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「大きな主語」はどこが問題? 悪い一般化と、団結を生む言葉のあいだを考える──言語哲学者・和泉悠さん こここスタディ vol.33

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私たちの周りには、人の属性の一部にフォーカスを当て、集団として「まとめて語る言葉」が存在します。

例えば、「日本人は勤勉である」「女性は料理が得意」「年寄りは頑固だ」といった言葉たち。これらには、そうだと頷く人もいる一方、反発を覚える人もいるはずです。属性を単純に一般化することは、人の個別性を無視したり、ステレオタイプを生んだりする危険性があるため、SNSなどで「主語がデカい」と批判されることも少なくありません。

ただ、一つの名詞でまとめて語ることは、悪いことばかりなのでしょうか? バラバラだった個人が集まり特定の主語で発信することが、マイノリティ性の高い人の存在を可視化したり、困難な状況を“みんなの問題”として解決に向かわせたりすることもあります。実際に「Black」や「女性」といった大きな主語が連帯を生み、公民権運動やフェミニズム運動などにつながってきた歴史も。

今回は「悪口」などネガティブな言葉の問題を哲学・倫理学的に研究してきた南山大学の和泉悠さんをたずね、多様なはずの人の特性や経験と、「◯◯はみんな」という語りのあいだに何が起きているかを考えます。

脳に埋め込まれた「一般化」の仕組み

——私たちは普段の会話から、人々をカテゴリ分けして「こういう人は、こうだ」と一般化しがちです。本来は多様なはずの存在を、なぜ簡単にひとくくりにしてしまうのでしょうか?

和泉悠さん(以下、和泉) そもそも「一般化する」という考え方自体は、人間の基本的な認知、世界の理解の仕方の一つとして、私たちみんなに備わっています。そういった機能があるのは、やはり生き残っていくためだったのでしょう。特に「自分たちに害を及ぼす」と感じる事例は、すぐに一般化するようにできているように思います。

例えば、真っ赤なキノコを食べて仲間の誰かが死んだとしますね。残った人は、それを瞬時に「赤いキノコ=食べられない毒キノコだ」と判断しなければいけない。「こっちの赤いキノコは大丈夫かも」なんて考えていたら、絶滅してしまうわけですよね。一つの事例から考えうる危険性を自分に言い聞かせ、素早い判断をしたり、仲間に伝えやすくしたりすることで、人間は自分たちを守ってきたとも言えます。

そのため、本当はものすごく少数の事例だとしても、全部に当てはめる思考の癖がついてしまっている。「トラは人を襲う」「沼は危険だ」「蚊は病原菌を運ぶ」なども同じです。ただ、実際は例外も多いので、その一般化は100%正しいとは限らないはずなんですよね。

ポートレート写真。本に囲まれて話す姿
言語哲学者の和泉悠さん(南山大学人文学部人類文化学科 准教授)

——そうやってキノコや動物などを一般化するのと同じように、人間に対しても集団で一般化するようになった、ということでしょうか?

和泉 おそらく。例えば「この川に住んでいる私たちは〜」とか「あの山に住んでいるあいつらは〜」のように、生存をかけた争いの中で、隣の部族や敵集団を一般化してきたケースは少なくなかったはずです。

ただ、現代の私たちはそういう部族的とも言える生活はしておらず、同じ市民として大勢の人とともに暮らしていますよね。にも関わらず、「このエリアに住んでいる人」「〇〇人」といった特定のグループへのラベリングが続いているように思います。例えば、ある外国籍の人が犯罪を犯したという事例が一件でも報道されると、それを見て「外国人は危険だ」と言うような。全体の割合で考えたらごく一部のはずなのに、一般化の思考を人間同士にも当てはめているんですね。

混合されがちですが、この認知の仕組みが備わっていることと、どうやって使いこなすのかは別の話です。「お腹が空いてごはんを食べたくなる」のが人間の仕組みであっても、勝手に人のごはんを盗ってはいけないのと同じことですね。まさに今回のテーマのように、一般化の思考や言葉を現代社会の中でどう扱うかは、よく考えなければいけません。

大きな主語問題を考えるキーワード「総称文」

——和泉さんは、2026年3月に出版された『悪いことばの力』(大和書房)の中で、「総称文」について紹介されています。これも、先ほどの一般化につながる概念ですよね。

和泉 はい。総称文というのは、まさに「〇〇は〜である」と表す文のことを言います。1990年代以降、言語学者の間で研究が盛んになり、さまざまな言語でその議論がされてきました。

日本語の場合、普通名詞に「3割の」「1%の」「全部の」などの量を限定する表現をつけない文章が、典型的には総称文になります。言語学的に言えば「無修飾の普通名詞を使って一般的に述べる文」です。例えば「トラは人を襲う」と「鳥は空を飛ぶ」と「ネズミは哺乳類だ」のような文章ですね。

ここで重要なのは、人を襲う虎が実際にはごく少数しかいなくて、ほとんどの虎は人間なんか見たこともないはずなのに、そう言えてしまう点です。一方で、鳥は多くが空を飛びますが、哺乳類でないネズミは一匹たりともおらず、例外がありません。つまり、この3つは同じような文でも割合が全然違います。これ自体に良い/悪いといった意味合いはなく、動植物や天気などを認知したり、人に説明したりするときによく使われています。

【画像】トラ、人をおそうもの、鳥、空をとぶもの、ネズミ、ほ乳類、という言葉がそれぞれに範囲をもち重なり合う図。その下に「たまに?」「多くが?」「全て?」と考える人たち

——SNSなどでは「母親は〜」「外国人は〜」といった、大きな主語で語る言葉が、たびたび問題となりますよね。あれも総称文ということですか?

和泉 いわゆる「クソデカ主語」と言われる言葉は、「東京の人はみんな」「女性は全員」などの大きな量を表す修飾がつく場合も多いですよね。それは、先ほどの無修飾の定義から外れるため、厳密には総称文ではありません。

ただ総称文は曖昧なものなので、量について触れていないのに「全てそうだ」とも取れるような文章になっています。だから少数の事例なのに、ほとんどに当てはまると思い込んで喋ってしまう“迂闊な一般化”が起きていると思いますね。最近、そうした特性のある総称文の研究に言語哲学者も加わるなかで、人間への一般化がステレオタイプや偏見、バイアスなどに関わっていると徐々にわかってきています。

人への一般化で、謎の“本質”が生まれてしまう

——総称文の構造を使い、動植物と同じように人間を語ることがなぜ問題か、もう少し詳しく教えてもらえますか?

和泉 一つは、その総称文を発した本人ですらも正確な内容を把握できないまま、曖昧な情報を伝え、広めているという点です。例えば、「日本人は勤勉だ」と言われたときに、実際にどうやって勤勉さを測るのか、日本人のどのくらいの割合が勤勉なのか、具体的に確認しようとしても誰にもわからない。

これはおそらく、誰かが勤勉な日本人を何人か見ただけで安易に「日本人」と「勤勉」を関連づけているだけなんですよね。そういうものが、人々の中にステレオタイプを生んでいきます。

【画像】日本人、勤勉な人、女性、料理が上手い人、という言葉がそれぞれに範囲をもち重なり合う図。1枚目の図よりもそれぞれの示す範囲や重なりが曖昧になっている

和泉 この言葉の影響力は、単発ではそこまで大きくないかもしれませんが、巡り巡って大きな害につながっていると私は思います。お国自慢的なものならまだ冗談にもなりますが、だとしても「そもそもよくわかっていないこと」を前面に出すのは、非常に怖い事態を招きかねません。

例えば、一方的に外国人と犯罪を結びつけるような発言があります。具体的に「◯◯に住んでいる外国籍の人のうち、何%が犯罪を犯している」とデータを出してもらえれば、そこから対策を考えられるかもしれない。しかし実際は、「外国人は犯罪を犯す」と発言した本人ですらその割合がわかっていないのに、「外国人=犯罪」というイメージが広がっていますよね。それが多くの人の行動に影響を与えていくのは、とても有害だと思います。

——文章としては成り立っているけれど、内容が正しいとは限らないということですね。

和泉 哲学者や言語学者のあいだでは、「文章として成立しているか」と「文章が表す命題が確定しているか」は全く別の話だと言われています。そして総称文は、それがいったいどの命題を述べているのかすらよくわからないときがあるため、発言者が「いや、そうは言ってない」と責任を取らずに済ませることも可能なんですよ。

「外国人は危険だ」などと言ったとしても、実際に本人は「外国人みんなが危険だ」とまでは言っていません。なので、一つの事件を指差して、「ほら、犯罪をする人もいる」と自分の発言を正当化することもできる。そういう言葉を使うことによって、聞いている側はイメージを関連づけます。

——本来は当てはまらない人もいるはずなのに、全員に同じ性質があるような気にさせられます。

和泉 まさに総称文の、もう一つの問題として、聞いている側が「そこに本質的な共通点がある」と認識してしまう点があります。わかりやすく一般化することによって、人間がもともと持っている本質主義的な側面、要はある集団をひとまとめにして語るときに、「ここに何か生き物としての共通の特徴があるに違いない」と考える傾向を、勝手に加速させてしまうんですね。

「ザーピー人」「ザーピー族」(Zarpies)という架空の人の集団を使った研究があります。イラストで描かれるザーピー人は、帽子と服装以外は人種も容姿の特徴もバラバラ。ただ、ザーピー人を説明するときに「この子は花を食べます」と言う代わりに、「ザーピーたちは花を食べます」と総称文を使うと、聞いた側は、ザーピーという人々全体が花を食べるとか木に登るといった特徴を持つ、と考える傾向があることがわかっています。

【画像】
Marjorie Rhodes、Sarah-Jane Leslie、Christina M. Tworek「Cultural transmission of social essentialism」(2012)よりキャプチャ

——社会の中では、これを「黒人」や「女性」といった括りで語ってしまっているということなんでしょうか?

和泉 そうですね。ひとまとめにして「その人たちには血筋やDNAなどに何か共通点がある」と考えていると思います。「黒人アスリートは身体能力が高い」というのは、黒人には生まれつき高い身体能力があり、だからこそアスリートとして活躍できているという見方ですね。

——たしかに、それが事実だと考えている人は多そうです。

和泉 しかし、近年の研究では「黒人」という単純な遺伝子グループは存在しないと言われており、共通した本質なんてものは存在しないということになっています。「黒人」は社会的な分類であり、そこにいる人たちは本来さまざまなはずです。「生まれつきだよね」と言うのは、その人がアスリートとして活躍するためにしてきた努力やトレーニングを矮小化することにもつながります。

あるいは、そういったポジティブなイメージとともに、ネガティブなステレオタイプが広がる可能性も出てきます。身体能力が高いというイメージを勝手に反転させて、「力が強くて乱暴だ」とか「管理職にはきっと向いていないだろう」とか決めつけてしまう。その人自身とは無関係に、謎の“本質”みたいなものを登場させているわけですね。

——本質があるように言うことで、その人の選択肢を狭めたり奪ったりしてしまっていたと。

和泉 そのような言葉を使うことの弊害が、黒人差別に対する公民権運動や、女性差別に対するフェミニズム運動の歴史の中で少しづつ広がり、「あれは単なる偏見だったんだ」と意識されるようになったんじゃないかと思います。研究によって、ステレオタイプが教育水準や経済的な状況の格差にもつながっていると明らかになるにつれて、少しずつ状況もマシにはなってきたかもしれません。

けれども、それは抑圧されてきた人々の苦しみについて、気づき始めた人が多少増えたという程度。総称文についてもまだ理解が広がっているとはとても言えず、「大きな主語」の中で苦しんでいる人は、今も当然おられるはずです。

エンパワーメントにつながる「同じ主語」の力、どう使う?

——主語をまとめて語ることに悪影響がある一方で、先ほど出たフェミニズム運動など、社会的な不利益を被っている集団が、自分たちの属性を「同じ主語」で表し、あえて一般化することで一致団結した歴史もあるはずです。

和泉 とても重要な指摘で、バラバラだった人たちが団結したり協力したりするときに、集団を表す言葉が意味を持つ側面は確実にあると私も思います。名前で呼び可視化して、団体を作って、みんなで自分で意見を通すということはずっとあったんじゃないかと。フェミニズムなどはまさに、そうやって差別に対抗する大きな力となっていった運動だと思います。

【画像】さまざまな色や模様の印を持った人たちが、それぞれのグループを表す印を身につけたり掲げたりしているイラスト

——そのように団結を促す主語のまとめ方と、有害な一般化との違いは、どのように考えられますか?

和泉 集団に対するラベリングについては、それを自分で決めていること、いわゆる自己決定が非常に重要だと考えています。所属すると考えられるグループを他人が決めるのか、自分で決めているのか、ということですね。

わかりやすいのが黒人の人たちの呼び方の変遷で、今でこそ自ら“Black”という呼称を使いますが、定着したのは1960年代以降だと思います。それまでは、今では蔑称と思われる“Negro”という言葉が正式名称のような扱いで、“Black”のほうが蔑称に近い使われ方だったんです。それが、60年代に「黒で何が悪いんだ」と、“Black is beautiful.”(黒は美しい)というムーブメントが広がっていき、“Black”という言葉に誇りを持つ傾向が強まっていきました。そして、“I’m Black And I’m Proud”(私は黒人でそれを誇りに思う。James Brownの曲名一部)と声を上げるようになったわけですね。

——自ら定義していくことで、言葉の持つイメージは変えられるということですね。ただ現実社会を見ていると、特定の言葉のもとに集まることで、別の分断が生まれることもあるのかなとも思います。

和泉 それも大事な点で、まさに黒人差別や暴力に対する“Black Lives Matter”が大きな例になるかなと思います。これはもともと、黒人が暴力を受けたり殺されたりすることに対して「黒人の命は大事」だと訴える内容だったわけです。そこに対して今度、「黒人以外の命は大事じゃないのか」という反発が起き、“All Lives Matter”で「全ての命は大事」と言い出す人も出てきた。グループを分けて集まることで、分断を生む種になりかねない難しさはありますね。

——もう一つ気になるのが、同じグループだとされる人たちの間にも、意見や状況にグラデーションがあることです。エンパワーメントのためとはいえ、あえて「同じ主語」で語ること、例えばフェミニズム運動の中で女性の「経済的自立」を強く訴えることが、職業的なキャリアを志向しない女性の「生き方」を否定してしまう、といった可能性はないでしょうか?

和泉 ご指摘のように、同じ属性であっても、いろいろな立場や環境、考え方の人がいます。個人としての生活や幸せの追求と、構造的な抑圧に対する抵抗運動との間に、総称文ならではの曖昧さが入り込んだ結果、不必要な軋轢が生まれる可能性はあります。

これはすごく難しい問題で、簡単に答えを用意することはできません。ただ一つ私が考えたいのは、その主語やラベルがあるか/ないかの二択ではなく、それを「自分の判断で流動的につけたり外したりできるものだ」と見ることはできないか、という点です。フェミニズム運動に積極的な人であっても、女性であることが重要な日もあれば、そうでない日もある。性別が関係ないはずの文脈でまで、「女性」という主語で語ることを求められてしまうのは健全とは言えないと思うんです。

「女性」や「◯◯人」といったラベルで自ら集まったり協力したりできることは大切ですが、それが生まれてから死ぬまで常に付きまとい、一挙手一投足が全て規定されるような状況はその人にとって有害ですよね。一つのラベルが人の一生を、あるいは全ての生活の場面を規定することが問題なんだろうなと、今もお話ししながら考えています。

【画像】さまざまな形や模様のラベルが並び、人々がそれぞれラベルを身につけたり、手に取ったりしているイラスト

ラベルを更新するための、これからの「言葉」との付き合い方

——使う言葉と人の意識は、思った以上に密接につながっているんですね。

和泉 最近読んだ『Stereotypes and Scripts: How Language Shapes and Resists Expectations』(ステレオタイプとスクリプト:いかに言語が期待をつくり期待に抵抗するか)の中に、ステレオタイプではない言葉の使い方をしたり、時にユーモアを交えながら日常の違和感を表現したりすることで、他者のステレオタイプの再考を促せる、ということが書いてあります。

そこで紹介されていて印象に残ったのが、あるシスジェンダーの女性(出生時に割り当てられた性別と性自認がどちらも女性である人)が、トランスジェンダー女性(出生時に男性と割り当てられたものの、性自認は女性である人)に向かって「女としてパスできてるよ」みたいなことを言う場面です。それに対し、トランスジェンダー女性は「ありがと。あなたもね(You too.)」と短く返すんですね。ここで「あなたも女としてパスできていますよ」と長く言ったら余計な軋轢が出ますし、真正面から「あなたの言葉にある差別と偏見を今から解説します」と対立しても同じです。けれども、こうしたさらっとした言い回しなら、うまく相手に気づかせたり、自分のプライドを保ったりできるかもしれません。

——自分自身の発言によって人の尊厳を損ねないためには何に気をつけたらいいと、和泉さんは思いますか?

和泉 一つ注意できることは、総称文の無駄打ちをしない、ということかもしれません。キリンやキノコのような動植物の話をしているように、人について話さないということです。よくよく考えたら、日常生活で“絶対に総称文を使わなければいけない場面”って少ないんですよ。もし自分の母親が料理が得意だったとして、それを「女性は料理が得意だ」と語る必要はなく、ただ主語を「うちの母親は」にすればいいだけの話ですから。誰にでもできる小さなことなのかなと思います。

言葉の使い方って、端々に「自分が世界をどう捉えているのか」「自分たちの関係性をどう捉えているのか」が出てくるなと思うんですね。だからこそ、使い手の意識が重要だなと思います。

——あえてラベリングする必要はなく、主語を小さくして話すということですね。

和泉 一方で、マジョリティ側はラベルがなくても済むのに、マイノリティ側だけラベルをつけられているような現実もあります。異性愛者がデフォルトとされている社会では、同性愛者のほうが少数なので、存在を可視化するために名前をつけられていますよね。

だからこそ、マジョリティ側である「ヘテロセクシャル(異性愛者)」「シスジェンダー(心と体の性が一致している人)」といったワードは、その非対称性をちょっとでも緩める意味もあるんだと思います。あえて自分のことを「シスヘテロです」と付け加えることで、ゲイやレズビアン、トランスジェンダーといったラベルについて、「これはあくまでもラベルだ」と強調するという役割を持たせられるかもしれないですね。

——さまざまな人が一緒に生きる上で、言葉も新しく生まれたり変化したりしていくものなんだなと思いました。

和泉 今後どのような名詞を使っていくかは、一つの大事な要素だと思います。同時に、具体的な人の話をしているときは、例えば「障害者」のような単純な名詞を使うのではなく、回りくどく見えても「◯◯の特性のある人」「傾向のある人」のように表現していくことも私は意識したいです。

短い言葉であるほど、ステレオタイプに頼って情報を伝えることになりますからね。とはいえ長いフレーズのほうが伝わりにくくなるので、バランスを常に探らないといけないのが難しいところです。

——SNSを筆頭にコミュニケーションのスピードがどんどん短くなっている今、そこに抗うのも難しいなと思いながら聞いていました。

和泉 そうですね。現状では、「抗いたい」と思っていることが大事なのかもしれません。でも、ショートカットやテンプレートに頼る流れも、偏ったらまた戻るときが来ると思うんです。フィクション作品で「〜だわ!」と言わせることで女性を表現するとか、漫画で金髪ドリルの髪型でお嬢様だとわからせるとか、そういうテンプレに頼ったショートカットは、だんだん飽きられますよね。そこから逸脱したキャラクターのほうが複雑で面白いものになっていく。

言葉選びでもきっと同じで、テンプレな表現ばかりでは「はいはい、またあの感じね」と、多くの人がつまらないと思うときが来るはず。そこから外れる、ある種の違和感のある文章が受け入れられる日もきっと来るんじゃないのかなと、そういう気もします。


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連載:こここスタディ