福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【画像】手で開いた本の中央から、ひとりの人物が浮き上がっているイラスト。その影が本に投影されている【画像】手で開いた本の中央から、ひとりの人物が浮き上がっているイラスト。その影が本に投影されている

本から「介護にあるまなざし」に出会う。イラストレーター、哲学者、ジャーナリスト、介護福祉士の選ぶ4冊 “自分らしく生きる”を支えるしごと vol.23

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介護の世界にたずさわる人が大切にしている、価値観や倫理。そのまなざしに触れることは、いま介護現場にいる方はもちろん、この社会にいる人同士が共に生きていくうえでも、大きなヒントを与えてくれるはずです。

そんな思いで今回、編集部は4名の方に「介護にあるまなざし」と出会える本を紹介いただきました。

・高橋恵子さん/イラストレーター
・村上靖彦さん/哲学者
・島影真奈美さん/ジャーナリスト
・佐藤悠祐さん/介護福祉士

現場で働いたり活動したり研究をしたり……さまざまな形で介護の世界を知る方が、ジャンルを問わず選んだ一冊。ぜひ手にとってみてください。

『生きていく絵──アートが人を〈癒す〉とき』

【書影】
著/荒井裕樹(筑摩書房)

【推薦】高橋恵子さん/イラストレーター

「アトリエ」と「介護施設」は、どこか似ている。どちらも生身の他者がそばにいて、自分を取りつくろうことができない場所だからだ。

そう感じるのは、私が10代の頃から今に至るまで、利用者として、また時にはスタッフとして、この二つの空間を行き来してきた経験があるからだろう。

アトリエや介護施設のように、互いの生きざまが交差する場を、誰にとっても居心地の良いものにできるかどうか。それは「そこに漂う、まなざし」によるところが大きいように思えてならない。

私が居心地のいい場として思い出すのは、八王子にある精神科病院「平川医院」の〈造形教室〉だ。ここは、安彦講平さんが主宰するアトリエで、主に心の病を抱える方々が個々のペースで創作を続けている。

かつてこの教室を訪れた際、漂う絵の具の匂いと共に私が存在を強く感じたのが、場を支える人々の「まなざし」だった。安彦先生を中心に生まれるそのまなざしは、「ひとりひとりを見守りながら、全体をそっと放っておくような」ものであり、言い換えれば、人の孤独や傷をそのまま受け止めつつ伴走してくれるような、他者へ負荷をかけない添いかたでもあった。

荒井裕樹さんの著書『生きていく絵』では、この〈造形教室〉の様子が静謐な筆致で鮮やかに描かれている。その冒頭で、荒井さんは「人は常に、自分の心の様子を表現して誰かに伝えながら生きています」と綴る。つまり描く前から、私やあなたはすでに、自己表現しているひとりなのだ。

本を読むと、心の病を抱える人々の表現を大切にしつつ、変化を見守る〈造形教室〉のまなざしがよくわかる。病を抱えたひとりひとりのなかには、私たち自身をうつし見ることもできる。

さて今日、私は他者にそして己にどんなまなざしを向けるのだろうか。

『障害者殺しの思想【増補新装版】』

【書影】
著/横田弘(現代書館)

【推薦】村上靖彦さん/哲学者

初版は1979年刊行。介護の本ではない。しかし、本書に記される青い芝の会神奈川県連合会の活動は、障害の有無にかかわらず、生存のためにケアを必要とするあらゆる人が「自らの意志において自らについて決定し、社会のなかで生きる」当事者主権のあり方を、その行動と言葉によって示した。

1970年、障害のある子どもを殺した母親に対する減刑嘆願運動が起きた。脳性まひがある著者は、その後も続く同様の“障害者殺し”の事件において、常に保護者側に同情的な新聞報道を検討し「はっきり言おう。/障害者児は生きてはいけないのである。/障害者児は殺されなければならないのである。」と書く。殺された子どもには同情を向けない社会、そして経済的な価値を産まない人間は死んでもよいという優生思想の蔓延に抗って、誰であれ人間全員が生きる権利を強く主張したのだ。

青い芝の会のメンバーが自立生活運動を率い、ボランティアを組織して地域での暮らしを始めたことは、障害福祉に携わる人の間ではよく知られている。現代に続く脱施設化の出発点が、当事者による人権を求める主張だったことは今後も記憶されるべきだろう。介助者は意を汲んで先回りせずに、当事者の意のままに動くべきであるという「介助者手足論」のような極端な主張の是非には議論があるだろうが、介護において誰の位置に立ってまなざすのか、根本的な視座を与えてくれた。

社会から疎外された当事者の位置に立ち、当事者の声から考える思想は、中西正司・上野千鶴子による『当事者主権』(岩波新書)によって知られるが、横田さんたちの活動はこの源流にある。本書は、そのことを教えてくれる歴史的な一冊である。

 『それでも私は介護の仕事を続けていく』

【書影】
著/六車由実(KADOKAWA)

【推薦】島影真奈美さん/ジャーナリスト

本書の著者である六車由美さんは、大学の職員から介護の世界に転身されたキャリアを持つ。自宅の1Fを改装したデイサービス「すまいるほーむ」(静岡県沼津市)で働く傍ら、高齢者の方々に過去の話を聞き書きする「介護民俗学」を実践してきた。

聞き書きを通じて、歩んできた人生や生きてきた時代が浮かび上がる。結果、かかわりかたが変わり、介護も変わっていく。そんな手ごたえを感じ始めていた矢先、コロナ禍に見舞われた。予想もしない事態の中で著者は日々の介護に戸惑い、悩み、苦しみ、それでもなお、喜びと出会う。つながってはゆらぎ、ゆらいではつながる日々が、六車さんの飾らない言葉で丹念につづられていく。

作中には、さまざまな利用者さんやその家族とのエピソードが登場する。中でも印象に残るのが、すまいるほーむに7年間通ってたきよしさんのことだ。訃報を受け取り、お別れ会のためにアルバムを作成する中で著者は気づく。晩年は食事や排泄、入浴、ベッドへの移乗に至るまですべてに介助が必要だったが、残された写真の大半は笑っていたり、おどけていたり。以前と変わらぬ笑顔で、積極的に周囲とかかわろうとしていた。しんどそうにしている印象が強かった、記憶の中のきよしさんは、最晩年の一つの側面に過ぎなかったことに驚かされる。

著者は、介護に行き詰まりを感じたときこそ、「今」という時点を「かかわりの中」に置き直してみることの大切さを説く。すべての人にいくつものかかわりの歴史があり、今かかわっている瞬間も、歴史全体の一部に過ぎない。その気づきは「生そのもののまるごとの肯定」と「生きることを応援し、生きていることを喜び合う」まなざしへとつながる。そして、最期まで自分らしく生きる希望への道を明るく照らしてくれるのだ。

『さくら』

【書影】
著/西加奈子(小学館)

【推薦】佐藤悠祐さん/介護福祉士

トランスジェンダーの僕は、学生時代に悩みを相談できる相手がいませんでした。

現代のようにLGBTQ+に対する理解も知識も乏しい社会のなかで、性別の葛藤や恋愛の悩み、それらを誰にも相談できない苦しさを抱えながら、周囲の“当たり前”に溶け込めるように必死に自身を偽り続ける日々。自分を理解してくれる人が現れる日など一生来ないとすら思っていました。

そんな心のモヤモヤを唯一吐き出せる相手は自宅で飼っていた犬のふうちゃん。僕の話を否定も肯定もせずに(たまに鼻をスンとならしながら)話を聞いてくれた存在に何度も心が救われていました。

今回ご紹介する小説のタイトルは、ある家族を見守る犬の名前です。

その犬「サクラ」がいる長谷川家は、スポーツ万能でみんなの憧れである長男のハジメとその弟で主人公の薫、自由奔放に生きる末っ子の美貴、そして両親がいる5人家族。大阪の新興住宅地で不自由なく営まれていた暮らしは、ある事故をきっかけに摩擦を生み、やがて5人はバラバラになっていきます。

決して“みんな笑顔のハッピーエンド!”ではない、それでも愛を持って生きている人たちの物語です。

読み進めていくうちに登場人物に対して、なぜあのような行動をしたのかという疑問や、独りよがりな思いを突き通すことへの違和感、ともすれば嫌悪感に近い感情を抱くかもしれません。それが“その人らしい”行動だとしても、です。

およそ“その人らしさ”なんていうのは、綺麗なものだけではなく、側から見れば、いびつで、異質で、受け入れられず、理解し難いこともあるのだと思います。それでもそこに対峙したとき、ケアを提供する多くの人たちは「何をしてあげられるか」を考えるでしょう。

けれど、ふうちゃんもサクラも「何もしない」のです。いや、「何もしないをしてくれる」のかもしれません。否定しない、考えを押し付けない。無理に話を聞き出そうともしない。

ただそこにいて、受け止めたり、受け入れてみたり、時には受け流したり。そのような関わり方も“その人らしさ”を支えるアプローチの一つなのかなと思います。


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連載:“自分らしく生きる”を支えるしごと