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弱さは個人の問題ではなく、構造上の問題だ。公認心理師・臨床心理士 信田さよ子さんと考える“弱さ”のこと こここスタディ vol.08

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弱さはできるだけ人に見せず、自分の中で克服すべきだ。社会人として働くようになってから、そんな価値観を当然のものとして受け入れ続けてきた人は少なくないのではないだろうか。私自身にも、自分の弱みにばかり目を向け、それをどうにか矯正しようともがいていた時期がある。

けれど、時間を経て、弱さは必ずしも否定し、矯正すべきものではないと思えるようになってきた。自分の弱いところや苦手なことを隠さず、周囲に助けを求めたり、それをコミュニケーションのきっかけにしたりできる人たちをたくさん目にしてきたからだ。そのことで肩の荷が下り、だいぶ楽になった。

近年では、「自分の弱さを認め、それを怖れずに見せていこう」というメッセージが公の場で説かれることもすこしずつ増えてきた。「弱さは克服しよう」とばかり言われていたときと比べると、一見とても好ましい状況のように感じる。けれど、「弱さの開示・共有」がキーワードのように、さまざまな場面で使われるようになってきたいま、“弱さ”というものの定義について、あらためて考える必要があるのではないかと思った。

公認心理師・臨床心理士の信田さよ子さんは、依存症や摂食障害、DVなどに悩む人たちと長きに渡って向き合い、“弱さ”や“責任”について考え続けてきた人だ。そんな信田さんになら、「弱さとは何か」という問いをストレートに投げかけられると思った。上記のような背景や疑問をお伝えし、取材の前に頂いた信田さんからのメールには、こんな言葉があった。

私は「弱者」という言葉は使いますが、弱い・強いという表現は使わないようにしています。弱者(力をもたない、社会的に弱い立場のひと)はいても、弱いひとはいません。カウンセリングに来談された方がその言葉を使うと、言い換えるようにしています。

さらに、信田さんの言葉はこう続く。

「弱さ」って個人の特性でしょうか? 心理的な問題でしょうか?

私たちはまず、この問いについて考えるところからインタビューを始めたいと思った。

カウンセリングで「弱い」という言葉を使わない理由

信田さよ子さん

──取材前、信田さんに頂いたお返事についての話から始めてもいいでしょうか。信田さんは、カウンセリングの中で「弱さ」という言葉を使わないようにされているとのことでした。来談した方が「(自分は)弱い」と言うときは、言い換えるようにされていると。

信田さよ子さん(以下、信田):ええ、そうです。さっき、インタビューの前にみなさんとすこしお話ししたときにも話題に上がったけれど、「弱さを絆に」とか、「自分の弱みを怖がらずに開示しよう」みたいなメッセージが、ここ数年でいろいろなところで叫ばれるようになってきたでしょう。ビジネスの世界ですら、そういうことが言われるようになってきた。

──弱さは克服したほうがいい、という考え方がまだ主流だとは思いますが、その一方で、弱さを共有できる組織こそ強いとか、リーダーは部下に対して弱みをあえて開示するべきだといった言葉を聞くこともたしかに増えてきました。

信田:ビジネスってやっぱり、10年先を読み続けていかなきゃいけないですからね。長く続いているコロナ禍の影響とか、ウクライナでの戦争、先進国の物価上昇のような不安定な要素が重なった結果、「相手に先にお腹を見せたほうが勝ち」という倒錯した価値観が出てきたように思うんです。つまり、自分たちは弱さというものさえビジネスに取り入れてしまえていて、その先手を打っているからこそ勝てるんだという考え方ですね。

いま、「弱さ」ってそういうふうに、すごく屈折した用いられ方をしている。“いいもの”として持て囃されているような空気すらありますよね。でも、私たちカウンセラーは企業や組織でなく、あくまで個人を対象にしていますから、カウンセリングの中で「弱さ」という言葉を使いたくないんです。それは「弱さ」というものが、個人の性格や考え方、属性の問題にされてしまう風潮が依然として変わっていないからです。

──「弱さ」は実際には、個人の特性上の問題ではない……ということでしょうか。

信田:私の考える「弱さ」って、構造上の問題なんです。たとえば、非正規雇用者はなかなか手取りが上がらない状態を強いられているし、女性が男性と比べ、社会の中で不利な立場に立たされているのも長年変わらない。そういった不平等や差別を受け、構造的に感じざるを得ないものが「弱さ」だと思います。カウンセラーが個人に「弱い」と言うと、その構造に加担してしまうことになりかねない。だから私はこの言葉は使わないようにしています。

──なるほど。カウンセリングにいらっしゃる方の中には、自分のことを「弱い」と表現される人は多いのでしょうか。

信田:たくさんいらっしゃいます。「弱いから、なかなかノーって言えないんです」とかね。中には、「組織の中の声の大きい人に従わなくてはいけなくて、つい不満を抱いてしまいます。自分で自分の感情をコントロールできないなんて、私は弱いですよね」みたいなことをおっしゃる方までいる。ノーって言えないのも組織の中で力を持った人に従わざるをえない立場なのも、本人の問題じゃないですよね。あくまで構造上の問題じゃないですか。

──本当におっしゃる通りですね。その人自身の問題ではない。

信田:だから私の場合、「それって本当にあなた自身の弱さですか?」とか「私には強みのようにも見えますよ」という言い方をして、その方が自分の「弱さ」だと感じているものを、別の言葉に置き換えることが多いですね。

「自己責任」と「自己肯定感を上げるべき」は根底でつながっている

【写真】インタビューにこたえるのぶたさん

──いまの話をお聞きして、自分自身の弱みだと思い込んでいるものが、実際には構造的な弱さの問題だということが実感できました。けれど、私たちは「弱さ」をつい個人の特性上の問題だと捉えてしまいがちですよね。それってどうしてなのでしょうか。

信田:やっぱり、いろいろなことが「自己責任」にされてしまう空気が蔓延していることが、大きく影響しているんだと思います。

すこし長いタイムスパンで捉えると、バブル崩壊後から、日本は長きにわたり経済的な低迷期に入りましたよね。労働者派遣法ができ、正社員が減った一方で、グローバリズムの波に飲まれて企業はどんどん多国籍になっていった。その中で一番に優先されることは効率であり、よりスピード感を持って働こう、そのために自分の責任は自分でとろうという考え方が一般的なものになってきたわけです。

普段は海外に暮らしているアーティストの方が、日本に帰国して明らかに空気の変化を感じたのが2001年頃だったと話してくれたことがあります。具体的に言うと、それまではガヤガヤしていた東京の電車の雰囲気が、すごく冷たいものになったと感じたのがその頃だったと。万人が万人の敵みたいな空気が蔓延していて、日本は変わってしまったと思ったそうです。

──他人との関わり合いをできるだけ避けたい、という空気はたしかにいまもとても強いですよね。人の手を煩わせず、自分のことは自分でどうにかすべきというムードが社会全体にあるのを実感します。

信田:「人のせいにする」ということが一番の悪みたいになってるんですよね、いま。その感覚は、東日本大震災でさらに加速したと思います。自粛のムードが社会を覆って、人々がお互いの目を意識し、監視し合うようになってきた。「東北で苦しんでいる人がいるのに、どうして苦しいなんて言えるんだ」なんて言葉が飛び交って、誰かが責任を果たしていないように見えると「ズルしてる」「人のせいにする前に自分の責任を果たせ」と告発するような空気がピークに達した。

私の中では、「自己責任」と「弱さ」、それに「自己肯定感」は3点セットみたいなイメージなんです。「もっと自己肯定感を上げないと」という言葉と「私は弱いから」という言葉は、根っこにあるものはほとんど同じ気がしますね。

──自己肯定感、という言葉がそのふたつに並ぶのはすこし意外でしたが、言われてみるととても納得します。最近、「自己肯定感が高い」という言葉が、他者や環境に左右されず、常に機嫌のいい自分でいるというような意味で使われることも多いですよね。「自己肯定感を上げるべき」「自分の機嫌は自分でとるべき」という考え方は、行き過ぎると自己責任論に通じていくような気がしています。

信田:ええ、本当にそう。そもそも「自己肯定感」という言葉は、本来まったく違う意味なんです。もともとは学校教育において、子どもの成長に対する肯定的評価を重要視するものとして80年代に生まれた言葉なんですよ。それが2000年代以降、いわゆる自己啓発の文脈で使われるようになってきて、「自己肯定感が低いのはよくない」「自己肯定感をもっと高めよう」なんて言われ始めた。ポジティブとネガティブというわかりやすい対立構造が生まれたのもそれ以降だと思います。

最近はもう、「ポジティブでいよう」というのがある種の強迫のようになっていますもんね。日本に蔓延している張り詰めたポジティブのムードって、ちょっと異様ですよね。

評価という暴力は、社会のそこかしこに存在する

【写真】『カウンセラーは何を見ているか』の書影

──ポジティブであることが無条件によいこととみなされ、そうではない言葉や空気が敬遠されるムードはたしかに強く感じます。誰かに悩みや不満を話しても、最終的には「ポジティブに捉えようよ」という言葉に回収されてしまうことも多いなと。

信田:言葉って、作った者勝ちなんですよ。もちろん時代の中で淘汰され、廃棄されていく言葉も山ほどあるのだけど、時代のムードとマッチしたものは残り続けていく。ポジティブという言葉がここまで市民権を得たのは、私たちが知らぬ前に坂道に立たされていて、みんなで一生懸命前を見てどうにか笑っていないと、その道を自動的に下っていってしまうような時代だからだと思います。

──坂道、というたとえはとても腑に落ちました。ただ立っているだけでは下がっていってしまうような道の上にいるからこそ、無理やりにでも前を向く姿勢を見せる必要があるんですね。

信田:デフォルトが下り坂なんでしょうね、いまは。どれだけ多くの人が、昼間はポジティブな顔をして一生懸命働いて、会社が終わったあとにメンタルクリニックに通っているかと思うとね……。

──本当ですね。でも一方で私自身、ポジティブな状態を保とうと思えている人と比べ、どうして自分はすぐに落ち込んだり怒りを覚えたりするんだろうと考えてしまうことがあります。無理にポジティブでいる必要はないと実感していてもなおです。

信田:そうか、そこで他の人と比較してしまうんですね。もちろんみなさんと私では世代も違うから感覚も違うと思うけれど、私はちょっと乱暴に言うと、こんな時代に常にポジティブでいられるほうがバカなんじゃない? って思ってますから(笑)。ポジティブになれないのは自分が弱いからだなんて考えなくていい。むしろ、自分は根っからポジティブになれるほど鈍感じゃないんだと考えた上で、どうやったらポジティブのフリができるだろう? って発想を変えてみたらどうでしょう。

私の考え方は、基本的に“演技論”なんです。実際に自分の感じ方や捉え方を変えようとする必要なんてない。大事なのはどう振る舞うかですから、必要なときにだけポジティブを演じればいいんですよ。

──そうお聞きしてちょっとホッとしました(笑)。

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信田:ちなみに、ポジティブな人を見て「ああなれない自分はよくないんじゃないか」と思ってしまうのって、どうして?

──そうですね……。ポジティブな振る舞いができる人ほど受け入れられやすいというか、所属できるコミュニティの幅も広いように思うんです。だから、帰属先、所属先が多いのが羨ましいという気持ちもあるのかもしれないです。

信田:なるほどね。若い世代の人たちは本当に、人からいろいろなところで評価を受けること自体に慣れてしまっているんでしょうね。

前に、カウンセリングにいらした就活生の人がエントリーシートを20社分書くって言っていたけど、あんなの、私だったら耐えられないと思った。あれひとつで資本主義社会に入る資格があるかどうかを見極められるわけですもんね。評価という暴力は本当にいま、社会のそこかしこにありますよね。みなさん、本当によく働いているなと思いますよ。

「弱さ」が開示されるためには、安全な場が必要だ

──いま、無理にポジティブになろうとする必要はない、捉え方自体はネガティブなままでもいいということをお聞きしましたが、インタビューのはじめに話題に上がったように、最近では「自分の弱さを認め、開示していこう」というメッセージばかりが先走って伝えられることも少なくありません。信田さんも言われたように、それがときに屈折した用いられ方をしたり、「自分をさらけ出すべきだ」という強制的な意味に変わってしまっている面もあるように思います。「弱さ」に向き合ったり、それを人に伝えようとするとき、私たちはどのような点に気をつければいいのでしょうか。

信田:弱さというものは本来、日常生活の中の私的領域においてのみ開示されるべきだと思うんです。ビジネスシーンのような、弱みを見せたら敵にいつ狙われるかもわからない場で「弱さを見せましょう」と企業が求めるのは、あなたを信頼していますという姿勢を欲しているだけかもしれない。本当はもっとプライベートな領域で、弱さを共有することができる集まりがあるといいんですよね。

依存症の自助グループや会員制の集まりなどはまさにそういう場なんですが、匿名性が保たれている場っていまはあまり多くない。たとえばアメリカは、移民の多い国で昔ながらの地縁が薄いこともあって、自助グループの文化がとても発達しているんです。日本にももうすこし、弱さが自分の責任だと言われないような場、人を傷つけない限りは何を話しても否定されないような、安全性が保たれた場が必要だと思います。そういう場が社会の中にもっと増えていかないと、今後コロナ禍が過ぎ去ったとしても、さらに心療内科にかかる人が増えていくことになると思う。

──話すことの安全性が保たれる場がもっと必要、というのは本当に納得です。いま、SNS上やメディア上で「こういう状況がつらい」「改善されてほしい」という発信をした人に対し、それは自己責任であるとか、もっとつらい人はたくさんいるといったコメントが寄せられ、「評価」の対象にされてしまうような空気も蔓延しているので。

信田:そうですよね。私は70年代から多くの自助グループを見てきたけれど、やっぱりクローズドなコミュニティにおいて、自分のことを開示するときのルールって絶対に必要だと思うんです。

たとえば、AA(※アルコホーリクス・アノニマス、飲酒問題を解決したいと願う人々の相互援助の集まり)がここまで世界的に広まったのは、非常に厳格なルールがあるからというのが大きいんです。匿名性を保つことはもちろん、あらゆる宗教、政治に関しては言及しないとか、自分たちは組織でなく一個人であるからメンバー間に上下関係は存在しないといったことを、「12の伝統」という形で暗黙のうちにルール化している。なぜそういった伝統があるかというと、アルコールを再飲酒することで命を落としてしまう危険性があるからです。命がかかった自助グループだからです。

そういったシビアな側面が少ないコミュニティやグループにおいて、自己責任や評価の目から自由になれるような場を維持するのはとても難しいことなんじゃないか、という不安はありますね。

──たしかにそういった安全性が確保されない限り、なんでも話しましょう、とむやみに自己開示を求めるのは危ないですね。評価されたり批判されてしまう可能性がある場で自分の弱さや悩みを人に伝えようとしても、もっとつらい人がいるはず、という気持ちで言いたいことをセーブしてしまうこともありそうですし。

信田:「自分よりもあの人のほうが苦しそうなのに、こんな私が苦しいって言っていいんだろうか」ということですよね。そういう感覚が、特に若い人たちにとってはすごく強く内面化されているのを感じます。……それってどうしてなんだろう?

──「空気を読む」ことが重視されて、接するときに手間のかかりそうな感情が敬遠されるムードの中で育ってきたというのはひとつありそうです。相手を軽視したいわけではないけれど、それを受け止めるだけの余裕がないというか。

信田:そうか、余裕がないから「苦しい」と開示する人に対して、「重い」とか「面倒くさい」みたいなことを言う人もいるのかもしれないですね。ということは、ポジティブでいる人の中にも、ポジティブな自分でいることにいっぱいいっぱいな人が少なくないんでしょうね。そういう人にしたら、自分は我慢してポジティブでいるのに、どうしてネガティブなことを言おうとするんだ、って感じるのかもね。

──もしかしたらそうかもしれないですね。でも、振る舞いを変えることはあっても、自分の感じ方や捉え方を無理に変えようとする必要はない、という信田さんの先ほどのお話には個人的に、とても勇気づけられました。

信田:よかった、そうですね。でも私は今日みなさんとお話ししていて、やっぱりいまって本当にハードな、あまりにも大変な時代だと思ったな。

「自分のせい」を手放す

「評価という暴力はそこかしこにある」。信田さんが何気なく口にされたこの言葉を、取材中、何度も反芻することになった。

就職活動では自分の内面と徹底的に向き合うことを求められる一方で、いざ不採用となると「あなたの問題ではない」と告げられるいびつさ。震災や病気によって不自由な生活を余儀なくされている人もいるのだから、多少の苦しさや不満には目を瞑れと、あげようとした声を握りつぶされてしまうこと。

多かれ少なかれ、それらの根底にはいつも評価というまなざしの力があって、“弱い”と評価された人は巧妙に、弱さの原因が自分自身にあると思わされてしまう。そんな社会構造のグロテスクさに、信田さんとの対話を通じてたびたび気づかされた。

「いま、“人のせい”にすることが一番の悪になっている」と信田さんは言った。けれど、そのムードが自己責任論となって個人を追い詰め、“弱い”とされる人をその立場に置き続けるための格好の圧力になっていることは、今回のインタビューの中で何度も指摘されている。

だからこそ、まずは“自分のせい”を手放すところから始めたい。原因は自分自身の心ではなく、社会の構造側にある。自分のせいではない、と胸を張って言ってもいいのだという空気を作っていくことが、いびつな構造に疑問を呈する人が増えるための、最初の一歩になるはずだと信じている。


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