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正しい答えを刷り込むのではなく、自分で選ぶ手助けをする「包括的性教育」とは? こここスタディ vol.24

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「性」にまつわることは、信頼できる相手であればあるほど話しづらい場合が多い。そのようななかで信頼できる知識はどこで得られるのか、安心して学べる場所は、どこにあるのだろうか。

前編では、日本の性教育実践と実践者の歴史・性的マイノリティ運動の歴史を専門とする教育学者 堀川修平さんに、そもそも「性」とはなにか、「包括的性教育」について、解説いただきました。

前編:「『性教育』という言葉から何を想像する? 教育学者 堀川修平さんによる『包括的性教育』解説

後編では、「包括的性教育」が重要視する《4つの柱》、大人が性教育を学ぶ意義について寄稿いただきました。(こここ編集部 垣花)

いまを生きる子どもたちが、性教育を十分に受けられる環境整備をするために

ユネスコなどによって2009年に作成され、2018年に改訂された『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』(以下、2018年改訂版を『ガイダンス』と表す)。この『ガイダンス』には以下のような記述があります。

ノンフォーマルでコミュニティを基盤とした環境での包括的セクシュアリティ教育プログラムは、特に就学率が低い、または十分な包括的セクシュアリティ教育が国によるカリキュラムの一部として含まれていない国で、学校外の若者や、最も脆弱で周縁化されている若者層に届けられる可能性をもつ。

[中略]

包括的セクシュアリティ教育の実践方法は、ノンフォーマルでコミュニティを基盤とした環境によって異なる可能性があるが、その内容は科学的根拠に基づいており、さまざまな年齢層に対して推奨される幅広いトピックに従い、効果的なプログラムの特徴と結びつけられなければならない。

(『国際セクシュアリティ教育ガイダンス改訂版』38-39頁)

ここでいう「ノンフォーマル」をそのまま訳すと「フォーマルではない」という意味になります。ノンフォーマル教育とは、学校以外での組織的な学び全般を指す言葉です。つまりここでは、いわゆる学校での授業(フォーマル教育)以外で行われる性教育実践を指しているわけです。日本でも考えてみると、性教育実践は過去から現在まで確かに存在しています。

しかしそれは、子どもたちに性教育を届けたいとする教育者によって個別に行われていたものであり、国として、カリキュラムとして十分に教育環境が整備されているわけではありません。それは現在もそうですし、過去を振り返っても同様であると言えるでしょう。

いまを生きる子どもたちにとって、性教育を十分に受けられる環境整備をするために尽力するのはもちろんなのですが、その子どもたちを育てる私たち大人自身も性教育を受ける必要があります。

そこで考えておきたいのが、包括的性教育を実践する上で重要視されている次の《4つの柱》。それは、「科学的であること」、「学習者がエンパワーメントされること」、「人権を基盤におくこと」、そして「多様性」です。

性に関する歪んだ知識を与え続けられることの危うさ

まず「科学的であること」です。これは、包括的性教育と「純潔教育」や「性道徳主義教育」を比べて考えると理解が深まります。ここでいう純潔教育とは、文字通り純潔を守ることを強調したものです。具体的には、以下のように性を取り扱います。

①性に関する恐怖を用いた誘導を行う
②科学的に根拠のない情報や、デマ、噓も含めた情報を一面的に強調する
③「寝た子を起こすな」というように、学習者に知識を提供しない
④学習者が学習の機会を得られずに巻き込まれたトラブルに関して、救済を無視する(=自己責任化する)

このような点から、純潔教育は、「結婚まで禁欲のみ教育」とも呼ばれます。

「結婚まで禁欲のみ」教育の特徴 包括的性教育の特徴
多くの場合、結婚前の禁欲と、婚前の性行為のネガティブな結果という限定的な内容を取り上げる 人間形成(発達)、対人関係、性的健康など、性に関するさまざまなトピックを取り上げる
若者の性行動をコントロールするために、恐怖や恥に頼ることが多い セクシュアリティと性行為に関する前向きなメッセージを提供しながら、禁欲の利点も説く
避妊について、失敗率の観点からのみ説明し、避妊の失敗率を誇張することが多い コンドームや避妊法を一貫して使用することは、意図しない妊娠や性感染症のリスクを大幅に減らすことができると教える
中絶、セルフプレジャー、性的指向に関する話題を省略したり、バイアスを含む情報である 中絶、セルフプレジャー、性的指向に関する正確で事実に基づいた情報である
意図しない妊娠に直面したティーンエイジャーにとって、養子縁組だけが唯一、道徳的に正しく、成熟した決断であると教える 意図しない妊娠に直面した女性には、妊娠を継続させて赤ちゃんを育てること、妊娠を継続させて赤ちゃんを養子に出すこと、中絶することといった選択肢があることを教える
特定の宗教的価値観を推進することが多い 宗教的な価値観は、個人の性行動に関する決断に重要な役割を果たす場合があることを教える

図表:アメリカにおける性に関する教育内容や主張の対比(Advocates for Youth SIECUS “Toward a Sexually Healthy America : Roadblocks Imposed by the Federal Government’s Abstinence-Only-Until-Marriage Education Program”2001より一部引用。堀川翻訳)

加えて、純潔教育には、ジェンダーバイアスが基盤にあることも指摘したいと思います。「女性は性的に能動ではあってはならない(男性は性的に能動でなければならない)」という女らしさ、男らしさが根底におかれ、女性は都合よく性から遠ざけられ、男性は性に関する歪んだ知識を与え続けられることとなるのです。

【イラスト】重たい石のような形をしたキャラクターが、ある人の背中に抱きついている

そもそも、「結婚まで」という言葉がつくように、純潔教育は「産めよ、殖やせよ」の思想とも相性がいいことが分かります。ですので、この社会に存在する人間は「シスジェンダー(出生時に割り当てられた性別に違和感を抱かない人)・ヘテロセクシュアル(異性愛者)」であるということが前提におかれます。そして、そうでない人たちは、排除・矯正の対象として捉えられるようになります。

つまり、純潔教育は多様性を前提におかないということになります。

包括的性教育は「正しい答えを刷り込むこと」を目的にはしていない

わたしたち人間が、哺乳類としてのヒトから人間になるときには、必ず人間社会において育てられ、そこで様々な価値観や規範を身につけていきます。この様々な価値観や規範の中に、ジェンダー・セクシュアリティと言った性に関するらしさや規範も含まれます。

性に関して「らしくしたい」人はともかく、「らしくない」人、望ましい規範通りに「ありたくない」人達を抑圧・排除し続けているのが、現代社会です。

このような社会に存在している価値観や規範を刷り込み、鋳型にはめるような営みを「教化edification, indoctrination」と呼びます。教化は、個々人の自立を目指すのではなく、他者から言われるままに生きるように、人間に介入する営みのことです。

教育が人間の多様性を前提とした概念であるのに対して、教化は多様性を排し、画一性を前提としていることに大きな差異があります。そのような意味においても、「純潔教育」は、「教育」ではなく、「教化」であるといった方が正確なのです。

包括的性教育は、科学的なデータや知見をもとにキーコンセプトやトピック、学習内容が設定されています。それは総体的性教育(Holistic sexuality education)でも同様です。

ここでいう「科学」とは、医学や生理学などの自然科学に限らず、社会学や経済学、法学、歴史学、そして教育などの人文社会科学も含まれます。統計を用いた数値化でデータが示されるもの、実験や事例研究、文献研究など、実証的であるということを「科学」といっているのです。

単に「女/男はこうあるべき」「男/女はこうあるべからず」といった「らしさ」(ジェンダーに基づく偏見)を根拠に用いるものは、包括的性教育ではないということになります。

加えて重要なのが、包括的性教育は「正しい答えを刷り込むこと」を目的にはしていないということです。科学的なデータに基づく知見をさまざまに提示し、その中から自分自身にとって最も重要なものを選び取れるスキルを身につけさせることが求められています。繰り返しになりますが、そのような点においても、包括的性教育は「教化」ではなく「教育」であるのです。

性教育を通し、性をポジティヴに捉える

続いておさえたいのが「学習者がエンパワーメントされること」です。ここでいう「エンパワーメント empowerment」とは、この社会で抑圧されてきた人(たち)が、抑圧の原因に気づく過程を経て、その社会状況を変容させていく力や自信、誇りを獲得していくことを指す言葉です。『ガイダンス』には次のような記述があります。

包括的セクシュアリティ教育は、個人とコミュニティのエンパワーメント、批判的思考スキルの促進、若者の市民権の強化をすることにより、公正で思いやりのある社会の構築に貢献する。そうすることで学習者に性と生殖に関する健康に対するポジティブな価値観と態度を探求および育成させ、自尊心、人権やジェンダー平等の尊重を育成する機会を提供する。さらに、包括的セクシュアリティ教育は、若者が自分の意思決定や行動、および他者に影響を与える可能性のある方法について責任をもてるようにエンパワーメントする。

ここで指摘されているのは、私たちの身のまわりにある「性」に関する情報の歪みです。想像するに難くないように、日本に限らず国際的にみても、子ども・若者はもちろん、私たち大人のまわりにある性的環境は深刻な状況です。インターネットやSNSから「性」に関する情報を手に入れることはたやすい一方で、その情報が科学的に正確か、あるいは人権侵害を引き起こしていないかを判断する知識を学べていない状況にある大人は少なくないでしょう。

加えて、私たち大人自身が「性」について真面目に語ることを躊躇する状況にあるのは、前編で「今、性教育という言葉を聞いて、具体的に何を想像しましたか?」とたずねた学生の反応からも見て取れます。

近くに座っている学生と意見交流をしてみてほしいと伝えると、さまざまな表情を浮かべながら「学校の授業で学ぶ、からだのつくり、二次性徴、性感染症HIV/AIDS」のような保健体育で学ぶ内容を想像したり、「男らしさ/女らしさや性差別」といったジェンダーについて学ぶ内容を想像したり、性的マイノリティについて学ぶ内容を想像したと答えます。「人前で話すのは、はばかられる」「エッチな内容」と照れながら答える学生もいます。(前編より)

性教育を受けることで、性についてポジティブに捉え、考え、語れるようになる。その結果として、自らの行動自体、他者の人権を侵害したり、リスクの低い行動ができるように育てていくことが望まれています。

ここで「ポジティブに捉える」と書きました。このことはとても重要です。教育を捉える時に「方法」と「目的」との関係性に着目して論ずることが多々あります。

ここでいう「目的」は「ポジティブに捉えられる」ということですが、そのために適した「方法」として、「脅し」や「恐怖」といった感情でコントロールすることは念頭に置かれていません。「怖いこと、汚らわしいことだから、けっして関心を持たないように」と、ネガティブな情報を拡散することで、性に対して関心を持たないように矯正するのは、包括的性教育とは呼びません。

しかしながら、学習主体を「恐怖」や「脅し」をもってコントロールするような性教育実践がなされている場合があります。それらは「脅しの性教育」(あるいは「性脅育」)と呼び、リスクや危険性だけを強調し、性から遠ざけるようなものは「包括的性教育」とは呼ばないということをおさえておきましょう。

人権と多様性をベースに性を学ぶ

学習者が性を学びエンパワーメントされるために重要なのが、「人権を基盤におくこと」、そして「多様性」を前提とすることです。先に「科学的であること」が包括的性教育において重要であると指摘しました。しかしながら、科学も万能ではありません。

例えば、性の多様性に関して次のようなことがありました。「同性愛」をどのように捉えるのかといった時、日本においては1970年代から90年代にかけて、学校教育において「同性愛は性的逸脱」であり「矯正する」対象であると捉えられていたことをご存知でしょうか。

この背景には、「同性愛は病気である」といった医学的知見が存在していました。このような価値観をもとに、1980年代後半ごろまで、日本の性教育実践の中でも、同性愛を「矯正」の対象として捉えていたのです。

つまり、科学的には「正確」とされていたとしても、科学の名の下で、人権侵害を助長させたり、差別に加担してしまっている場合があるということです。そこで重要になるのが、科学的かつ人権を基盤におくという考え方になります。そして、この人権を捉える上で必須の概念が「多様性」になります。多様性に関して、『ガイダンス』には、次のような記述があります。

科学的根拠の要諦は、包括的セクシュアリティ教育が、子ども・若者が正確で年齢に適した知識や態度、スキルを身につけることを可能にするということである。それは、人権尊重、ジェンダー平等と多様性を含む肯定的な価値観、そして、安全で健康的で肯定的な関係を構築するための態度とスキルである。[後略]

(『ガイダンス改訂版』「はじめに」20ページ。下線部筆者)

そもそも、科学的根拠の要として、「人権尊重、ジェンダー平等と多様性を含む肯定的な価値観、そして、安全で健康的で肯定的な関係を構築するための態度とスキル」を身につけることができるようになることが掲げられています。

そのような『ガイダンス』では、包括的性教育の基本10要素として、次の点を掲げられています。

1.科学的に正確であること
2.徐々に進展すること
3.年齢・発達に即していること
4.カリキュラムベースであること
5.包括的であること
6.人権的アプローチに基づいていること
7.ジェンダー平等を基盤にしていること
8.文化的関係と状況に適応させること
9.変化をもたらすこと
10.健康的な選択のためのライフスキルを発達させること

この項目はいずれも重要なのですが、その中でも、「6.人権的アプローチに基づいていること」「7.ジェンダー平等を基盤にしていること」「9.変化をもたらすこと」では、多様性について次のように記されています。

ジェンダー平等を基盤にしていること
[前略]包括的セクシュアリティ教育は、人々の生活におけるジェンダーの重要性と多様性に関する認識を構築すること、文化的、社会的、生物学的な差異や類似性によって形成されたジェンダー規範を検証すること、共感と理解に基づく尊重しあえる公平な関係性をつくりあげることを奨励することによって、ジェンダー平等を実現しようとしている。[後略]

(『ガイダンス』30 ページ。下線部筆者)

人権的アプローチに基づいていること
包括的セクシュアリティ教育は子どもや若者の権利も含む普遍的人権と、健康、教育、情報における平等と被差別に対するすべての人の権利の理解に基づき、また、その理解を促進するものである。[後略]

(『ガイダンス』30 ページ。下線部筆者)

変化をもたらすこと
[前略]包括的セクシュアリティ教育は、若者が、かれらの民族、人種、社会的経済的立場、移民であるかないか、宗教、障がいがあるかないか、性的指向、ジェンダーアイデンティティやジェンダー表現、生物学的および生理学的性的特徴にかかわらず、他者に尊厳と受容、寛容、共感をもって接することができるようなスキルと態度を構築する。

(『ガイダンス』31ページ。下線部筆者)

下線部にあるように、学習者の多様性、あるいは学習者が属する社会を構成する人びとの多様性を前提におきながら、さまざまな属性の人びとの人権を保障する教育実践であろうとしていることが分かります。

わたしたち大人は、何のために「包括的性教育」を学ぶのか?

このような《4つの柱》を重要視する包括的性教育は、私たち大人にとってどのような意味があるでしょうか。そこには3つの意味があると私は考えています。

それは、第1に「自分自身が変容する意味」、第2に「次世代を育成する意味」そして第3に、「社会を変容させる意味」です。

ここであえて私は、「自己変容」を第1に挙げたいと思います。

「性教育」について関心を持つ方と出会う機会が増えてきたように思います。学生たちと関わっていても、「性教育を勉強したい」という明確な目的をもって参加する学生によく出会うようになりました。そこでは、「教師になった時に必要だから」、「子育てする時に必要だから」というような、他者へ「性教育」するために学びたいという声をよく聞くのです。

もちろん、このこと自体を否定するつもりはありません。ただし、考えてみたいことはあります。

本稿で見てきたように、性教育は多岐にわたるテーマで構成されており、加えて人権保障を目指す教育内容です。一方で、私たち自身が「性」についてあまり知らない、あるいは「らしさの思い込み」など、むしろジェンダーバイアスなどをすでに身につけている状況にあります。

ですから、誰かに教えるその前に、まずは自分自身が「性」に関する科学的かつ人権を基盤においた知識を学ぶ必要があると思います。私たち大人が性教育を学ぶ際に、巻末で紹介する書籍、インターネットサイトも役立つでしょう。それらをひとりで黙々と読み進めて学びを深めることも面白いと思いますし、1冊の本を信頼できる友人や仲間たちと輪読することも面白いと思います。

先に「エンパワーメント」という言葉を説明しましたが、そもそもこの言葉が用いられてきた背景には、第2波フェミニズムが存在しています。

第2波フェミニズムには「個人的なことは政治的なこと」という有名なスローガンがあります。「私だけが経験しているちっぽけなこと」として矮小化され、取るに足らないと思われていたことは、「みんなも経験している、私たちの社会構造由来の問題だ」ということをこのようなスローガンで表しているのです。

仲間たちと自由闊達におしゃべりをしながら「あなたの困りごと、私も同じ!」という、自分たちを抑圧している要因に気付く過程を経て、その社会状況を変容させていく力や自信、誇りを獲得していったこと。それをふまえると、私たち自身も1つの本をさまざまな人と読み深めながら、「性」について凝り固まった知識や思い込みを解きほぐしていくことは重要だと私は思います。そのようにして、場合によっては、自らに染み付いた思い込みや誤認を学び落とし、自己変容していく必要があるのではないでしょうか。

私が変わる、社会も変わる

私自身はどうだったのか。私は、大学に入学するまで、性的指向や性自認といった「性の多様性」について一度も正確な情報を学べなかったので、ちゃんと知りたいと思って学び始めました。そのように思ったのは、自分自身が性の多様性に悩みながら生き抜いてきたためです。

そんな私は、教育そのものに対してどこか不信感を抱いて子ども時代を過ごしました。それは、「私自身の人権は、周りの大人から大切にされていない」と思っていたためです。

というのも、学校で「みんな仲良く」という言葉をよく聞いていたのですが、その言葉を発する先生が「ホモは気持ち悪い」といった同性愛嫌悪に支えられた発言や、ホモネタいじりをしていたためでした。

――先生の言う「みんな」に、非異性愛者の私は入っていないんだよな……

そのように、その言葉が出てくるたびに感じていましたし、そんな言葉を投げかける人の言う「人権」など空虚に響くように感じていたためです。

このような認識が変わっていったのは、口先だけ「人権」という言葉を使う大人ではなく、多様な人びとを前提として人権保障のために性教育をしていた教師たちとの出会いがありました。

――自分が出会ってこなかっただけで、教師も多様なのかもしれない。そして、性教育は、おもしろいのかもしれない……

そのように思いながら、誰から強制されるわけでもなく、まずは自分にとって関心があり大事だと思う内容から性教育を始めました。

私にとってのスタート地点であった、性的指向や性自認といった「性の多様性」に関わる概念は、差別問題とも切っても切り離せません。

差別は、言うまでもなく性の多様性に限ったものではなく、同じ「性」でいえば、男性と女性といったジェンダーによる処遇の差、いわゆる「女性差別」の問題も存在しています。また、「人間」という観点でいえば、民族、人種、社会的経済的立場、障害……とありとあらゆる差別問題が社会には存在しています。

私にとっては、自分自身の生きづらさを解消したいという思いから始まった性教育ですが、一つのことを学ぶと関連したテーマについても学びを深めていくというようになり、頭の中で、さまざまな問題が網の目のようにつながって整理されていきました。

第1の「自己変容」は、言わずもがな「次世代を育成する」ことにもつながっています。そして、「次世代の育成」は、単に知識を授けることに留まらず、「社会を変容させる」という意味にもつながります。

私が授業を通して関わった学生たちの中には、実際に性教育実践者、あるいは社会を変える活動に関わるようになった方もいらっしゃいます。それ自体とても嬉しく誇らしいことです。「授業を取り始めた時は、なんとなく教職に役立てばいいと思っていたけれど、それ以上に自分自身の生き方が変わった気がします」と言われたとき、本稿で扱った「教育」の意味を強く感じました。

私たち大人にとって包括的性教育を学ぶこと。未来を担う子どもたちのため、あるいは、人権保障のためと聞くとハードルが高く感じてしまうかもしれません。ですが、そもそも学びの本質には、自己が変わっていくことの楽しさがあるのだと私は考えます。

本稿で見たように、「性」について考えることは、とても幅の広いことでした。まずは、自分がよりよく他者と共に生きるために。そして、私たち自身が置かれている社会を「性」を切り口に見直してみる。そのような形で大人自身が性教育を学び始めてみるというのはいかがでしょうか。


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連載:こここスタディ