福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【画像】きょうかいのまえにたつみなとざきまさごさん【画像】きょうかいのまえにたつみなとざきまさごさん

湊崎眞砂さん【牧師】 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道 vol.08

  1. トップ
  2. 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道
  3. 湊崎眞砂さん【牧師】

手話を大切なことばとして生きる「ろう者」はどんな仕事をしているのでしょうか。

連載「働くろう者を訪ねて」では、写真家であり、ろう者である齋藤陽道が、さまざまな人と出会いながらポートレート撮影とインタビューを重ねていきます。

最終的な目的は、働くろう者たちの肖像を1冊の本にすること。その人の存在感を伝える1枚の写真の力を信じて、「21世紀、こうして働くろう者がいた」という肖像を残していきます。(連載全体のステートメントはこちらのページから)

第8回は、長崎県でろう者のための教会を設立し、牧師として働く、湊崎眞砂さんを訪ねました。

湊崎眞砂さん【牧師】

【画像】かわのちかくにたつごうしゅうまさのぶさん

―お名前、年齢、ご職業は?

湊崎眞砂(みなとざきまさご)といいます。みんなからはこういうサインで呼ばれています。指文字「ま」のかたちで、反対側の肩を軽くとんとんとたたきます。今は69歳。もうすぐ70歳です。

長崎県佐世保市のローア・バプテスト教会で牧師をして、46年目になります。全国各地の教会などにも巡回し、聖書講座をしています。

―出身地はどこですか。

鹿児島県です。鹿児島市から見える桜島、その裏辺りで育ちました。

―今まで通っていた学校はどこですか。

小学1年生からずっと鹿児島県立鹿児島ろう学校に通っていました。当時は幼稚部というものがなかったんですよ。鹿児島ろう学校の高等部理容科に入り、理容師国家試験を受け、合格しました。

―こどものときの夢は何でしたか。

学校の先生でした。当時の鹿児島ろう学校は手話禁止だったんですが、小学1〜4年生のときの担任、その女性の先生はいつも豊かに身振り手振りで話してくれて、教え方もわかりやすかった。担任を見て、私も先生になりたいと思ったんです。ですが先生になるためには大学へ行かねばならない。私は勉強が嫌いで、成績も良くなかったので諦めました。

―これまでの職歴、経歴は?

理容師免許をとったあと、長崎県佐世保市早岐の理容店に2年間勤めていました。同時にその頃から牧師の仕事もしていました。理容店のオーナーは聴者。そこは理容店としてはめずらしく日曜定休だったので、毎週礼拝を開くことができたんです。

フルタイムで牧師の仕事をしたいと思い、いったん鹿児島県に戻り、2年間聖書神学校で学びました。その間も月1回は佐世保市に通い、礼拝を開いていました。聖書神学校を卒業してから本格的に牧師として働き、46年経ちました。

―牧師になろうと思ったきっかけは?

話せば長いんですけど、まとめてみますね……中学2年生のとき、ろう学校の先輩に教会へ連れて行ってもらって、キリストの教え、イエス様の愛を知る機会があったんです。「すごい。イエス・キリストの素晴らしさをみんなに伝えたい。もっと学びたい」と強く感じ、入信しました。

高校生のときに牧師か、東南アジア諸国辺りへ出向く海外宣教師になりたいと考えるようになりました。九州でろう者が集まる教会がない地域を調べていたら「長崎県にはまだない」という情報が入ってきました。地図を開いてみたらなんとなく、目が「佐世保」という文字に引っ張られたんです。特に理由はなくて、ただただ、「佐世保のろう者にキリストの教えを伝えたい」と強く想うようになりました。天啓ですね。

そうと決まったらすぐに佐世保市へ引っ越しして、理容師の仕事をしながら伝道をして、イエス・キリストの素晴らしさを伝え続けはじめました。

―牧師になれるまで、どのような過程がありましたか?

まずいくつかの聖書神学校に問い合わせてみました。ですが「ろう者だから」ではなく「手話で講習をすることができる牧師、講師がいないから」という理由で断られました。

高校生のときに、とある宣教師の家へ遊びに行ったことを思い出し、その宣教師に相談しました。彼はアメリカ人で、ご子息がろう者です。後に恩師となる彼は「私が牧師になるための必要な知識などをレクチャーをする。そのかわり日本手話を教えてほしい」と言ってくれました。アルバイトをしながら、恩師のレクチャーを受け、その他は宮城県仙台市の聖書神学校の通信科で学びました。

私の態度に対する周囲からの評価、恩師からの評価なども重要で、それらをクリアした上で、牧師になることができました。

―佐世保ローア・バプテスト教会会堂が建てられたのはいつですか。

13年前の、2008年10月31日に建設しました。それまではいろんな場所を借りて、礼拝を開いていました。仲間たちからの30年以上に渡る献金と、銀行からの融資によってこのローア・バプテスト教会会堂を建てることができました。

―ここに来るのはろう者の信者だけでしょうか?

最初はろう者の信者だけに声をかけていましたが、その家族たちも来るようになり、大所帯になっていきました。その交流の中で手話を覚えていったコーダも多くいます。一般の聴者も来るようになってからは、手話ができる聴者の信者がマイクを持ち、私の手話を音声通訳して伝えてくれています。

―メディア設備がいろいろとありますね。

こういった機械に強い信者たちのアイデアで、この教会が建てられたときから備わっています。私は本当に、機械に弱いので信者たちに任せっきりです。

今はオンラインで礼拝を発信したりしています。昔はVHS(ビデオテープ)、DVDに記録して、「遠くて来れない、でも手話での礼拝を見たい」という他県のろう信者へ送ったりしていました。

―これまでにどんな活動をされていましたか。

基本的には、ここで毎週日曜日に礼拝、聖書講座をしています。また全国各地へ招待されて、講座をしています。アメリカからはこれまでに50ヶ所以上の招待がありました。

アメリカでの最初の講座は、恩師のご子息からの縁でした。当時の私が知っているASL(アメリカ手話)は「Thank you」「I am sorry」だけ。でも周りが大丈夫! と言ってくるので、思い切って日本手話とASLを混ぜて講座したんです。そしたら涙ぐむ人や、笑ってくれる人もいて、驚きました。心があれば通じるんだと感動しました。それからすぐに猛勉強、猛実践しまくって2ヶ月でASLを覚えました。

最初の講座がきっかけでアメリカ各地の教会に招待されました。連続して36ヶ所の教会へ訪問し、講座をするというハードなこともしました。カナダ、ヨーロッパ、東南アジア諸国にも行きました。

東南アジア諸国には貧富の差が激しく、交通費を捻出できない団体が多かったのですが、私は自費で要望されたところへ出向い、講座をしてきました。私には当協会からの給与があり、国からの福祉手当もあるので、それらを積極的に活用しました。自分だけ得をするのではなく、みんなと喜び、悲しみも、幸福も、分かち合いたい。

「助ける」という言い方には抵抗を感じます。なんだろう……上手く言えないのですが、どこか、上から目線というイメージがしてしまいます。私は私がやれることをしている。そして相手が喜んでくれる。お互い喜びあう。そうして共に生きていきたいんです。

―5年後の自分は、どうなっていると思いますか?

私は75歳になっていますね。後継者育成をしたいと考えています。東南アジアのあちこちにろうの友人がたくさんいます。その友人たちに会い、交流し、講座も開きたいです。あとは、習字を習いたいです。でっかいのじゃなくて、細く、すらっと書くのがやりたいです。

―好きなたべものは何ですか?

カニが大好き。高級なのでなかなか食べられないのですが、出張で北海道へ行くと、私のカニ好きを知っている友人が振る舞ってくれます。最高です。

ベトナムの果物も大好きです。マンゴー、ドラゴンフルーツが本当に美味しい。一口食べたらもう手が止まりません。フィリピンではパイナップルが美味しくて大好き。あそこらへんは果物天国ですね。

―最近幸せだと思ったことは何ですか?

鹿児島へ帰省し、甥姪たちやその子どもたちと会えたとき。この教会へ来てくれる子どもたちやその孫たちと会えたとき。引っ越しや結婚で他県へ行ってしまった子が、新しい家族を連れて会いに来てくれたとき。

私には子どもがいませんが、抱っこをさせてくれる子がたくさんいます。みんなが「ひ孫がたくさんいるね」と言ってくれます。

インタビュー動画(手話)

インタビューの様子や、日常の様子をまとめたこの映像には、音声も字幕もテロップもありません。写真だけではどうしてもわからない、その人の手話の使い方に滲みでてくることばの特徴を感じてもらうためです。
たとえ手話がわからなくても、そのリズムに目をゆだねてみてください。じわりと浸透する何かが、きっとあります。「こういうふうに話す人なんだなあ」と知ってもらった上で、写真を見てもらうと、見え方がまた変わります。

Series

連載:働くろう者を訪ねて|齋藤陽道