「個人の心の問題」の多くは環境や政治の問題でもある〜「あなたのため」というバウンダリーの侵害〜 こここスタディ vol.21
自分と他者を区別するもの、違いでありその違いを守る境界線である「バウンダリー」。前編では、ソーシャルワーカーの鴻巣麻里香さんに、そもそもバウンダリーとはなにか、どうすればバウンダリーが育まれるのか、について解説いただきました。
前編:「自分と他者を区別する境界線『バウンダリー』とは?ソーシャルワーカー鴻巣麻里香さんによる解説」
後編では、「愛」という言葉で他者をコントロールしようすることの危うさ、社会的な視点から眺めるバウンダリーについて寄稿いただきました。(こここ編集部 垣花)
バウンダリー侵害によるコントロール(支配)が厄介な点は、多くの場合「愛」という砂糖をまぶしてその加害性を隠そうとすることです。親も教師も、配偶者も恋人も「あなたのため」「愛しているから」とバウンダリー侵害を正当化します。愛しているから秘密はだめ、愛しているから私に任せておきなさい、あなたのためを思ってしたこと、あなたが未熟だから私が……どれも愛による支配です。
「そんなのは愛じゃない」と言われそうですが、これは「愛か支配か」ではなく愛による支配、愛であり支配なのです。支配や暴力の多くは、愛がエネルギー源です。体罰も虐待もDVも、加害者は本気で相手を想っている、愛していると信じています。多くの場合、これは錯覚ではなく本気です。
私はよく学生たちに「すぐ愛を持ち出す人には要注意」と言います。例えば「愛してる」と言って抱きしめてくれて機嫌が良い時は遊びに連れて行ってくれたり欲しいものを買ってくれるけれど気分次第で殴ってきたり食事を与えない親と、「愛している」とは言わないし抱きしめてくれることや一緒に出かけることは少なくても殴らないし叩かないしちゃんと食事を用意して必要なものを用意してくれる親、どちらが「良い親」でしょうか。
少し極端な例ですが、子どもにとって安全な環境を用意できているのは後者です。児童虐待について関係者が集まるの会議を開くと、ほぼ必ず「親の愛情不足だ」と言う人がいます。そういう人に「愛ってどうやって測るんですか? どのくらいだと不足してることになりますか?」といじわるな質問をしますが、みなさん返事に窮してしまいます。愛情は観察できず、量を測ることができません。観察可能なのは行動だけ。子どもを個として尊重し、年齢に応じたケアを提供できているか、愛ではなくバウンダリーという物差しで観察することが重要です。
恋人や夫婦も同じです。「愛している」と言いながら「私がされて苦しいこと」の境界を踏み越えてくるのは、愛されなくなる不安を利用した支配です。愛してるとか好きだとか言ってこなくても「嫌なことをしない」「意見をきいてくれる」人の方があなたにとってずっと価値のある、関係を守っていくべき相手だよと学生たちに話しますが、伝わったり伝わらなかったりです。
「嫌なことをされるのに好きなんです」と言う子にも出会います。その「好き」は多くの場合相手が離れていくことへの不安で、すでに「私は私」という軸が揺らいでいます。不安にさせて相手をコントロールする、相手の罠にはまりかけているので要注意です。
バウンダリーを侵害され続け、無意識に身につけてしまうもの
いくつかの事例を挙げてきましたが、えてして大人は自分より弱い立場にある人に対し、バウンダリーを侵害するという方法でコントロールを試みます。そのコントロールは、意図的に行われているとは限りません。私たち大人自身が、子どもの頃からバウンダリーを侵害され続け、その方法を無意識のうちに学び身につけてしまったのだと言えます。
自分たちも守られてこなかったのですから、他者のバウンダリーを守ることが難しいのは当然です。その結果、パワハラやセクハラに甘く、暴力や搾取の被害者には厳しく、体罰的な指導や自主性を奪う理不尽な校則はなくならず、子どもを親の所有物のように扱う世の中が続いてしまっています。
また、私たちの多くは子どもの頃にバウンダリーの調節機能をしっかり身につけることができないまま大人になりました。その結果、相手のバウンダリーを踏み越えたり、踏み越えさせて苦しくなったり、距離感をバグらせてトラブルになったりします。
「私は気にならないから」というマジョリティーの声によって差別が温存されているのも、「私は気にならないが、苦しんでいる人がいるからその声を大切にしよう」というバウンダリーが機能していない証左なのかもしれません。
バウンダリーの侵害や揺らぎは個人の「心の問題」ではなく「ソーシャルな問題」
私の職業は「ソーシャル」ワーカーですので、常に「世の中(環境)の側の問題」について考える癖がついています。バウンダリーの侵害が逆境体験(トラウマ体験)に大きく由来することはこれまでも書いてきましたが、その逆境体験は生活環境、そしてより大きな、世の中のあり方に起因すると私は考えます。
例えば親に経済的な余裕がなければ心理的な余裕も削がれ、親自身の無力感や子どもへの心理的な依存を深めることになります。それが子どもの心理的な境界線(バウンダリー)を侵害する起因となります。また、経済的な困窮を理由に子どもの自室を用意できなければ、子どもは環境的な「私だけの場所」を得ることができなくなります。
私だけの場所、私だけの時間は、バウンダリーを支える力です。私だけの部屋だけでなく、私だけの食器、私だけのタオル、私だけのおもちゃ、そういったひとつひとつの小さな「私だけの」が守られて、私は私というバウンダリーを補強していくのです。経済的な事情でそういった「私だけの」を用意することが困難になれば、バウンダリーは徐々に侵害されてしまいます。
他にも、例えば生活困窮から子どもがアルバイトで生計を支える、あるいは病気の家族をケアする、年下の弟妹のめんどうをみる、そういった年齢にそぐわない役割を担うことで、自分の容量以上の負荷、つまり他者の生命や健康にかかわる責任を抱え込む癖がついてしまうこともあります。
バウンダリーは「私が担える責任はここまで」の境界線でもありますから、子ども時代から他者の生命や健康にかかわる責任を担うことが当たり前になれば、その境界線は脆弱になります。つまりバウンダリーの揺らぎは「心の問題」にとどまらない、環境的な困難さに由来するソーシャルな(社会的な/世の中の)問題でもあるのです。
政治が社会的に弱い立場に置かれた人の方向を向いていることの大切さ
バウンダリーの揺らぎや侵害を社会的な視点から眺めたとき、もうひとつ考えたいのが特別支援教育です。例えば学校が、大きな音に過敏性があったり、集団が苦痛な特性を持つ子どもにとって安全な環境を用意するためには、少人数の教室であったりイヤーマフや衝立といったさまざまなツール、特別支援教育のプロフェッショナルといった人材が必要です。しかしながら、多くの自治体では特別支援教育にかける予算も人材も不足しており、学校での環境整備が追いつかない状況です。
家庭と学校、子どもの時間を占める二つの居場所でバウンダリーが守られるためには、生活困窮家庭への支援や特別支援教育の充実など、社会的に弱い立場に置かれた人々のためにしっかり予算が使われていること、つまり政治が弱者の方向に向いていることが大切です。セクハラやパワハラ、児童虐待、性暴力といったバウンダリーを侵害する行為を防ぐ枠組みがどれだけ強固であるかも、法制度という「世の中」の問題です。バウンダリーは、そしてバウンダリーだけでなく、個人の心の問題とされていることの多くは環境の、政治の問題でもあるのです。
あらゆる関係がそのままではイコールではないからこそ
人と人とのあらゆる関係性は不均衡です。上司と部下、親と子ども、教師と生徒というわかりやすい上下関係はなくとも、例えば友人同士でも経済力や社会的地位の差や職業の違いで相手に与える影響力に差が生じます。言葉や行動で互いに与え合う影響力の格差が、関係性における不均衡だと言えます。
夫婦関係も同様です。恋人同士では、特に性愛において男性の側に優位性が偏りがちです。妊娠のリスクと体格差によって、女性が弱い立場に置かれています。イコールではない関係性を互いにとって安全なものにするために、バウンダリーを守ることが必要です。バウンダリーを守るためには、まず「あらゆる関係は(そのままでは)イコールではない」という自覚の上に、相手に与える影響力の強い側に、相手のバウンダリーを侵さないよう配慮と工夫が求められます。
シンプルに「相手にとって苦痛になることはしない」「相手のNOには素直に応じる」ことが大切ですが、相手のバウンダリーが(これまでの逆境体験等によって)すでに揺らいで脆弱になっていると、NOという力が損なわれていたり苦痛を苦痛だと感じとるセンサーが鈍ってしまっていることもあります。その場合、どんなにブレーキをかけても相手の側がバウンダリーをゆるゆるにしてしまい、意図せずとも支配・被支配の関係になってしまうということも起こりえます。「互いに心地よい関係がDVだった」ということも、往々にしてあるのです。
不均衡な関係性の中では、相手のバウンダリーに踏み込まない工夫や配慮と同様に、踏み込ませないための防御も重要です。バウンダリーが侵害されて苦しんでいる学生たちに「A.T.フィールド全開にして!」と冗談混じりに伝えることがありますが、この防御はなかなかに困難だったりします。私たちの多くは幼い頃から周囲の大人によって徐々にバウンダリーが侵害されているので、バウンダリーの厚さや強度を調節して自分を守ることは、逆境に置かれた経験がある人ほど獲得困難なスキルになるのです。
貧困や暴力といった逆境の中で育った子どもが、性被害や望まない妊娠、デートDVといった困難を繰り返し経験してしまう傾向にあるのも、バウンダリーというキーワードで紐解くことができます。
「安全ではない相手」の7パターン
揺らぎ、脆弱になったバウンダリーを復元し、「私は私。あなたじゃない」を守るために何ができるか。大切なのは自分を傷つけない安全な人との関係を築き、そういった相手を周囲に増やしていくことですが、「どんな人が安全か」の判断はなかなか困難です。ですが、「安全でない相手」を遠ざけることはそう難しくありません。
暴力をふるう
人格を否定する
話を遮る
予定を無視する
誰かと比較する
容姿や体型をジャッジする
許可なく身体にふれる
この7パターンのどれかひとつにでも該当する人間を遠ざければ、対人関係における安全の最低ラインは守られると私は考えます。つまり「嫌なことをしてくる人」から遠ざかるということですが、それは「自分に甘い人とだけ付き合う」ということを意味しません。
例えばあなたが仕事で何かミスや失敗をしたとき、「あなたのこの仕事や作業はよくなかった」と行動を指摘してくれる人は、厳しくて苦手だと感じてもあなたにとって安全な人です。「お前はダメな人間だ」などと人格を否定する人は遠ざけましょう。ミスや失敗を黙認する人、いつも庇ってくれる人も危険です。ミスや失敗から学び、挽回するチャンスをあなたから奪っているからです。これもバウンダリーの侵害だと言えます。
「私のせい」を手放すこと
「苦痛を与える人」と「苦手な人」は、重なる部分はあっても、イコールではありません。もし人格を否定されたわけではなく、行動を指摘されただけなのに「私の全てが否定された」と感じてしまったら。あるいは賞賛や肯定以外の自分に対する全ての言葉や眼差しを攻撃や否定であると感じてしまったり、自分以外の誰かに関心が向けられると不安になってしまったり、ただ違っているだけなのに否定されたと感じてしまうことがあれば、それはかつての逆境によってあなたの中に生じたトラウマが原因となって、「私は私」というバウンダリーが傷つき壊れかけているサインなのかもしれません。
まずはバウンダリーが侵害される原因となった出来事や人、環境的要因を探っていくことで、「私のせい」「私が悪い」「私がおかしい」という信じ込みを手放してほしいと思います。
私たちは小さな頃から「人のせいにするな」「世の中のせいにするな」と言い聞かされてきました。しかし他者の言動よって、あるいは環境によって傷ついたならば、その原因をちゃんと「人のせい」「世の中(環境)のせい」に投げ返して線引きをしなおすのは当然のことです。「私のせい」を手放すことも、バウンダリーと復元し守るために必要なプロセスなのです。
前編:「自分と他者を区別する境界線『バウンダリー』とは?ソーシャルワーカー鴻巣麻里香さんによる解説」
Information
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Profile
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鴻巣麻里香
ソーシャルワーカー/KAKECOMI代表
精神科医療機関勤務、東日本大震災被災者支援を経て、フリーランスのソーシャルワーカーとして福島県白河市を拠点に活動している。2015年に非営利団体KAKECOMI(カケコミ)を立ち上げ、こども食堂と民間シェルター(シェアハウス)を運営。福島県のスクールソーシャルワーカーを兼務し、子どもと親子をとりまく様々な社会問題に取り組む。3匹の保護猫と暮らすシングルマザー。2023年に『思春期のしんどさってなんだろう?あなたと考えたいあなたを苦しめる社会の問題』(平凡社)を刊行。他共編著に『ソーシャルアクション!あなたが社会を変えよう!』(ミネルヴァ書房)がある。
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連載:こここスタディ
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