福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

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差別ってなんだろう?現代社会における差別の研究者 阿久澤麻理子さんをたずねて こここスタディ vol.25

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人を傷つけたくない。ましてや、差別なんて。

そう思っているけど、どこかでこんな不安も抱えている。「知らず知らずのうちに、差別をしてしまっているかもしれないーー」。なにしろ、「自分はしてないよ」と胸を張って言えるほどには、差別のことを知らないのだ。

そもそも差別って、なんなのだろう?差別をしないために、できることはなんだろう?

そんな問いをたずさえて、現代社会における差別の研究に取り組み、2023年9月には『差別する人の研究――変容する部落差別と現代のレイシズム』を出版した阿久澤麻理子さんに、話を聞いてみることにした。

人権を知らないと差別がわからない?

「差別とはなにか」を考える前に、「人権とはなにか」を知るところからはじめてみたい。というのも、阿久澤さんは 「人権をよく知っていないと、『差別』がわからないんです」というのだ。

ためしに、「人権」と検索してみる。出てくるのは、「誰もが生まれながらに持つ、人間が人間らしく生きるための権利」といった定義。どこか人権教育の授業で習ったような気もする。

しかしこの定義を習うことと、「人権を知っている」という状態のあいだには、まだ距離があるらしい。

阿久澤麻理子さん(以下、阿久澤さん):人権は、英語だと「human rights」。最後に複数形の「s」がつきます。つまり、数えられるほど具体的なものなんです。

でも、日本の人権教育では「思いやり」「やさしさ」「いたわり」みたいな、数えられない抽象的なものとして教えてしまうことが多いんですよね。

人権は数えられるほど具体的なもの。でも「自分が持っている権利を挙げてください」と言われたら、すぐに答えるのは難しい気がする。

阿久澤さんは、「人権を知るためには『世界人権宣言』を読むといいですよ」と教えてくれた。世界人権宣言は、僕らが持っている権利のリストなのだそうだ。

早速ネットで調べてみてみると、国連広報センターが原文を日本語に訳したものが出てきた。

それらを読むハードルが高い場合は、アムネスティ・インターナショナル日本が、詩人の谷川俊太郎さんの訳で公開している「わかりやすい世界人権宣言」というサイトを眺めるのもいいかもしれない。このサイトでは、世界人権宣言で書かれている30条の項目が紹介されている。

・第1条 みんな仲間だ
わたしたちはみな、生まれながらにして自由です。ひとりひとりかけがえのない人間であり、その値打ちは同じです。だからたがいによく考え、助けあわねばなりません。

・第3条 安心して暮らす
ちいさな子どもから、おじいちゃん、おばあちゃんまで、わたしたちはみな自由に、安心して生きていける権利をもっています。

・第5条 拷問はやめろ
人はみな、ひどい仕打ちによって、はずかしめられるべきではありません。

・第7条 法律は平等だ
法律はすべての人に平等でなければなりません。法律は差別をみとめてはなりません。

(世界人権宣言条約条文訳:谷川俊太郎、アムネスティ日本)

上で記したものなどは、僕がこれまで漠然ともってきた人権のイメージだった。さらに、読み進めていくと、「それも人権だったのか!」と、あらためて気づくものもあった。

・第13条 どこにでも住める
わたしたちはみな、いまいる国のどこへでも行けるし、どこにでも住めます。別の国にも行けるし、また自分の国にもどることも自由にできます。

・第23条 案心して働けるように
人には、仕事を自由に選んで働く権利があり、同じ働きに対しては、同じお金をもらう権利があります。そのお金はちゃんと生活できるものでなければなりません。人はみな、仕事を失わないよう守られ、だれにも仲間と集まって組合をつくる権利があります。

・24条 大事な休み
人には、休む権利があります。そのためには、働く時間をきちんと決め、お金をもらえるまとまった休みがなければなりません。

(世界人権宣言条約条文訳:谷川俊太郎、アムネスティ日本)

つまり、僕が日本の東京という場所を選んで住んでいることや、フリーランスとして好きな仕事をしながら生活していること、土日はゆっくり休むことも、誰もが生まれながらに持つ権利らしい。

世界人権宣言と自分の生活を照らし合わせてみると、今この瞬間、自分がどんな権利をもっているのか、侵害されているのかに気づきやすくなる気がする。

阿久澤さん:具体的にどんな権利をもっているか知ることは、自分が大事な存在であり、社会の一員である感覚を得るきっかけにもなると思うんです。エンパワーメントされるというか。

【イラスト】なだらかな丘の公園で、思い思いに過ごす人々。彼ら彼女らの身体には人権の要素がさまざま宿っている

そもそも1948年に世界人権宣言が生まれるまで、誰しもが人権をもつという前提は、当たり前ではなかったそう。「人権をもつ」とされる人の範囲が限られていた時代もあったのだ。

また、詳しくは割愛するけれど、ここで記された権利が守られるように「国際人権条約」と呼ばれる国への法的拘束力があるものも制定されていたり、日本国憲法でも「基本的人権」として保障されていたりする。

※人権とは何か、国際人権規約と国内法の相関関係などについては『権利を主張することは「わがまま」ではない。国際人権法の専門家・藤田早苗さんに聞く「人権」について』へ。

差別とは、「属性・特性を理由に、人権の行使を妨害すること」

「差別をしないためには、まず人権について知る必要がある」というのは、差別の定義に、人権が含まれているからだ。

国際人権条約で示されているものを踏まえ阿久澤さんは、差別とは「人の属性・特性を理由に、人権と自由の享有と行使を妨げ、妨害すること」だという。

世界人権宣言で記されている属性・特性は、「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地」などが挙げられる。阿久澤さんによると、これらは時代とともに進化するものだという。属性・特性を理由に、人権=すべての人が生まれながらに持っている権利の行使を妨げること。これが差別なのだ。

たとえば、車椅子を用いて生活をしている人が飛行機を予約する際に、事前連絡を入れたところ「漠然とした安全上の問題」を理由に案内を拒否された場合。その人の身体的特性を理由に、「移動の自由(※注1)」という人権が損なわれている。だから、これは差別にあたるよね、と考えることができる。

またこの例は、2024年4月から民間事業者に提供が義務付けられた「合理的配慮(※注2)の視点からも説明できる。

阿久澤さん:障害者権利条約(※注3)には、「合理的配慮の否定も差別だ」と書いてあります。障害があることを理由に行きたいところに行けないとか、観たい映画が観られないとか、震災が来た時に情報が得づらいっていうことは、 障害を理由にして区別・排除して、人権が保障されていない。つまり差別がある。そうした差別をなくし、本来誰しもがもっているはずの権利を享受・行使できるように調整しましょう、というのが「合理的配慮」なんです。

差別について考えるための興味深い例として阿久澤さんがよく紹介しているのが、オーストラリア連邦議会の話だ。この議会では、議場に子連れで入ることは禁止され、授乳中の女性議員は代理を立てて議決に参加していたという。これが、「母乳育児をしている」という属性・特性によって排除され、権利が妨害されている、つまり差別であるとして、2016年に議会規定が改正された。

阿久澤さん:この事例はすごくおもしろいと思っていて。差別について考えるとき、日本国憲法14条の「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という内容がすぐに浮かぶのですが、そこにとどまらず、日常の暮らしの中で感じている不具合や違和感を、言葉にして、法律にした、ということでもあるなと。

阿久澤さんが教えてくれたオーストラリア連邦議会の話で興味深いのは、差別を一人ひとりの「思いやり」によってではなく、構造を変えることで解消しようとしていることだ。こうしたアプローチの前提には、「差別は社会構造に埋め込まれている」という考え方がある。

※注1:障害者権利条約には18条「移動の自由及び国籍についての権利」や20条「個人の移動を容易にすること」が記されている

※注2「合理的配慮」について
そもそも「合理的“配慮”」という言葉自体が、どこか「思いやりを持とう」という個人のきもち的なニュアンスを含んでおり、適切ではないのではないかという指摘がある。たとえば作家の市川沙央さんは、「合理的調整」と呼ぶべきだとインタビューで述べている(参考:「『合理的配慮ではなく、合理的調整と呼ぶべき』芥川賞受賞作『ハンチバック』著者、市川沙央さんインタビュー」)。

※注3:障害者権利条約2条 「定義」には、「「障害に基づく差別」とは、障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を認識し、享有し、又は行使することを害し、又は妨げる目的又は効果を有するものをいう。障害に基づく差別には、あらゆる形態の差別(合理的配慮の否定を含む。)を含む」と記されている。

社会構造に差別が埋め込まれている?

「差別は社会構造に埋め込まれている」という考え方について、順を追って考えていこう。

阿久澤さんは著書の中で「差別に向き合うには『する人(側)』の意識や行動、そしてそれを許容し続ける社会の構造を研究する必要がある」と記している。そこで思い出したのが、差別にまつわる心理を研究する出口真紀子さんの講演だ。出口さんによると社会心理学において、差別の形態が3つあるというのだ。

【社会心理学における差別の形態】

直接的差別:個人間で起きるもの

制度的差別:法律、教育、政治、メディア、企業といった大きな枠組みのなかでシステマティックに行われるもの

文化的差別:人々が無意識に共有している価値観や「こうするのが当然だ」といった空気感から生まれるもの

※詳細は「差別や人権の問題を『個人の心の持ち方』に負わせすぎなのかもしれない。『マジョリティの特権を可視化する』イベントレポート」へ

多くの人が「差別」と聞いて思い浮かべるのは、ヘイトスピーチやヘイトクライムなど、「直接的差別」だろう。

阿久澤さん:人権教育や啓発が長年行われ、今では面と向かってひどいことを言ったりやったりするのが差別だということは、多くの人がわかっている。そうした行為を公然とやっても、社会が受容しません。だから、人権や反差別の施策が進むと、“差別は見えにくくなる”と言われるようになりました。

ただし、これはインターネットやSNSが発達する以前の指摘ですし、“差別が見えにくくなった”としても、差別がなくなったわけではありません。なぜなら、差別は社会構造の中に埋め込まれて存在するからです。

制度的・文化的な差別は僕らをとりまく環境に埋め込まれているから、「直接的差別」とくらべて気付くことがむずかしそうだ。

阿久澤さん:社会はマジョリティ(※注4)にあわせて出来上がっています。自分の基準に合わせてできている社会で暮らすマジョリティは、「マイノリティにとって不利になることが社会にある」なんてことに気づかないんです。

※注4:ここで使用されるマジョリティの定義は人数が多いか少ないかではなく「権力をより多く持つか、持たないか」。またマジョリティ・マイノリティはどちら側か明確にわかれるものではなく、それぞれにマイノリティ性、マジョリティ性のどちらも存在している。

たとえば大学入試で「標準テストの成績を重視する」ことは、一見すると合理的な基準かもしれない。「個人の努力次第でなんとかなる」と思われやすいからだ。しかし、生まれ育った環境、経済的余裕などによって受けられる教育の質や機会は異なる。その結果、格差が広がってしまう。

阿久澤さんは僕らにより身近なところにも「社会構造に埋め込まれた差別」はあるという。

阿久澤さん:たとえば、自動車を運転する女性は、男性よりも事故に遭ったときにけがをしやすいという調査結果があります。その理由ははっきりわかっていないそうですが、安全性を測る衝突試験のとき、運転席に乗せるダミーが成人男性のものだからではないかとも言われています。そういう、マジョリティの側にとっては当たり前すぎてなかなか気づけない、社会構造に埋め込まれた差別はたくさんあるんですよ。

こうした「社会構造に埋め込まれた差別」は、僕たちの生活のなかに巧妙に入り込んでいて、見落としがちだ。だからこそ、「日常の中で差別を見つけだしていく作業がすごく大事」だと阿久澤さんは言う。

【イラスト】みんなが遊ぶ遊具。そのまえで車椅子ユーザーの登場人物が遊ぶ様子を眺めている

そう言われていれば、思い出したことがある。近年、飲食店での注文やATM、コンビニのセルフレジなど、タッチパネルが街中に増えた。一見便利になっているようで、実は視覚障害がある方にとっては使い方がわからず、タッチパネルがあらたな障壁になってしまっていると聞いたことがある。これも、「社会構造に埋め込まれた差別」のひとつじゃないだろうか。

「本人たちが甘えてるんだろう」という言い方で行われる差別の形?

あからさまな差別的表現が社会に受け入れられなくなると、これまでと違う語り口で差別が行われるようになってくる。

たとえば黒人差別の歴史があるアメリカでは、格差是正のための特別措置であるアファーマティブアクションに対し「そのような政策は、努力すればだれでも成功への切符を手にできるアメリカ社会の価値観に反する」とか、「差別はもう深刻ではないのに、黒人は努力もしないで要求ばかりし、不当な特権を得ている」といった批判がはじまった。つまり、反黒人感情が道徳的な正しさに転化されて表現されるようになったという。

こうした抽象的価値や道徳的正当性に転嫁されて表現される差別を、政治学者のD・R・キンダー、心理学者のD・O・シアーズ、J・B・マッコナヒーらは「象徴的レイシズム」(シンボリック・レイシズム)や「現代的レイシズム(モダン・レイシズム)」と呼んだ。

阿久澤さん:「もう何十年も反差別施策をやってきたんだから、 アファーマティブアクションなんて必要ない。 本人たちが甘えてるんだろう」っていう風な言い方。これは「現代的レイシズム」って言うんですが、明らかに人権政策や反差別政策が進んだ結果、出てきた語り口なんですよ。一見すると政策批判の体裁をとっているから、差別だとわかりにくいんです。

日本でも、大学がアファーマティブアクションとして、理工系学部で女性の入学者を増やす取り組み(※注5)をしたときに、「男に対する逆差別だ!」といった批判が起こったこともあった。もともと女性の権利を妨げることでマジョリティが特権を得てきた構造があるので、それを公平にするのがアファーマティブアクションなのだが、マジョリティの側は「自らが持っている権利を奪われること」だと感じてしまう。しかし、「そもそもなぜ理工系学部に入学する女性がそれほど少なかったのか?」と考えてみると、そのような格差を生み出す要因が社会構造の中に埋め込まれていた、ということが見えてくるはずだ。

世の中に「差別はダメだよね」という空気が生まれ、そして差別をなくすための取り組みがひろまるにつれて、差別はそのかたちを変えてきた。まるで、生物が抗体を獲得するにつれてウイルスが変異するみたいに。変異株としての現代の差別は、社会の構造に組み込まれ、その語り口を変え、僕たちの生活に存在し続けている。

僕らはそんな現代における差別と、どう向き合ったらいいのだろうか。後編で考えていきたい。

※注5:国公立大学2024年度入試では15大学、2025年入試では30大学が「女子枠」を採用。公益財団法人山田進太郎D&I財団は調査レポート「理工系学部の『女子枠』実態調査2024 アンケートから読み解く、24大学の『女子枠』制度の現在地と展望 」を出している。詳細はこちら

後編:「差別と関係のない立ち位置ってあるのだろうか?社会のあり方に矢印を向けて考える」


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連載:こここスタディ