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【イラスト】安全な空間で本を読み、自分が知らない世界に出会いはじめている人【イラスト】安全な空間で本を読み、自分が知らない世界に出会いはじめている人

それぞれの安心を尊重できる「学びの場」ってどうすればつくれる? ワークショップファシリテーター栗本敦子さんと考える こここスタディ vol.29

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学びは、あたらしい世界にふれる行為だ。それゆえに身構えてしまうこともあるだろう。

そう考えると、安心して学べる場は多くあってほしい。ただ、学びの場へ求める「安心」の形は同じではない。それぞれの安心を尊重できる「学びの場」はどうすれば育めるのだろう?

「Safe(安全)な環境にすることは大切だが、Comfortable(居心地がいい状態)にする必要はない」

そう教えてくれたのは、Facilitator’s LABO えふらぼの主宰で、現在はフリーランスでワークショップのファシリテーターとして活動している栗本敦子さん。

今回の取材を依頼したところ、そのお返事のなかで「場の安全」にまつわるテキストを送ってくれたのだ。

テキストを読んで、ハッとした。そもそも「安心」な場はどうすれば作れるのかを知りたいと思っていたけれど、本当に知りたいのは「安全」な場の作り方だったのかもしれない。そもそも安全が担保された学びの場ってどういうものだろう。そこから尋ねてみた。

安全な環境とは、不当に傷つけられない環境

学びの場において、どんな環境が安全なのか。栗本さんは「学びの場」は、学校や職場、趣味や市民活動の場など、さまざまありますよね、と伝えてくれる。

栗本敦子さん(以下、栗本):シチュエーションや集まる人の関係性によって、「安心」のあり方は、ちょっとづつ違うかもしれない。でも「安全」はどの場においても大事です。安全な場は「不当に傷つけられない場」と言えるかもしれません。

「不当に傷つけられない場」から連想したのは「セーファースペース(※注1)」だ。

※注1:セーファースペース(Safer Space)とは、差別や抑圧、あるいはハラスメントや暴力といった問題を、可能な限り最小化するためのアイディアの一つで、「より安全な空間」を作る試みのことを指す。(『生きるためのフェミニズム─パンとバラと反資本主義』タバブックス、 著:堅田香緒里)。

栗本さんは「セーファースペース」は「差別や抑圧などの問題が起きた場合はすぐに適切に取り扱われる場でもある」とふれつつ、「安全な環境」のイメージを話してくれた

栗本:初めて自転車に乗るときって絶対転ぶじゃないですか。だから、転んで膝をすりむくぐらいのことは、やむを得ないと思うんです。でも、いきなり、急な坂とか、車や人通りが多いところで練習をさせられて、誰かにぶつかって怪我をさせてしまったり、自分が大きな怪我を負ってしまったりする環境は、安全ではないですよね。

学びの場を用意する側は、自転車の練習をしたい人がいるときに、補助をしたり、ヘルメットを準備したり、車が来ない場所や人通りが少ない場所を提供したり、環境を整備したりする必要があると思うんです。

さらに、栗本さんは「安全な環境」は選択肢があると思える場でもあるのではないかと続ける。

栗本:暴力の被害にあっているとき、何かに追い詰められているときは、「こうするしか方法がない」と思わされてしまうことが多くあります。その環境で我慢するか、戦うしかない。でも、それしか選択肢がないのって安全じゃないですよね。

「嫌だ」って言うこともできるし、黙ってやり過ごすこともできるし、その環境から離れることもできる。安全な学びの場は、選択肢があると思える場であり、自分で選んだという感覚をもてる場でもある。選択肢があるなかで「言わない」を選ぶことと、選択肢がなくて「言えなかった」ことは違います。

本人が、いろんな物事の優先順位とか自分のエネルギーを考えて、今は言わないことを選んだと思えていたら意味合いは変わります。外から見たら同じ行動に見えるかもしれないけれど。だから、わたしが携わる場では、いろんな選択肢があると思えるようにしたいと思っています。

安全な環境を支えるルールとは?「協力」「尊重」「守秘」

学びの場において「不当に傷つけられない」「選択肢があると思える」環境はどのようにつくっていけばいいのだろうか。栗本さんが担当するワークショップでは、その場におけるルールとして「協力、尊重、守秘」の3つを提示することが多いという。

栗本:「協力」は、グループワークをするための移動などを含めて、一緒に場をつくる一人として協力をお願いしたいということ。

「尊重」は、誰の意見が1番正しいか決めたり、統一見解を出したり、誰かを論破するのではなく、むしろお互いの違いから学び合う姿勢をもって、尊重し合ってくださいということ。

「守秘」は、ワークショップの場で学んだエッセンスや栗本の発言は持って帰ってほしいけれど、その場で出た個人的な話は、仮にいい話だとしても、本人の了解がない限り外に持ち出さないということ。

最初にこの3つを伝えます。ただ、これらをいきなり伝えても、実際にそれを全員が「そうします」と実践できるかどうかは、また違う話だなと思っています。

だからこそ、学びの場において「導入」をどう設計するのか、参加者に何を伝えるのかは鍵になってくるはずだ。栗本さんは、導入でよく行うワークについても教えてくれる。

栗本:ペアやグループで自己紹介をしてもらうときに、呼ばれたいあるいは、名乗りたい名前と、場の目的にもよりますが「今日の調子を0〜100で」などのお題で話をしてもらいます。そのとき次のように説明することが多いです。

「一人1分間、順番でいきましょう。その1分は『話し手の時間』です。プレゼンではないので、まとまらなくてもいいし、『わたし、このお題でしゃべるの嫌なんです』的な話でもいいです。まわりの人は、言葉だけじゃなく相手をまるごと聞くことを心がけてください。息を詰めて黙って聞けということではありません。相手が話しやすくなる意図があったとしても、ツッコミは、話し手のペースを乱してしまうことがあります。まわりは喋らせなきゃと思わなくて大丈夫です。沈黙していても、この人は今考えて沈黙しているんだな、と思って待ってください」

喋る時間が自分にまわってくると「ちゃんと喋らなくては」と思ってしまう人もいるだろう。わたしもそうだ。周囲が気遣って話題を振ってくれればくれるほど、申し訳なさだけが膨らんでいくときもある。栗本さんの案内は、それらの感覚をやわらげてくれる気がした。

ただ、人の視線が自分に集まり、スポットライトがあたることで緊張してしまうこともあるだろう。

栗本:私はどちらかというと、喋りながら考える人だし、割と言葉が強いタイプなんです。でも、じっくり考えてから、少ない言葉で表現する人もいるだろうし、喋る以外の表現方法をとりたい人もいると思うんですよね。

大勢の前でのおしゃべりは苦手だけど少人数であれば平気な人も、テキストコミュニケーションであれば得意な人も、目線を合わせなければ大丈夫な人もいるかもしれない。発話だけではなく、ボディランゲージや、図を活用した方がやりやすい人もいるだろうし、主たる言語が英語や日本手話など、異なる場合もあるだろう。

すべてを完璧に整えるのは難しかったとしても、喋る以外の手段を選べたり、そのサポートが場に用意されていたりしたら、自分が「尊重」されていると感じるような気がする。

各々のコンディションは常に変化があることを前提に

自己紹介が終わった後は、栗本さんも参加者に「よかったら手を挙げてください」と言って、「調子が90から100の人、70から89の人」などと聞いたうえで、次のことをお伝えするそう。

栗本:「別に数字が高いからいい低いからダメとかではありません。むしろ低い人は、来てくれただけでありがとうございます。これからやるワークは、頭を使って考えることも多いです。自分の心とかコンディションとかが変化するかもしれないので、それを確かめながらやってもらえるといいなと思います。来たときは元気だったけれど、だんだんこんがらがってしんどくなってくるとか、しんどかったけど喋ってるうちに楽しくなってきたとか、いろいろあるはずです」

その日のコンディションは、朝起きてみるまでわからないことも多い。朝は調子がよくても、移動やワークショップがはじまるまでに、変化があるかもしれない。ワークショップの途中で急に具合が悪くなることもあるかもしれない。コンディションが安定していること前提ではなく、常に変化があることを想定して共有してもらえると、自分のペースで参加しやすい。

栗本:ワークショップは「時間がないのですぐ本題に」としてしまうことがあると思います。ただ導入の目線合わせや場の安全にまつわるところに時間をかけた方がスムーズにいく感覚があります。でもそこは迷うところでもある。ファシリテーター向けの研修では、「私がやっているやり方が一番いいとは思っていない」と必ず伝えます。私自身、さまざまな引き出しを持って、いろんなタイプの活動をしたいとも思っています。

学びの場をつくるファシリテーターのあり方は、参加者に影響を及ぼす。ファシリテーター自身の発言や仕草を参加者は見ており、その姿がロールモデルの一つになりうるからだ。

栗本:ファシリテーターとして、自分が問われるんですよね。「何か言ったら聞いてくれそうだな」と、参加者に思ってもらえる雰囲気を出せていないとまずいですし、言っていることとやっていることが違うのもまずい。

「今日はみなさんお互いに尊重しましょう」と言っていた人が、高圧的な態度やふるまいで、参加者の発言を遮っていたら、怖いじゃないですか。

場の主催者が「安全」の環境設計をサボらない、でも主役は参加者

栗本さんが「協力」という言葉で示したように、学びの場において、参加者それぞれが「一緒にこの場を作る」考え方は、とても大事だ。

しかし、そこだけに焦点を当ててしまうと、それは場の主催者が環境設計を怠る言い訳に使われてしまう気がする。栗本さんはその点、どう捉えているのだろうか。

栗本:場を作るのは誰かという問題はあります。その場の責任は主催者やファシリテーターにある。けれど、ワークショップの主役は参加者です。参加者が「この場は自分たちが作っている」という感覚を持てることはすごく大事だなと思っています。

「完璧に安全な場を作るのは正直難しい」と栗本さんは言う。たとえば同時進行で複数のグループワークが行われているとき、すべての状況を正確に把握するのは難しいだろう。見えていない部分でなんらかの問題が発生していたとしても、すぐ気づけるかどうかもわからないからだ。

栗本:グループワーク等で違和感があったときに、それを誰に言えばいいのかとか、言ったらどうなるのか等がわからないまま「一緒にこの場を作っていきましょう」と言われても困りますよね。だからこそ窓口を明確にしておくのは大切かもしれません。

また「ちょっと嫌なんだけど」ということを参加者が言いやすいように、発言のハードルをできるだけ低くしておくことは心がけていますね。そういう声が出たときには、「いや、気にしすぎですよ」ではなく、「それはちょっと考えなきゃいけないですね」とキャッチできるようにしています。

『心理的安全性のつくりかた』の著者である石井遼介さんが提唱する「心理的安全性の4つの因子」を思い出す。石井さんは「話しやすさ」が重要だとし、それらは日常の行動が積み重なって作られるという。

会社・組織における文脈ではあるが、学びの場においても、なにげない発言やリアクションを受け取ろうとすることが、発言のしやすい場をつくっていくことになるのかもしれない。

そういえば、あるワークショップに参加したとき、グループワーク中に休憩しているファシリテーターと出会ったことがある。ファシリテーターは「どんな風に話し合いが動いているのかを見ておくことが大事」と栗本さんは教えてくれる。

栗本:「コンテント」と「プロセス」という言葉があります。コンテントは「WHAT」にあたるもの、「こういう話し合いがありました」と書きおこせるようなもの。プロセスは「HOW」にあたり、グループワークがどのように行われているのか。盛りあがっているのか、ただ世間話をしていて話題が逸れているだけなのか、ディスカッションが弾んでいないように見えるけど、じっくり考え込んでいて言葉数が少ないだけなのか。見ておく必要があるんです。

「コンテント」と「プロセス」をさらに調べてみる。氷山の一角、水面から飛び出して見えている部分がコンテントで、可視化されていない集団や組織の関係性やコミュニケーションの質の部分や、人の内面的な部分がプロセスだと言われている。

学びの場において、すでに見えているものだけではなく、参加者それぞれの水面下でうごめいているものがあるという前提をもって見守ることも、大事なポイントなのかもしれない。

差別的な発言や暴力的ふるまいがあったときにどうすれば?

学びの場には、さまざまな背景や属性をもつ人が集まる。そういった場において、差別発言やそれに近いふるまいをしてしまう人もいるかもしれない。実際にそんな場面に出くわしたとき、主催者やファシリテーターはどうすればいいのだろうか。

栗本:基本的には「“わたし”は同意しません」と明確に伝えるのは大事かなと思います。パッと出せるときは具体的にデータを出して、根拠を示すときもあります。

ただ説得的に「それは間違ってる」とか「それはダメなことです」というだけでは、自分も含めてともに学んでいく場のあり方として違う気がしていて。「それ(差別的な発言やふるまい)についてはもうちょっともっと学んでほしい」みたいなニュアンスで伝えたいと思っています。

質問をした後に、どんな行為やふるまいが具体的にあったのかによっても異なるのかもしれないと気づく。悪意のある行動やふるまい、暴力等には毅然と対応する必要もあるからだ。

「もう一つ思っていることがあって」。栗本さんは、こちらが事前にお送りした質問を踏まえ、続けた。

栗本:「なんらかの事情や背景があり、あるいは、無自覚・無意識に差別的な発言や暴力的なふるまいをしてしまうことはある気がします」と書いてありましたよね。それについて考えていて。特に人権とか差別をテーマに扱う場においては「発言やふるまいと人格をわけて考えること」がとても重要だと思っています。

教育において、人権を大切にすることや差別をしないことが、「思いやり」「やさしさ」をもつというような「道徳的」な考え方と限りなくごちゃ混ぜにされてしまっている側面があります。そのせいで、差別をする人は「人格的にダメ」「ひどい人」というイメージが根付いてしまっている。もちろん差別はダメなのですが、差別することと人格が結びついてしまっていることで、発言やふるまいを指摘することそのものへの難しさがあると感じています。

あくまで、その「発言やふるまい」に対して指摘をする。にもかかわらず、人格を否定されたと受け取られ拒絶されてしまった場合、その人の背景にあるもの、抱えざるを得ないなんらかの事情がわかることはなく、対話の可能性もなくなってしまう。その視点も含め、栗本さんは慎重に考えたいと思っているそう。

「なんらかの事情や背景があるかもしれないこと」に対して、子ども向けのワークショップに携わる方からきいたある事例のことを栗本さんは話してくれた。子どもへの暴力防止をめざしたCAP(Child Assault Prevention)の活動のなかでのエピソードだ。

栗本:とあるワークショップのディスカッションで「体罰」を肯定する子どもがいたそうなんです。そのプログラムのメッセージとしては暴力を肯定することはしない。でも、体罰を肯定してしまう子がいても、その場で頭ごなしには否定しないそうなんです。

なぜ体罰を肯定するのか背景を考えてみると、その子自身が親から「お前のためを思って殴ってるんだ」と言われている可能性がある。「それは間違ってるよ」と言うのは、その子の親も否定することになるし、これまで耐えてきたその子も否定することになるかもしれない。そのワークに携わる方は「体罰は間違ってるんだよ」と言うのではなく、「叩かれたときどんな気持ち?」と尋ねて出てくる子どもの言葉を尊重しつつ、「どんな理由があっても傷つけられていい子どもは1人もいないよ」「子どもたちの怖い、痛い、つらいって気持ちをきいてできた、体罰禁止法という法律があるんだよ」と伝えるそうです。そのうえで、場合によってはしかるべき機関に連絡することもある。

大人向けの研修においても、差別的な発言やふるまいをしてしまった人が、そう思うに至った経緯や背景があるかもしれません。もちろん誤った情報しか知らず、単純に勘違いをしている場合もありますが。

これは劇作家・演出家の平田オリザさんのワークショップに参加したときに教わったのですが、「参加者の人生に対してリスペクトを持つことは大事だ」と。

自分が今それらをできているか、わからないですし、「個人として許せません」と言ってしまうことも数回ですがありました。「発言やふるまい」と「人格」をわけて捉える。相手の人生にリスペクトをもつ。どちらも重要です。それは、参加者だけはなく、ファシリテーターも含めてトレーニングがいることだと思います。人として否定しないで向き合うことができるかは、自分が問われることの1つでもあります。場で起こった事に対してどう向き合うかは、常に問われますし、試行錯誤しています。

ここまで話を伺ってきて、「安全な学びの場」をつくっていくには、専門的な技術が必要だと思えてきた。そもそも「安全」とはなにかが漠然としたままでは、個人の感覚や視野の範囲のなかでの狭い「安全」しかつくれない気がする。

後編では、専門家以外は、安全な場はつくれないのか?を入り口に、場を主催する側・ファシリテーターのあり方やルールづくりの意味、学びと居心地の悪さの関係を栗本さんと考えてみたい。

後編記事:専門家じゃないと安全な学びの場って作れないの?ワークショップファシリテーター 栗本敦子さんと考える


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連載:こここスタディ