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偏見がない人はいない。川内有緒さん×木ノ戸昌幸さん『わたしの偏見とどう向き合っていく?』イベントレポート こここスタディ vol.05

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いま、「あなたの中には差別意識や偏見がありますか?」と聞かれたら、あなたはどんなふうに答えるだろうか。即座に「たぶんない」と答える人もいるかもしれないし、すこし考えてから、「ないように努力している」と言う人もいるかもしれない。

ではそれが、「よく知らない人と話してみて、自分が抱いていた偏見に気づいたことはありますか?」という質問や、「軽い気持ちで口に出したことが、差別的な発言だったとあとから知ったことはありますか?」という質問だった場合はどうだろう。おそらく、「ない」と言い切れる人はほとんどいないのではないだろうか。

そんな、自分自身の内側にある「偏見」や「差別意識」との向き合い方について考えるトークイベント、「わたしの偏見とどう向き合っていく?」(SPBS TOYOSU主催)が2021年10月23日に開催された。

出演者は、昨年、著書『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を上梓したノンフィクション作家の川内有緒さんと、京都にあるNPO法人「スウィング」理事長の木ノ戸昌幸さん。「偏見」や「差別意識」をめぐる対話を通じて、身近な人、そして自分自身の中にある偏見との向き合い方のヒントが提示された。オンラインで実施されたイベントの様子をレポートする。

「自分には偏見や差別意識がある」という自覚からまず始める

偏見や差別は、相手に対する敵意や嫌悪感から引き起こされるもの──と考えている人も少なくないかもしれない。しかし、必ずしもそうであるとは限らない。木ノ戸さんがイベントの冒頭で語った、ある“違和感”についてのエピソードは、私たちがいかに自分のしている差別に気づきにくいかを象徴している。

木ノ戸さんが運営するNPO法人「スウィング」がおこなっている活動のひとつに、バスの交通網が複雑に発達した京都市内で、路線バスの乗り継ぎ・行き方情報を“人力”で案内する「京都人力交通案内 『アナタの行き先、教えます。』」がある。

この活動がメディアで取り上げられる際、しばしばフォーカスされるのが障害のある特定のメンバーだけであることに、木ノ戸さんは違和感を覚えるという。

木ノ戸昌幸さん(以下、木ノ戸):京都人力交通案内って、基本的にQさん、XLさんと僕の3人でやっている活動なんですね。もっと言えばいつも同行してくれるフォトグラファーもいて、協働しながら続けているんです。

でも、この活動を新聞などのメディアで取り上げていただくとき、注目されるのは障害のあるQさんとXLさんばっかり。これに限らず、スウィングの活動がメディアで取り上げられるときって、「障害者」とか「障害のある人」って言葉がいちばん大きなメッセージとして伝えられがちなんです。

みなさんとても丁寧に取材してくださるんですよ。でもこれって、言ってしまえば差別だなって感じるんです。

【写真】本をもっているきのとまさゆきさん
木ノ戸昌幸さん (撮影:Numata Ryohei)

川内さんも、自身の著書『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』の中で、京都人力交通案内の活動を紹介している。原稿を確認してもらう際、まさにその点を木ノ戸さんから指摘され、はっとしたことがあったという。

川内有緒さん(以下、川内):原稿を書き終えたときに木ノ戸さんから「この活動は3人でやっているんです」と聞いて、ああそうか、と思ったんです。

どうして無意識のうちに木ノ戸さんを省いていたんだろう、と考えてみると、自分の中に、障害者と呼ばれる人をフィーチャーしたいという一種の差別意識があったのかもしれないなと……。

もしかして私も知らず知らずのうちにそういうところに注目していたのかな、と気づかされてびっくりしました。

そういうものって、日常のあらゆるところに潜んでいる。差別意識や偏見を持っている側は、本当にそれに気づかずに生きているということなんですよね。

【写真】ソファにすわり微笑むかわうちありおさん
川内有緒さん (撮影:鍵岡龍門)

木ノ戸さんは、前述の京都人力交通案内がメディアに取り上げられるときのような違和感を、「やのに感」と呼ぶ。

個人の実績や活動内容以上に、社会的なラベリングやカテゴライズに注目が集まるとき、そこには「障害者やのにすごい」「女性やのにすごい」「外国人やのにすごい」……といった偏見があるのではないか、と指摘する。

川内:「美しすぎる〇〇」のような表現もそうですよね。そこには、「この分野の仕事に就いている人が美しいなんて珍しい」という偏見が隠れているんじゃないかと感じます。

差別意識や偏見は、それほどまでに日常の端々に潜んでいる。しかし、本当に問題なのは差別をしてしまうことそれ自体ではなく、「自分は差別をしていない」「自分には偏見なんてない」と思い込んでしまうことだと木ノ戸さんは言う。

木ノ戸:差別意識や偏見は、大なり小なり誰しも持っているはず。だから、偏見をもつことや差別をすることがやばいんじゃなく、自分はそういう意識を持っていないはず、と思うことがやばいんですよね。

中でも特に気づきにくいのが、やさしさや気遣いのような“善意”に覆われた差別だ。差別をしている側にも“正しさ”がある分、それが相手を傷つけ排他することにつながっても、自覚を持ちにくい。

川内:たとえば、(視覚障害者である)白鳥さんが美術館に行くと、「触察ツール」という手で触って作品を感じられるツールを勧められることがあるんです。

もちろんそれを使って作品を味わうこともあるけれど、『あ、いいです』と断るときもある。そうすると、「親切で言ってあげたのに」みたいな言葉をかけられたりすることがあるんですって。

……でも、そういうふうに善意で言ってしまう人の気持ちもなんとなくわかるんです。目が見えないんだから、触って楽しめばいいじゃない、と。白鳥さんに「そう言われるのもけっこう大変なんだよね」と聞いたとき、自分もこれまでに多々同じようなことをしていたかもしれないな、という気づきがありました。

「見ないことにする」のは、「差別していない」ことではない

自分の無自覚なひと言が相手を傷つけ差別することにつながってしまう可能性を思うと、「障害のある人に声をかけるのはやめておこう」と考える人もいるかもしれない。しかし、それは違うのではないかと木ノ戸さんは言う。

木ノ戸:自分のその行動が間違っているかどうかって、実際に自分で動いてみるまではわからないんですよね。「声をかけていいんだろうか」と逡巡しているだけでは、自分がただ固定化されて、わからないままで終わってしまう。

だからまずは、正解がわからなくても動くことが大事なんだと思います。もし動いた結果それが間違っていたなら、間違いを自覚し、自分の行動をそこからまたアジャストしていけばいい。

人のことってやっぱり基本的にはわからないんだけど、私たちはなぜか「きっとわかるはずだ」と思ってしまうふしがすごく強い。その思い込みから離れたほうが楽になれるんじゃないかな、と思います。

さらに、「障害者」という言葉の表記を「障がい者」にすべきか、あるいは他の表現に言い換えたほうがいいのかという議論にも、似た問題が潜んでいると木ノ戸さんは指摘する。

木ノ戸:「障害者」という言葉に勝手にネガティブなイメージを持たせているのは社会の見方であって、言葉そのものに問題があるわけではない。

むしろ、「障害者」という言葉をただの言葉として伝えていけるようにすることのほうがずっと大事だと思います、それはすごく時間のかかることかもしれませんけど。ただ単に表記を変えても、それは表面的な問題の解決にしかならない。すごく短絡的な手段で嫌だなと思います。

木ノ戸さんの話を受け、「なかったことにする」「見ないようにする」ことと「差別しない」ことがイコールになってしまうのは恐ろしい、と川内さんは語る。

川内:自分の中に本当は存在している偏見に蓋をして、口に出していないのだからOK、としてしまうと、言葉だけが上滑りする社会になってしまうと思います。

口に出さないことで偏見がなくなるわけじゃないし、むしろ逆かもしれない。もっともっと、自分の抱えている偏見について対話をしたほうがいいのかもしれないとも思えてきます。

私が『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を書いていたときも、考えていたのはそのことでした。自分が差別的な意識を持っているかもしれない、ということを、もっと包み隠さずに書いていくべきだと思っていたんです。

社会の「セーフゾーン」を拡大していくために

【写真】美術館で作品を鑑賞するかわうさん(左)としらとりさん(右)
作品を鑑賞する川内さん(左)と白鳥さん(右)(撮影:武田裕介)

川内さんの著書『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』の中では、アート鑑賞を趣味とする全盲の白鳥建二さんが、ほかの鑑賞者の“言葉”を通して作品を味わい、楽しむ様子が綴られている。

白鳥さんがそのようなアート鑑賞のしかたを“違和感”としてさまざまな場所に振りまいたことで、全国の美術館や美術鑑賞者の姿勢も少しずつ変化してきたのを感じる、と川内さんは言う。

川内:白鳥さんはたぶん最初、多くの人にとって“何をしているかよくわからない人”だったと思うんです。「言葉でアートを鑑賞するって何?」という違和感を、日本中の美術館にまき散らしたはず。でも、それによっていまは、言葉でアートを見ることが美術関係者の中で徐々に広まってきているのを感じます。

木ノ戸さんも著書『まともがゆれる ―常識をやめる「スウィング」の実験』の中で書かれていましたけど、白鳥さんも、「ギリギリアウト」のようなこと……つまり、最初は社会の中で「アウト」とされていたようなことを、時間をかけて「セーフ」にしてきた人だと思うんです。

ともすれば現代って、「セーフ」の領域がどんどん狭くなっていってしまうような社会。私が子どもだった頃と比べても、随分不自由になってきたな、よくなったところってあるんだろうか、と思ってしまうことも多いです。

「セーフ」を拡大するために、みんなもっとアウトに足を踏み入れていったほうがいいんじゃないかと感じます。

【画像】ギリギリアウトを狙う 普通、常識、「べき」「ねば」、効率、生産性、上昇志向、社会的ラベル等、あまりにも狭量で画一的な価値観や固定観念に彩られた何がなんだかとっても生きづらいこの社会。知らぬ間に僕たちの内面に巣くってしまった窮屈なセーフゾーンのちょっと外側、「ギリギリアウト」に勇気リンリン、足を踏み入れよう。  過剰な自己規制を解除し、OKや寛容さや余白をこの世界に増やしてゆくために。 生きづらさを緩め、セーフソーンを広げ、この世界を生き延びてゆくために。と書かれている
スウィングのHPに掲載されている「スウィングが大事にしていること。

木ノ戸さんは、川内さんの意見に賛同した上で、「理想的な社会を作るべきだ」という思い込みがかえってセーフゾーンを狭めていくケースもあるのではないか、と指摘する。

木ノ戸:社会をよくしていこうと考えるのはもちろんすごく大切だと思うんですけど、別によくならんでもいい、と思うのも大事なのかなと……。

自分の中でそれは、「よくしていこう」という希望と矛盾するものではないんですね。よくしていこうと思いすぎると、アウトがどんどん増えていくというパラドックスに陥ってしまうこともあると思うんです。

たとえばスウィングの中ではいま、「自由」をより拡大していくための装置として、かえってルールという制限を設けてみる、というのを試しているんです。

スウィングの中ではもともと自由に昼寝をしていいことになっているんですが、仕事をする場という意識が強い人は、眠くても寝ちゃいけないとどうしても思ってしまう。それで、そういう人も眠いなら寝られるようにと思って「昼寝」の時間を作ってみたら、当たり前だけどみんな寝るんですね。

反対に、そんなルールなんてなくても自由を謳歌できる人は、特に寝ない。もちろん、ルールを守ってもらうことが目的ではなく、昼寝していい顔をする人が増えることが目的なので、それでいいんです。

つまり、使い方には慎重になる必要がありますが、ルールというものはときに自由を拡大する装置にもなるのではないか、と思うんです。人ってある程度の枠組みがないと、実はなかなか自由になれないのではないかと。

川内:ああ、それはとてもわかります。白鳥さんとアートを見にいくときにも、「アート作品」というひとつの枠組みがあることが、かえってコミュニケーションを自由にしているなと思うことは多いです。

たとえば、白鳥さんのことをよく知らない人に、作品なしで「なんでも自由に話していいですよ」と言っても、最初はきっとお互いに戸惑ったり変な気遣いが生まれてしまったりするんじゃないかと思うんですよね。

でも、「作品についてなんでも自由に喋ってください」というのは、制約がひとつある分すごく気楽なんですよ。相手を否定せず、それでいて自分の考えを自由に話せる場が、作品があることによって生まれているなとよく感じます。

今日の自分が完璧であると思わなくてもいい

イベント参加者から寄せられた「差別」や「偏見」をめぐる質問に、川内さん・木ノ戸さんの二人が回答する一幕もあった。

最初に寄せられたのは、「自分自身が抱えている偏見や差別意識に気づいたとき、それを受けて行動を変えていけばいいと頭ではわかっていても、自分を許すことができなくなってしまう人もいるように感じる。自分の差別的な行動・言動を率直に受け止めて次のアクションにつなげていくためにはどうすればよいか」という質問。

木ノ戸さんはこの問いに対し、人はそんなに正しくない、どうしても間違ってしまうときはあるという点を強調しながらも、「真摯に謝る」ことを勧めた。

木ノ戸:自分の間違いをすぐに認めて、とにかく謝ることですよね。誰かを傷つけてしまったことに対しては何の言い訳もできないから、すぐには難しいとしても、真摯に謝って、自分の態度を改めるしかない。間違っていた自分に気づいたときにはショックを受けるかもしれないけれど、それは別にだめなことではないと思います。

川内さんは、「あまり自分を理想化せず、今日の自分が完璧であると思わなくてもいいのではないか」と語りかける。

川内:私も、すこし前にトークイベントに参加したときに「ブラック企業」という言葉をなんの気なしに使ったら、友人でもある共演者の方から「ブラック企業という言葉は人種差別的な表現だから、闇企業という言い方にして」と指摘を受けたんです。それではっとして、もうその表現は使わないと思いました。

間違いに気づけた瞬間って、これから自分が変わることができるかもしれない分岐点ですよね。だから『自分を許せない』という気持ちになってしまうかもしれないけれど、変われるかもしれないというのはむしろ、素晴らしいことだと思います。

自分を変えていくことは、一生、死の直前まで続く戦いなのかもしれない。だから、今日はだめでも、明日は違う自分になっているはずだということを考え続けていけばいいんじゃないでしょうか。

さらにもう1件、「身の回りの人の発言に『それは差別的では?』と感じたとき、そのモヤモヤを言語化したり、やめてほしいと伝えることがなかなかできない。そういうときにどんなことができるか」という質問も寄せられた。

木ノ戸さんは、「必ずしも、モヤモヤを整った言葉にする必要はない」と答える。

木ノ戸:自分の思いが言葉らしい言葉になるまでには時間がかかることもあるし、言語化には得意不得意もある。モヤモヤした、というのを必ずしも整った言葉にする必要はなくて、まずは「モヤモヤしている」ということをそのまま口に出すことから始めたらいいんじゃないかなと思います。

川内:実は私も最近、家族でよく行くあるレストランで、店員さんが女性蔑視的な発言をしているのを聞いて気分が悪かったというのを夫に聞いて。

私はそれを直接的には聞かなかったんですけど、もしも次回同じことが起きたら、店員さんにどう言葉をかけようかとずっと考えていたんです。絶対に何か言いたいけれど、どの言葉もしっくりこないと思っていたので、いま木ノ戸さんからそれを聞けてよかったです。

整った言葉でなくても、まずは自分の感じたモヤモヤを話すところから会話は始まる、と思ったらすこしスッキリしました。

木ノ戸:本当に、44歳になってこんなにアワアワするかなと思うくらい(笑)、そういう場面ではいまだに自分もアワアワしてしまいます。

でも、アワアワしている状態をまず見せるというのが大事で。それを見せたら、相手からはおそらくリアクションがありますよね。

人間が関係していくというのはそういうことだと思うので、格好悪くてもいいから、思っていることをまず表明するのが、自分を大事にすることなのかなと感じます。

イベントでは、自身が経験したことや過去のコミュニケーションの反省点にも目を向けながら、自分の偏見や差別意識というテーマを終始「見えないこと」にせず言葉を尽くす川内さん・木ノ戸さんの姿勢が印象的だった。

このレポートをいま読んでいる人が、「どうやら自分は大丈夫そうだ」とホッとするよりも、普段は心の内に隠していたり、自分でもまだ自覚できていなかったりする偏見と向き合おうという気持ちになっていたら嬉しいと思う。自分自身の気持ちや過去の言動・行動に向き合うことが苦しくなったときには、「今日の自分が完璧であると思わなくていい」という川内さんの言葉、そして「間違っていた自分にショックを受けるのはだめなことではない」という木ノ戸さんの言葉を思い返したい。


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連載:こここスタディ