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トーンポリシングってなんだろう? 野口晃菜さんと考える「怒り」と「対話」のあいだ こここスタディ vol.31

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「どうしてそんな言い方しかできないの?」「そんなふうに怒ってたら、誰も聞いてくれないよ」「権利ばかり主張して、なんだか怖い」

この社会でマイノリティとされる人々が強い声を上げるとき、しばしばこういう反論が起こります。SNSの登場により、それまで意思表示の機会が少なかった女性や障害のある人、LGBTQ+の方なども自ら発信できるようになった一方で、「そんな言い方しなくても……」とコメントする人も可視化されるようになりました。

“主に差別に反対する意見に対して、「言い方が悪い」という批判によってその力を弱めようとすることをトーン・ポリシング(言い方の取り締まり)と言います。それ自体は差別ではないように見えるのですが、差別を維持したり、より強めたりする効果があります。”

(森山至貴『あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』p.23)

近年注目される言葉「トーンポリシング」は、不公平な状況に異議を唱える人たちに対して、本質的な内容ではなく、その“口調”に焦点を当てて議論を拒否したり、前に進ませなくしたりするもの。マイノリティ差別を助長する行為として、問題視されるようになってきました。

とはいえ、社会に対する誰かの主張を頭で理解できたとしても、「怒っている」とも受けとれる強い言動には、戸惑いや苦手意識を思わず感じてしまう瞬間もあります。私たちは「怒り」の感情を、どう問題の解決や対話につなげればいいのでしょうか。

インクルージョン研究者の野口晃菜さんに、昨今のトーンポリシングをめぐる議論を整理いただきつつ、お話を伺いました。

【写真】
一般社団法人UNIVA理事 野口晃菜さん

声が軽視されるから、「怒り」を表すしかない

——野口さんは大学の授業で、「トーンポリシング」という言葉を学生さんにも教えていらっしゃいますよね。

はい。私の専門は障害分野における「インクルージョン(包括・包摂)」なので、授業でも「障害者差別解消法」を解説するなかで、トーンポリシングについて紹介することがあります。障害があるのを理由として、多くの人が当たり前に使えるものを使えなかったり、場所にアクセスできなかったりすることは差別です。今の社会は障害のない人を中心にできているため、障害のある人にとってはさまざまな障壁が生じ、不利だったり不便だったりします。

障壁を取り除くために、行政や事業者には「合理的配慮」の提供などが義務付けられていますが、実際は「障害を理由に利用を拒否された」や、「合理的配慮の提供を最初から拒否された」というケースも少なくありません。

加えて、そうした当事者の発信に対して、「差別は良くないけれど、そんな伝え方をしなくてもいいのに」という反応がよくあります。これがトーンポリシングで、もともとマイノリティが伝えたかった内容から論点をずらす行為を指します。

授業では先に、車椅子ユーザーの伊是名夏子さんが駅で乗車拒否にあった事例(2021年)や、同じく車椅子で映画館で特定の劇場の利用拒否にあった中嶋涼子さんの事例(2024年)を紹介します。すると、学生からも「いや、言ってることはわかるけど」と、まさにトーンポリシングな感想が出てくることがあります。

——今の学生さんからも、そんな言葉が。

かなりの人数から「言い方が悪いんじゃないか」「差別は良くないけれど、SNSで感情的に告発する方法はよくない」といった感想が出ますね。そこで障害のある人がそのような発言をするに至った背景、そしてトーンポリシングの概念を説明していきます。

障害のない人を中心に作られている今の社会では、障害のある人の「不便で困っている」という声すら、なかなか聞かれづらい。冷静に説明して交渉しようとしても、その声は軽視され、不便はなくならない。だからこそ、大きな声で、怒りを表さないと、誰も注目しなかったり、優先度が上がらなかったりする現状があるんです。

それに対して「怒るな」「言い方が悪い」と論点をずらしてしまうのは、結果として、現状維持につながってしまうと。今の社会構造が立場によって不均衡である現実、そして実際にそういったマイノリティ当事者の訴えにより社会が変わってきた歴史を丁寧に説明していくと、学生たちも「確かに」と理解してくれることが多いですね。

【画像】車椅子の人が背中を向けているイラスト。周囲にいくつものロープが漂っている

——結果的に怒ることしかできない状況があると。

最初は交渉をしたけれど声が聞かれずに、怒りを表明せざるを得なかったケースが多いのではないでしょうか。1977年に起きた「川崎バス闘争」はご存じですか? 当時、バスに乗車拒否された脳性麻痺の当事者と支援者たち100人以上がバス乗り場に詰めかけ、籠城した出来事です。彼らも最初は国土交通省を始めとした機関と何度も交渉しているんですよね。それでも全く真剣に取り合われなかったから、そういった急進的なやり方を選ばざるを得なかった。

もう一つの例としては、2016年に話題となった「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログがありますよね。それまでも問題となっていた保育園の待機児童について、かなり感情的な言葉が世に出て注目されるようになり、政策に反映されました。

——ただ、そうした「軽視されている」構造は、その立場でないと見えづらいのも難しい点だなと思います。

そうですよね。いろんな事例を知れば、そもそもの立場の非対称性が声の軽視につながっていると、気づきやすくなるとは思うんですが。自分事として考えてもらうために、私は学生に「子どものときに大人に真剣に話を聞いてもらえなかったことはなかった?」と聞くこともあります。

——その経験は……多かれ少なかれある気がします。

子どもの権利条約」にある意見表明権(12条)では、誰しもが自分にかかわる事柄について、自分の意見を伝えて考慮される権利があります。にもかかわらず、多くの人は子どもの頃に自分の意見を尊重されてこなかった経験がある。例えば、いじめで悩んで相談したのに「気のせいだよ」と言われてしまったり、切実な要望が真剣に取り合われなかったり、立場が弱いと蔑ろにされやすいんです。

自分の意見を伝えているのに、軽視され続けると、より激しい方法を考えたり、そもそも伝えるのをあきらめて無気力になってしまったりしますよね。同じ構造が、障害のある人をはじめとしたマイノリティでも起きているんだよと伝えています。

怒るのは悪いこと? 差別は個人の問題?

——トーンポリシングは最近出てきた言葉ですが、問題自体はずっと昔からあったんだと気づきました。

もともとは海外で生まれた言葉で、最近日本でもよく聞くようになりました。私が思うのは、日本ならではの文脈が、トーンポリシングを余計に助長しているのではないか、ということです。その一つが、日本における「怒りの扱い方」です。

日本に生きる私たちの多くは「怒ることはよくない」という価値観を深く植え付けられ、内面化してきています。例えば、幼少期から誰かに怒りを感じたときに、その怒りを表現せずに我慢をした方が褒められることはよくあるのではないでしょうか。実は私自身も、大学生になるまで社会運動に対して「怒ってばかりでなんかいやだ」というネガティブな印象がありました。

一方で、権力がある人が怒るときは、「躾」や「指導」などの“正当な”怒りであると捉えられる面もあるんですよね。抑圧されている側の怒りは「生意気」「ヒステリー」「攻撃的」などと、ネガティブな印象ばかり持たれるのに。このような「怒ることはよくない」「我慢した方がえらい」という価値観や、立場による怒りの扱いの非対称性については、日本の独特さがあると思います。

——確かに「怒ってはいけない」という価値観は、自分にも根強くある気がします……。

怒りに支配されるのはよくないけれど、その感情自体は大事なものですよね。なので、本当は「怒ってはいけない」ではなく、「怒りに身を任せた行動はよくない」のだと思うんです。

ただ私自身もかなり「怒ってはいけない」を内面化していて、怒りの感情の扱い方が苦手だな、という実感があります。日本で教育を受けてきた私たち、みんながそうなんじゃないかと思います。だから実は、トーンポリシングを議論する前に、私たちは自分の怒りの扱い方について、もっとしっかり話をしないといけないんですよね。

【画像】大きな蓋が3つ、自分自身を押さえているイラスト。うち1つは、自分自身が手に持って自分の体を押さえつけている

もう一つの日本ならではの難しさは、私たちが「差別」をどう学んでいるか、です。日本では差別を構造的な視点で捉えず、道徳教育で解決しようとしてきてました。

つまり「等しく持っている人権を守るために社会のしくみを変えよう」という話ではなく、「個々人の優しい気持ちがあれば差別は解決できるよね」という、差別を個人の問題にしてしまっている。この問題も、トーンポリシングをややこしく見せているのではないでしょうか。

——怒りという感情や、差別が生まれる構造に向き合う方法を学んでこなかった。だから、怒りに対して苦手意識がでたり、「クレーマー」や「わがままな人」といった印象を持ったりしてしまうのかもしれませんね。

差別は個人の問題だと捉えて「怒るのはよくない」と思っている人に対して、「あなたはトーンポリシングをしていますよ」と言っても、なかなか問題点を共通認識することは難しいのでは、と思っています。社会の構造的差別、マジョリティが持つ特権について知り、「抑圧を受けているときにはあなたも怒っても良いのでは?」などの議論を踏まえて、初めてトーンポリシングという共通言語が持てるのではないか、と私は思います。

もちろん、差別を受けた上でさらにトーンポリシングを受けている本人がそのようなアプローチをすべきと言う話ではありません。特に私のような、教育に関わる立場の人が、丁寧に説明をしていく機会を増やさなければ、と思うのです。

海外では、フェミニズムや白人特権などが社会的に認知されて、差別禁止に関する法律など一定の社会正義の合意と教育があった上で、トーンポリシングが登場したのではないかと思います。日本ではその土台にある構造的差別や人権について、広く社会の中で共通認識はとれていないように感じます。

だからこそ、トーンポリシングのような言葉は扱いがとても難しいです。これは「マイクロアグレッション」のような言葉、そして私が専門にしている「インクルージョン」や「ダイバーシティ」と言う言葉に対しても思うことです。

「怒りの表現」と「対話」のあいだを考える

——最近、対話が重要だとよく言われます。ただ、そこではどうしても「怒らずに理性的に話すこと」が求められる気もしています。互いを尊重する対話の仕方については、どうお考えですか?

対話って本当に難しくて、そんなに簡単にできるものじゃないといつも思います。そもそも前提の共有ができていない上で対話をするのは危険だし、「無邪気に」踏み込んだ話をするのはある種の暴力性を伴いますから。

対話をするには、先ほど出た「関係の非対称性」などの前提を共有することや、対話中の約束事を決めるのも絶対に必要。それが保障されていないなかで、初対面の人と対話をするのはとても難しいと思っています。「対話できる」と信じることも大事だけれど、まずはその難しさを受容するところからかなって。

——それらの前提がないままに対話をしようとすると、結局は立場の弱い人の声が消されてしまうわけですね。

はい。それは対話ではないですよね。強い立場の人が「対等」のつもりで話していても、立場の弱い立場の人は、言いたいことをなかなか言えない。対等な立場であったとしても、我慢することや相手に合わせることを「良いこと」と学んでいたら、伝えたいこともなかなか伝えられない。

でもそうならないよう、練習していくことはできると思います。以前出会った学校の先生で、小学校1年生の段階でその練習を取り入れている方がいました。何かを決めるときに、ジャンケンや誰かの一声ではなく、“みんなで決める”経験を積んでいくんです。例えばクラスの席替え一つでも、まずは一人ひとりが希望を出して、被ったら当人同士で相談する。先生の権力を使って決めちゃえば楽なんですが、そこを耐えて、全員が納得できる形を粘り強く目指します。泣いちゃう子が出てきたり、いろいろカオスにはなるんだけれども、その先生は話し合いの練習をするために2週間おきに席替えをするというんです。

——そこまでされてるんですね!

すごいですよね。その先生は子どもたちに「物ごとは話し合いで解決できるんだ」という実感を持ってほしい、という強い思いがあって実践されています。

ぶつかりながら、自分が言いたいことをどう相手に伝えるのか考えたり、実際に伝えてみてうまくいかなかったり。地道な積み重ねから、徐々に「立場の違う人とどうやって対話したらいいんだろう」と広がっていくんだと思います。

【画像】2人の人物がさまざまなことを思う浮かべながら、向き合っているイラスト

——そういう経験を重ねることで、自分の怒りのコントロールの仕方や、怒っている相手に対する姿勢も変わっていくように感じました。

怒りの感情そのものが悪いわけではないと知るのと同時に、「自分はどういうときに怒りを感じるんだろう」とか「それをどう相手に伝えればいいんだろう」ということを学んでいくのが大切ですよね。我慢するか爆発するかの二択ではなくて、自分も相手も大事にする方法を経験を通して学んでいくことが、異なる意見を持つ人たち同士が共存する社会につながっていくんだと思います。

ただ、そういう教育を受けていない私たち大人がするには、すごく辛抱も時間も必要なことですし、余裕のない今の社会で練習するのは大変だとも思います。私も小さい頃から、こういう教育を受けたかったなあって。

——対話の実践や感情のコントロールを学んでこなかった大人たちは、どうしたらいいんでしょう?

まず相手の考えや行動の背景に思いを馳せることを、私は大切にしています。例えば自分と異なる物ごとの捉え方や政治信条を持っている人が、なぜそういう考えを今持っているのか、どうしていきたいと思っているのか、と考えてみたり、そこに思いを馳せて聞いたりしてみる。

それは「相手に迎合しろ」ということではなく、見えている世界の違いに関心をよせるということなんだと思います。その人と全ての場面でわかりあったり、仲良くしたりする必要はないけれども、共存はできるはず。私はその思いをよく「手をつなげる部分を探す」と表現しているんです。

それこそ学校にはいろいろな先生がいますが、どんな立場でどんな考えでも、「子どものため」という目的のためには手をつなぐことができます。そういった部分を丁寧に探っていくことが、誰に対しても大事だと思いますね。世界中の誰とでも、共存するために手をつなげるポイントがあるはず、と私は信じています。

——マジョリティ/マイノリティという大きな主語で相手を見ていては、なかなか手がつなげない。だからこそ、まずは目の前の人を知ろうと。

「この人とだったら、どこで手がつなげそうかな」と考えるには、相手を一括りにしては語れないですよね。私が専門にしてきたインクルージョン研究は、そういう多様な“個”の存在をすごく教えてくれる分野なんです。障害などさまざまなマイノリティ性のある子も、「問題行動がある」と言われている子も、少年院に入る子も、接してみると必ず背景に構造的な問題がある。

もちろん背景や理由があるからといって差別や加害をよしとするわけではないですが、目の前で起きている行動だけじゃなくて、「なぜそこに至ったんだろう」と丁寧に探って紐解いていく方法は、私自身も知見としてもっと共有していきたいと思っています。

みんなが抑圧されている社会に、みんなで怒れるように

——個々の背景を想像するのは、マジョリティかマイノリティかに関係なく本来は必要なことですよね。

自分はマジョリティ性が高い、という人も、実際はさまざまな形で社会からの抑圧を我慢していると思います。学校の先生に関しても、労働者としての自分の人権が侵害されている現状で、子どもを抑圧するなと言っても難しい。先生たち自身の権利を守るアプローチも必要です。

私たちの実践には、誰もが抑圧を受けていること、誰もが社会の「ふつう」によって困っていることを前提とした、学校教育の「ふつうアップデート」というものがあります。これはマイノリティの子どもたちだけでなく、全員が過ごしやすい学校にアップデートしていきましょう、という取り組みです。

——みんなをテーマにするなら、「マイノリティではない子どもたちも抑圧されている」という視点も入ってきますね。

そう、みんなが抑圧された状態では、子どもたちの中にも「配慮されている子だけずるい」という感情が生まれてしまいます。それが今の学校で「マイノリティだけに焦点を当てる施策が難しい」理由でもあることを思うと、同じアプローチが社会のあちこちに必要なのかもしれません。

それぞれが「今の社会の構造により、自分も抑圧を受けているかもしれない。受けてきたかもしれない」と気づき、それをどうやって変えていけるのかを話せる場があるといいなと思います。

体育館のような場所で、ホワイトボードをたくさんの大人が囲んでいる写真
(提供写真)

——実はみんなが何かしら抑圧された痛みを感じているからこそ、他者への気づきも生まれる可能性があるんだと、希望を感じました。

そうだと思いますね。冒頭で話した、学生たちに「子どもの頃を思い出してみて」と言うのと同じで、一人ひとりが「自分の声が聞かれなかった経験や軽視された経験」に気づけると、問題が自分の話になっていきます。自分には関係のない、遠いどこかの話ではなくて、いかに多くの人が「差別は自分の話だ」と思えるかがポイントだと思います。

だから、私はもっとみんなが怒ればいいと思うんです。マイノリティの怒りに「私たちだって我慢しているんだから」と言う人には、「あなただって怒っていい」と言いたい。怒っていい人と、怒っちゃダメな人がいるのではなく、みんなで怒ったらいい。ずっと我慢をしている人に対して「もっとみんな我慢をするべき」と怒るのではなく、「みんなが我慢をしなくていいように社会を変えるべき」と怒っていいんだと思います。

——その通りだ……と思う一方で、怒りをもとにした言動には、誰かを深く傷つけたり、社会を不安定にしたりするリスクもある気がします。怒り方の線引きというか、超えてはいけないラインはどう考えていますか?

難しいですね。差別や抑圧を受けている人に対して、「ここまでなら怒っていい」という線引きはすべきではないなと思います。一方で、やはり怒りの扱い方をみんなで学んだり、社会の中に埋め込まれている差別について、「私たちの話」として特にマジョリティ性の高い人たちが共に考えたりするアプローチがあれば、怒りを示すべき方向性は見えやすくなるはずです。

私自身も、そういうふうに社会の構造に気づくきっかけづくりの役割を担いたい。いかに自分が無自覚のうちに差別をしていたか、そして実は自分も抑圧を受けてきたか、について安心して学んで話せる機会が増えたら、異なる部分で抑圧を受けてきた人同士が、構造を変えていくために手をつなげるポイントを探すことにもなると思うんです。

——しくみや構造が変われば、目の前の一人だけでない多くの人や、未来を生きる世代の問題解決にもなりますね。

差別をしている個人に対して「差別はダメ」と言うことは当然必要です。同時に、そもそも教育における差別の学び方を見直したり、包括的な差別禁止法を作ることを検討したりと、構造そのものを変えることに働きかけていきたい。

いわば目の前で今踏まれている足を「どけて」と伝えることと、そもそも足を踏まれない社会にしていくことの、両方が必要なんです。そして、これはどちらかの話ではなく、両立できる話だとも思います。

私たちは差別をしたり、されたりする社会に生きている

——今は多くの人に構造が見えていないから、マイノリティ当事者が怒っているとき、受け取る側もなぜか自分が怒られているように感じて反発するのかもしれません。

差別がいかに構造的に埋め込まれているかを知ることで、きっとそれも変わっていきますよね。今は現実でもSNSでも、同質性の高い人としか出会わない社会になっている感じがします。先ほどのような、差別が埋め込まれている構造を知ると同時に、異なる事情や背景を持つ人との関わりがあってこそ、なぜその人がそう思うのか、どんな事情があるのか、その背景にある構造はなにか、を知ることができると思います。

——野口さんご自身が「ここに差別の構造がある」と相手に伝えるとき、意識していることはありますか?

さまざまな人が「私のことだ」と思える伝え方を、戦略的に考えるようにしています。私は講演や研修などを通して人前で話すことが多いので、一緒に考えたり、葛藤を歓迎したりする場を設計するようにしていますね。

そして、私ももれなく差別の構造により、抑圧を受けているだけでなく、差別をしてしまっていると伝えます。「差別をしているダメなあなた」と「正しい私」ではなく、「差別をしてしまう私たち」と「それを生み出す構造」という文脈が大事かな、と。

——思わず耳を塞いでしまう人の気持ちも、実際わかるような気がします。

そうですよね。なのでインクルーシブ教育の現場でも、関心のない人たちにもわかりやすい言葉や表現を使ったりしています。これも抑圧を受けている当事者がやるべきとはまったく思わないですし、やり方に気をつけないと差別を矮小化したり、差別構造をより広げたりすることになるので、とても難しいんですが。

例えば、私は学校向けに「人権」という言葉をあまり使いません。それは日本においてこの言葉が「やさしさ」や「マイノリティの権利」などのイメージと紐づきすぎていて、苦手意識のある人も多いからです。本当は誰にとっても大切な言葉なんだけど、聞いただけで「うわ、出た……」となることも現実としてある。そういう人たちにもまずは聞いてもらえるように言葉を選びます。

——「差別がある」という指摘も、構造への怒りや訴えだとわかっていれば、必要以上に苦手意識を持たずに聞くことができるのかなと思いました。

やっぱり差別が道徳的に扱われてきたことで、「差別をする人は悪である」という認識になってしまっていると思います。だから「差別をされた」と言われると、自分がものすごく悪者として責められているような気持ちになるんですよね。

でも本来、差別や排除は気づかないうちに社会の中で起こっていることで、私たちはお互いに差別しているし、差別されている。まずはそれを知ることが大事だと思います。

——知らぬ間にお互いを差別しあってしまう現状を受け入れて、「だからみんなで変えていこうよ」と。

例えば今、左利きの人が「これが不便なんだ」と言ったら、右利きの人たちは「そうなんだ、気づかなかった! じゃあ左利きの人たちが使いやすい商品があるといいね」となりますよね。でも、20世紀後半まで、左利きは「問題児」「親のしつけのせい」などと言われて、婚姻にも影響を与えていた過去があります。

現代だったらあり得ない差別ですよね。左利きへの差別が埋め込まれていた社会が当たり前だったわけです。けれど、その後左利きによる左利きのための権利運動があり、左利きのままで生きられるように社会がアップデートされた。当事者が声を上げることで、不利益が個人の問題でなくなったという意味では、他のマイノリティ差別でも同じことが起こせると思っています。

——確かに「左利きだからこれは使いづらい」と言われても、「自分が怒られた!」とはあまり感じない気がします。

「怒られた!」と思う時代もあったのかもしれません。差別って誰もが気づかないうちにやってしまっているんだけれど、それは構造に組み込まれているから、ある意味で気づかないのが当たり前なんです。それを受け入れた上で、今の「ふつう」「当たり前」を変えていくために手をつなげるといいですよね。

——そういうことを頭のどこかに入れておけると、「そんな怒り方しないで」と相手の怒りに対して、過度に防衛的にならずに済むかもしれませんね。

でもね、防衛的になるのもわかるんですよ。誰かの怒りに触れるって、すごくしんどくて疲れることだから。私もそうです。

だからと言って、「自分は悪くない」「言い方が悪い」「怒らなくてもいいじゃん」と正当化するのではなく、「なぜ差別って言われたんだろう」「自分が差別をしてしまったことに気づいてしんどかった」「怒りに触れてつらかった」と話す場があってもいいと思うんですね。それはSNSのようなオープンな空間ではなく、信頼できる誰かとクローズドな場である必要はありますが。

そういう話をするなかで、「自分も差別を受けたことがある」ことに気づいたり、これまで自分が受けてきた教育や周囲の環境の中の差別構造が見えてくるのかな、と。私もそうでした。そういう場を自分もつくっていきたいし、増えていくといいなと思います。

【怒りの向き合い方をテーマに、平尾剛さんと対談】


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連載:こここスタディ