福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【画像】室内で佇む伊藤浩平さん。髪は刈り上げて短く、グレーのフルジップスウェットにベージュのちのパンツを履いている。伊藤さんの背後にはハイテーブルがあり、ノートパソコンと外付けの大型モニタがある。【画像】室内で佇む伊藤浩平さん。髪は刈り上げて短く、グレーのフルジップスウェットにベージュのちのパンツを履いている。伊藤さんの背後にはハイテーブルがあり、ノートパソコンと外付けの大型モニタがある。

伊藤浩平さん【エンジニア】 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道 vol.23

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手話を第一言語とする「ろう者」はどんな仕事をしているのでしょうか。

連載「働くろう者を訪ねて」では、写真家であり、ろう者である齋藤陽道が、さまざまな人と出会いながらポートレート撮影とインタビューを重ねていきます。

最終的な目的は、働くろう者たちの肖像を1冊の本にすること。その人の存在感を伝える1枚の写真の力を信じて、「21世紀、こうして働くろう者がいた」という肖像を残していきます。(連載全体のステートメントはこちらのページから)

第23回は神奈川県横浜市でエンジニアとして働く、伊藤浩平(いとうこうへい)さんを訪ねました。

伊藤浩平さん【エンジニア】

【画像】室内で佇む伊藤浩平さん。髪は刈り上げて短く、グレーのフルジップスウェットにベージュのちのパンツを履いている。伊藤さんの背後にはハイテーブルがあり、ノートパソコンと外付けの大型モニタがある。

―お名前、年齢、ご職業は?

伊藤浩平です。39歳。エンジニアです。会社勤めではなく、自営。個人事業主としてやっています。

 

―出身地はどこですか。

宮城県石巻市。私がろうだとわかって家族で仙台へ引っ越ししたんです。

 

―今まで通っていた学校はどこですか。

宮城県立ろう学校(※注1)の幼稚部に通い、そのあとは難聴学級がある小学校へ。ちょっと離れていて、毎日バスで通学していました。そして中学校は地元へ。兄と一緒に通いたかったから、らしいです。あんまり覚えていないんですけど。でも中1で学校へ行かなくなりました。理由は覚えていなくて。いじめとか、そういうのはなかったんですけどね。でも、なんだろう……。見えないところでストレスが溜まっていたんでしょうね。

難聴の友人に誘われたのがきっかけで、週1は塾へ行っていました。その塾にはろう、難聴の子が何人かいたんです。勉強だけではなく、遊んだりもしました。ろうに理解がある場で、行きやすかったんです。救われたという実感もありました。

中学校にはほとんど行っていなかったんですが、高校受験では合格しました。勉強でわからないところがあったら、塾の先生に聞いたりしていたので、それが良かったのかもしれません。

でも1年で地元の高校をやめて、千葉県の筑波大学附属ろう学校(※注2)へ転入しました。父から筑波大学附属ろう学校のことを聞いて、見学しに行ったのがきっかけでした。実は、父は教師で、特別支援学校に勤めたり、ろう学校教頭の経験もあったんです。この学校に入学した時から寄宿舎生活を始め、初めて手話と出会いました。

それから、筑波技術短期大学(※注3)の情報工学専攻に入りました。そこでコンピューターやプログラミング関連の基本を学びました。

※注1:現在は「宮城県立聴覚支援学校」と改称

※注2:現在は「筑波大学附属聴覚特別支援学校」と改称

※注3:平成17年より、筑波技術大学の短期大学部に編成

 

―こどものときの夢は何でしたか。

小学校の文集でたぶん、プロ野球選手と書いたような気がします。野球を見るのは好きだったけど、うーん?どうだったかな。よくはっきりとは覚えていません。

 

―これまでの職歴は?

筑波技術短期大学を卒業したあとはヤフー株式会社に就職し、ウェブ系のエンジニアとして3年ほど働いていました。退職してからはずっとフリーランスとして活動しています。組織の中で、誰かと一緒に仕事するよりも、一人で仕事を進めるのが合っているな、と思って独立したんです。

ヤフーで働いていたときは、チャット中心で業務していました。会議ではチームメイトがパソコンで文字起こししてくれたり、データで情報を共有したりしていました。でも、何か、少し……ひっかかってしまったんです。実際の発言と文字起こしにはどうしても時間差がありますよね。そういうちょっとしたことで違和感があって。

 

―エンジニアになったきっかけは?

中学校へ行かなかった間、親がパソコンを買ってくれたんです。大きなデスクトップパソコン。ちょうど1995年で、Windows95が出たばかり。自宅でもインターネットが使える環境が普及しはじめた時代。そのパソコンのおかげで自分の世界が広がりました。特にチャットに夢中になりました。麻雀やいろんなゲームを通して、見知らぬ主婦や大学生、国家公務員など幅広い年代の方たちとチャットで交流したりしていました。うちでは家族でたまに麻雀をしていたのでルールは知っていたんです。

その中で知り合った大学生がプログラマーでもあり、自分でホームページとかを作っていたんです。「おお、いいな、私も作りたい」と思って、独学、手探りでホームページや掲示板を作ったりしていました。なので大学に入る前からプログラミングはある程度できていました。でも大学でより深くプログラミングのことを知り、それを仕事にしたいと思うようになりました。

 

―ヤフーに入社したきっかけは?

大学内での就職紹介リストにたまたまあったんです。それにヤフーは日本でインターネットが普及しだしたころから有名だったので憧れていました。

ヤフーで働いていたとき、社内コンテスト(※注4)に出場したんです。作業時間は3日間で、1日あたり8時間。合計24時間で何かを作り、それを皆さんの前でプレゼンするんです。コンテストにはチームで出ても良いんですが、私は一人で出場しました。そしたら受賞! 自分でもできるのだと自信がつきました。

2010年に独立して、今年で13年目になります。

※注4:短期集中でアイデア出しからプログラミングまで行う「ハッカソン(Hack-a-thon)」型のコンテスト。米国ヤフーではじまり、日本のヤフーでも社内イベントとして毎年開催されていた。2013年からオープンイベントになり、現在も「Yahoo! JAPAN Digital Hack Day」という名称で続いている(参考:Yahoo! Japan Hack Day「ヒストリー」ページ

 

―現在の主な仕事は?

Webサイトやアプリ制作ですね。表面的なことだけではなく、裏方的な……例えばデータベースなどサーバの構築運営保守なども手掛けています。

今は「サインアイオー」( https://signs.io/ja )というWebサービスに特に力を入れています。ゲーム感覚で日本手話を身につけ、ろうに関連する知識を学べます。このサービスをゼロから立ち上げ、リリースしました。開発だけでなく教材のための動画の撮影や編集もやっています。

ちなみに一般社団法人「しかく」( https://shikaku.or.jp/about/ )という団体の代表でもあります。「しかく」を法人化したのはサインアイオーが軌道に乗ってからですが、フリーランスになってすぐに立ち上げたのが「しかくタイムズ」( https://shikaku.in )というポータルサイトでした。ポータルサイトを立ち上げた理由の一つは、自分の実績作りのため。ただ独立開業をするだけでは仕事を取ることが難しいです。エンジニアとして何ができるのか、っていうのをわかりやすく視覚化しなければならないと思って。今となっては、いいスタートだったと思っています。

外注を受けることもあります。ヤフーを退職してすぐに、フリーランスのエンジニアのためのマッチングサイトに登録しました。いろいろあるんですよ。そこでスキルをアピールしたり、募集内容を見て私にできるかどうかを見極めた上で、仕事を請けおっていました。少しずつリピーターが増え、「またお願いしたい」という連絡もいただけるようになりました。

 

―この仕事をするとき、心がけていることは?

依頼された内容をそのまま仕上げて終わりにするのではなく、より良くなりそうな提案もするようにしています。気に入っていただけたらその提案も組み込んで仕上げて納品しています。

 

―「サインアイオー」を立ち上げたきっかけは?

しかくタイムズを立ち上げた時は「しかく手話」というコンテンツもあって、今はもう無いのですが、誰もが手話動画を投稿できるようにしていました。手話は、本だと平面的でわかりにくい。ネットなら本より立体的に見れて、何回も見返すことができます。みんなで投稿しあってネットの手話辞典をつくろうと考えていました。

でも10年くらい前はまだ、顔出しで自撮りに抵抗があったからか手話動画の投稿が全く無くて……。それなら手話動画を撮る場を作って動画を集めればいいんだと思い、交流の場も兼ねて「しかく広場」を作りました。今はもう手話動画は集めていなくて、交流の場だけが残っています。

当時の私はまだ手話に関する知識が少なくて。ろう学校で覚えた手話は、日本語対応手話だったんです。日本手話のことを知ったのは会社を辞めたころでした。妻と交際したのもそのころで、その影響も大きかったです。たくさんのろう者と出会うことができました。

日本手話にどんどん惹かれて、ちゃんとした、はっきりとしたコンテンツとして残さねば、と思うようになりました。日本手話を使う人は年々減ってきており、いつかは消滅するのではないかと危機感を覚える方が多いことにも気付きました。自分の得意分野も活かせる。それが「サインアイオー」のはじまりです。NPO法人手話教師センターや多くのネイティブ・サイナーなどに協力してもらっています。

サインアイオーの今後の課題としては、インプットだけでなくアウトプットの場も必要だということです。ネットとカメラを使用して、リアルタイムで学習者と講師が手話でやりとりしながら学んでいけるようなコンテンツも作りたい。今、開発中です。

 

―5年後の自分は、どうなっていると思いますか?

それを聞かれたら、真っ先にこどもたちのことが思い浮かびますね。二人いて、今、6歳と4歳なんです。5年後には11歳と9歳……。いや、仕事での5年後ですよね。うん。やっぱり今の仕事を5年後になっても続けたいです。私のライフワークでもある「サインアイオー」をもっと膨らませたい。手話とインターネットに出会い、救われて、今の自分があると思っています。その恩返しをしたいんです。

 

―好きなたべものは何ですか?

焼肉ですね。近所の肉屋へ行って、好きなお肉を買ってきて、自宅で焼肉とビール、これがまた美味い。

 

―最近幸せだと思ったことは何ですか?

今、自宅を自分たち夫婦でリフォームしています。どんな家になるのかをイメージしながら、自分の手で作り上げていく。それがとても楽しくて。これが最近の幸せかも。

動画インタビュー(手話)

インタビューの様子や、日常の様子をまとめたこの映像には、音声も字幕もテロップもありません。写真だけではどうしてもわからない、その人の手話の使い方に滲みでてくることばの特徴を感じてもらうためです。
たとえ手話がわからなくても、そのリズムに目をゆだねてみてください。じわりと浸透する何かが、きっとあります。「こういうふうに話す人なんだなあ」と知ってもらった上で、写真を見てもらうと、見え方がまた変わります。

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連載:働くろう者を訪ねて|齋藤陽道