作活動・地域活動を行うコミュニティ・アートディレクターも務められています。
本連載「砕け散った瓦礫の中の一瞬の星座 -ケアと表現のメモランダム-」では、アサダさんがこれまでにケアの現場で経験してきた出来事、育まれてきた表現、人々との関係性を振り返り、揺れや戸惑いも含めて、率直に感じたこと・考えたことを綴っていただきます。(こここ編集部) >vol.01 「指で覆われる景色」
句点「。」の行方
看板をつくる。一階のレストランの看板を。
旧東海道と元なぎさ通りに挟まれたこの場所、品川区立障害児者総合支援施設「ぐるっぽ」は緩やかな坂の上に建っていて、そこはかつて東海道から海岸線へと降りてゆく海と陸の境界線的な場所だった。「元なぎさ通り」という名前の通り、そこより東側は一面海だったのだろう。
日頃、私たちスタッフがお世話になっている旧東海道の商店主の方々が集ってまちづくりに励んでおられ、かつての海と共にあった生活についての写真展に参加し、「ああ、ほんとにここで海苔を獲って、ほんとにここで神輿を担いだまま海まで浸って、子どもたちはいつも海と戯れる生活をしていたんだなぁ」と実感した。私たちはいま、このハザマの場所で、区立の福祉サービスという名目のもと、表現活動をしたり、レストランを経営したり、している。
そう、看板をつくるという話だった。
ぐるっぽでは毎月、成人のメンバー(主に知的障害の当事者、身体障害と重複される方もいる)と一緒に、表現ワークショップをしている。連載一回目で「写真」の話をした。いまからは「園芸・工作」の話をする。
宮下美穂さんという造園家で、東京・小金井市でアートを手立てに市民活動を行うNPOの事務局長に月1回、来てもらっている。とても発想が柔らかいといえば言葉足らずだが、「障害」というものに対する感じ方も、「アート」というものに対する感じ方も、すべて「自分の手と頭で考える」ということと向き合っている人だと思っている。気候のいい季節は施設の6階にある畑を使い、土から入れ替え改良して、時期に合わせて野菜の種を蒔き、あるときはポッド栽培もし、できたてのキュウリ、トマト、赤玉ねぎ、ハーブ、バジルなどを、就労支援事業の一環で運営するレストランで売ってきた。ちなみにそのレストランを「みんなのテーブル」という。
はい、看板をつくるという話。「みんなのテーブル」って書かなくちゃ。
都会の屋上菜園の真夏は暑すぎて、活動できることといったら水をやるぐらいが限界。雨が降る日も畑仕事はできません。で、そんなときはものづくりをする。「みんなのテーブル」をオープンしたのは2019年12月。それで2020年の始めに看板づくりを始めたのだが、新型コロナウイルスが蔓延していろいろ活動を自粛せざるをえなくなり、1回目の緊急事態宣言が明けた2020年6月から数ヶ月ぶりに制作を再開。この日の畑は梅雨時期でびしょ濡れ。なのでみんなは雨風避けられる多目的室。さぁ集中してつくろう。
まずは、板材を自由なサイズにノコギリで切る。一定のリズムでものすごく丁寧かつ正確にノコギリを動かすメンバーさんがいる。そしてそれぞれの板材を数枚机に並べ、つなぎ合わせるために角材を付ける。ここは電動ドライバーで。宮下さんが手本を見せ、メンバーさんに手を添えて一緒にウィーンと。
そのあと下地の色を塗る。しかし一筋縄ではいかない。別に「平等」を謳っているわけではないけど、みんなが塗りたいならみんなが塗れる方がよい。しかし、エリア分けは難しい。なぜなら、あるメンバーはハケの面を使い分け看板の隅まで丁寧に塗ってくれる。もうこれでいいじゃん!ってところまで。しかし、別のメンバーはペンキをたっぷりつけ、その上から重ね塗りしていく。前のメンバーさんの色は一見台無しである。それを別の、さらに別の……またまた別の……と繰り返す。他の人が自分の塗ったところにハケを重ねても、誰もとがめたり怒ったりせず黙々と進めるので、ペンキ塗りはエンドレスに続く。
これがまた面白く。長回しの多いフランス映画の途中で一瞬コンビニにタバコを買いに行って、帰ってきて再びテレビ付けたら「まだこのシーンやってんの?!」みたいな感じと言えばいいだろうか。最後にドライヤーで乾かす。全部で4台あるドライヤーで完成した看板の骨組みを四方からブォーンと乾かす。特に何も話さず、ただブォーンが鳴り響く昼下がりのひととき。
メンバーのひとり、春日さん(仮名)は、いつも無口で一見穏やかだけど、つねに空気を読んでいる。そして然るべきタイミングでいつもスタッフとメンバーの耳目を一瞬にして掻っ攫う。事件が起きたのは、「み ん な の テ ー ブ ル」という文字を書き込むときの最後の時間だった。春日さんは、ドラムのワークショップも、ラジオのワークショップもどれにおいてもトリを務めるのだ。
メンバー一人ひとりの希望を聞きながら文字を割り振って一字ずつ看板に書く。あるメンバーさんが最初の文字「み」を書いた次の瞬間、「ん」の文字も書いた。まぁ二文字続けて他の人の担当分まで書いてしまうのは想定内だ。一個ずらそう。では次のメンバーさんは「の」の字を。これがいわゆる可読性で言えば相当にオリジナリティ溢れる「の」になったのもまだ大丈夫。なんとか総合的に「みんなのテーブル」と読める。うん、読める読めるぞ……。しかし、メンバーと均等に決めた文字担当が多く書く人がいたりでズレてくることで余る人が発生してしまった。それが……春日さんだった。どうしよう。このままではトリを務めてもらえない!
そこで考えたのは句点「。」を入れること。「みんなのテーブル。」可愛くていいじゃないか。もちろん「モー娘。みたいやね!」とアラフォーの僕が言っても、多くが特別支援学校を出てまもないアラトゥエの彼女彼らにはまったくスルーされるのは仕方ないとして、とにかく、「春日さん、『。』をお願いします!」となった。するとこれまで茶色の下地に青や黄や緑で構成された一文字一文字の上から大胆に白でものすごく大きな「。」を、むしろ、シンプルに句点ではないタイプの「◯(まる)」をぐるっとハケで勢いよく描ききり、「ーブ」の部分がほぼ消えてしまうという大事件に。
「あー、春日さん!それはちょっと、いやぁ……」とスタッフが叫ぶ。しばし呆然としつつも次の瞬間には、
「さすが、春日さん! むちゃくちゃすごい看板になったね。いけるいける!」と誰からともなく声がかかって爆笑と拍手喝采の渦となる。
ワークショップ終了後、日が照って乾いてきた屋上の畑の様子を宮下さんとスタッフとともに見に行く。じわじわと育つトマトの実を赤くするために先端の芽を摘む必要があるかとスタッフが宮下さんに尋ねる。宮下さんはこんなことを言った。
「看板の文字と一緒じゃないでしょうか。」
この言葉はとても印象深い。つい先日、彼女から僕たちの施設で蒔く種についての相談があった。それは埼玉県飯能市の「野口のタネ」で買いたいというもので、メールには「種苗法の改正によって『F1(雑種第一世代)』の種以外が使えなくなる、個人で流通させてはいけなくなる事態にどう抗うか」ということが書かれていた。
野口のタネの店主・野口勲さんによれば、現代の農業では、同じ規格のものを大量につくることが農家に求められているという。そして、規格通りの野菜をつくるためには、この「F1」の種を使うことになる。「F1」の種から育った野菜は、みんな同じ成育の仕方をし、型にはまったような形になり、そして同じ時期に収穫できるという特徴がある。つまり、収穫から出荷から販売まですべて「管理」しやすいということだ。
一方で、野口さんによれば「在来種」や「固定種」と呼ばれる、昔から使われている種は一粒一粒に特徴があり、多様性があり、早く育つものもあれば遅く育つものなど、同じ野菜でも収穫時期にもバラつきがある。一度種を蒔けば長い間収穫できるが、需要に合わせてまとまった量を定期的に出荷することができないから、お金にするのは難しい。つまり一連の「管理」には向いていないということだ。でも、味も昔の野菜そのままで美味しいので家庭菜園には向いているらしい。そして、いくら無農薬や有機肥料で育てても、味を決める8割は種、本当に昔ながらの美味しい野菜を食べたいなら在来種を自分で育てる必要があると、野口さんは訴える。
スタッフの質問に対する宮下さんの答えは、野口さんの「F1」と「在来種」の間で紡がれる議論と通底しているのではないか。この「管理」は自然だけでなく、「人」にも当てはまるのではないか、ということだ。
自然も人も、コントロールできるもの、する(される)ものだという考えとは別の回路をつくりたい。お店の看板というものは、そのお店の名前を明確に読めるものでないと体をなさいということであれば、そこからすたこら逃走して、句点は文章の最後に打つものだという常識からもシカトを決め込んで。
春日さんの「。」は、この大きな施設の象徴として、今日も堂々とかつての海と繋がったこの坂道に向けて放たれている。(そして、僕はこの連載において、やはり句点を最後に打ってしまっているけど、もっと自由になりたい!)
Profile
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アサダワタル
文化活動家
1979年生まれ。これまでにない不思議なやり方で他者と関わることを「アート」と捉え、音楽や言葉を手立てに、全国の市街地、福祉施設、学校、復興団地などで地域に根ざした文化活動を展開。2009年、自宅を他者にゆるやかに開くムーブメント「住み開き」を提唱し話題に。これまでkokoima(大阪堺)、カプカプ(神奈川横浜)、ハーモニー(東京世田谷)、熱海ふれあい作業所(静岡熱海)など様々な障害福祉現場に携わる。2019年より品川区立障害児者総合支援施設ぐるっぽにて、公立福祉施設としては稀有なアートディレクター職(社会福祉法人愛成会契約)として3年間勤務した後、2022年より近畿大学文芸学部文化デザイン学科特任講師に着任(2024年度より専任講師)。博士(学術)。著書に『住み開き増補版 』(ちくま文庫)、『想起の音楽』(水曜社)、『アール・ブリュット アート 日本』(編著、平凡社)など。2020年より東京芸術劇場社会共生事業企画委員。
この記事の連載Series
連載:砕け散った瓦礫の中の一瞬の星座 -ケアと表現のメモランダム-|アサダワタル
- vol. 102024.07.02最終回:「当事場」をつくる
- vol. 092023.07.06社会福祉法人元理事長による性暴力とハラスメントについて考えた、「そばに居る者」としての記録
- vol. 082023.02.03どこにも向かわない「居場所」をどこまで続けられるか
- vol. 072022.10.04「舟」に一緒に乗り込むこと。 ―ラジオと支援と高崎くんと [後編]
- vol. 062022.08.15粘る。いても、いなくても。 ―ラジオと支援と高崎くんと [中編]
- vol. 052022.05.31生きてきた証は電波に乗って ―ラジオと支援と高崎くんと [前編]
- vol. 042022.01.26「壁画」と「まなざし」
- vol. 032021.12.09この現場から、「考える」を耕す
- vol. 012021.10.08指で覆われる景色