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武富涼子さん・武富康久さん【八百屋】 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道 vol.09

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手話を第一言語とする「ろう者」はどんな仕事をしているのでしょうか。

連載「働くろう者を訪ねて」では、写真家であり、ろう者である齋藤陽道が、さまざまな人と出会いながらポートレート撮影とインタビューを重ねていきます。

最終的な目的は、働くろう者たちの肖像を1冊の本にすること。その人の存在感を伝える1枚の写真の力を信じて、「21世紀、こうして働くろう者がいた」という肖像を残していきます。(連載全体のステートメントはこちらのページから)

第9回は、ご夫婦で八百屋を切り盛りしてきた長崎県の武富涼子さんを訪ねました。亡くなられた夫の康久さんのお話も伺っています。

武富涼子さん・武富康久さん【八百屋】

【画像】おっとのしゃしんをもってやおやのてんないにたつたけうちりょうこさん

―お名前、年齢、ご職業は?

武富涼子(たけとみ りょうこ)と申します。58歳です。夫は武富康久(たけとみ やすひさ)。2年前に54歳で亡くなりました。バイクでの事故でした。

夫は30年間、八百屋をしていました。私も一緒に切り盛りしていた「武富商店」です。

―出身地はどこですか。

私も夫も、長崎県佐世保市で生まれ育ちました。

―今まで通っていた学校はどこですか。

私は、幼稚部から中学部までは長崎県立佐世保ろう学校へ。高等部から専攻科までは長崎県立長崎ろう学校です。

夫は中学校まで地元で一般の学校に通っていました。長崎ろう学校高等部に入り、私と出会ってから手話を覚えました。

毎朝、近隣に住む長崎ろう学校の生徒たちが佐世保駅に集まり、一緒に電車に乗って通学していました。はじめて会ったときは私が専攻科1年生、夫が高校1年生でした。通学中に手話を教えながらおしゃべりをしていました。出会ってから1年後に付き合うようになりました。結婚したのは私が26歳、夫が23歳のときです。

―こどものときの夢は何でしたか。

私はキャビンアテンダントでした。飛行機に乗って、いろんなところへ行きたかったんです。でもろう者はとても無理だろうという周りからのストップがあって、あきらめました。

夫からそういう話を聞いたことはないのですが、こどものころから電気関連、機械いじりがとても得意だったそうです。小学2年生のときに独学で、乾電池で走る車のおもちゃをつくったりと、義父からいくつかの逸話を聞いておどろいたことがあります。なので、ものづくりに興味を持っていたと思います。

―これまでの経歴、職歴を教えてください。

私は長崎ろう学校の高等部専攻科・被服科を卒業した後、洋服のオーダーメイド専門店に9年間勤めました。子どもが2人産まれ、子育ての大変さから29歳のときに辞めて、以来、家事と「武富商店」で夫のサポートに専念しました。

夫は高等部専攻科・産業工芸科を卒業した後、木工系の専門会社に就職して、家具やホテルの棚などを作っていました。ですが腰を悪くしてしまって木工の仕事を続けることができなくなり、義父が八百屋をしていたので一緒にやることになりました。幼いころからよく八百屋の手伝いをしていたので、スムーズに引き継ぐことができたみたいです。

―八百屋の一日を教えてください。

義父の代は店頭販売もしていましたが、配達だけでもう本当に忙しかったので、夫の代になってからは配達だけで営んでいました。

夫は朝5時に起床。6時に市場へ行き、競りに参加して必要な野菜を仕入れます。9時半に店へ戻り、朝ごはんを食べながら注文伝票のチェックをして、配達先ごとに野菜を仕分けます。11時になったら配達へ出発。昼の1時には帰宅。昼ごはんを食べながら追加の注文に対応、再び野菜を仕分けて、さっと配達。仕事が落ち着いたら1〜2時間昼寝をします。夕方4時にパッと起きて、取引先からの注文に対応、配達。夜7時半に晩ごはん。それから私室へ入り、趣味の時間を過ごしていました。ただし、夜9時半になると、またいろいろと注文が届きます。すぐに届けるか、翌朝に届けるかを決めて、配達。深夜の1時にようやく落ち着いて、お風呂、就寝。そしてまた朝5時に起きます。

このスケジュールを毎日毎日こなしていました。休日は年末年始の2日間だけ。息子の結婚式があったときは前もって取引先へお知らせして、配達を前日までに終えていました。

私は主に野菜の下ごしらえや仕分けを手伝ったり、経理、伝票整理など細々したものの管理をしたりしていました。夫は日本語が苦手だったので、比較的読み書きができるほうの私が頑張って、書類とか、市場や取引先への手紙などを書きました。わからないところはすぐにみんなに聞いたりしていました。

―耳が聞こえなくても市場での競りに参加することができるんですね。

競りのときは、チョークでこの緑黄ボートに金額、数、商品番号などを書いて頭の上に出して見せるんです。ハンドサインもありました。番号「68」がついているこの帽子で「武富商店」だということがわかります。製品の情報などは箱や紙に書かれているし。声を出さなくても聞き取れなくても、大丈夫そうでした。

何よりもやはり、義父の友人、仲間たちがサポートしてくださったり、見守ってくださっていました。心強かったです。たぶん見えないところでも助けられていたと思います。夫にも仲の良い、同年代の仲間が4人いました。野菜の旬に関する知識や、市場内の速報などの情報交換はもちろん、ちょっとしたゲームをしてジュースをおごりあったりしていて楽しそうでした。

―店内には何やら不思議な機械や鍋などがありますね。

野菜をそのまま配達するのではなく、下ごしらえをしてからお届けすることもしていました。たとえば……かぼちゃの飾り切りを200個。ごぼうのカット。いんげん豆を200本きっちり数えて袋詰めとか。重さを測って袋詰めをすることも、数えて袋詰めすることもあります。取引先は一本も無駄なく購入し、調理したいんですね。

この鍋ではたくさんのたけのこをアク抜きしましたよ。里芋の皮むきにはこの便利な回転釜を使ったりして。依頼内容に対して柔軟に、ちゃんと応えられるように意識していました。夫が亡くなってからは八百屋もたたみましたので、機械もつかっていません。

―どんなところと取引きされていましたか?

ホテルや料亭、結婚式場、葬式場などですね。義父の代から受け継いた取引先もいたり、そこから新しいところを紹介していただいたり。すべてご縁のおかげです。

以前、配達ミスをしてしまったこともありましたが、すぐに丁寧にお詫びをして、無事に解決することができました。気づいたらすぐに行動をして、真面目に対応する。二度と同じようなミスはしないようにしました。

―5年後の自分は、どうなっていると思いますか?

心をもっと若返りさせて、パアッと遊んでいますね。いろんな国へ行って、現地のろう者とおしゃべりをして、どんどん世界中の手話を覚えていきたいです。

―好きなたべものは何ですか?

コーヒーです。こどもたちがどこかへ旅行するたびに、「お土産はコーヒーね!」と頼んでいます。ベトナムのコーヒーはとても甘くして飲むんです。驚きました。本当に甘くって。それと、小豆あんがとても好きです。つぶあんのほうが好き。

夫の好物は肉でしたね。肉料理のときはいつも豪快に食べていました。特に牛肉が好きだったみたい。

―最近幸せだと思ったことは何ですか?

うちには娘1人、息子2人がいます。長男には2人、次男には1人のこどもがいます。別々にですが、こないだようやく孫と会えて、抱っこすることができたんですよ。びっくりするぐらい幸せでした。今度は孫3人を一度に、この両手で抱っこしたい!

インタビュー動画(手話)

インタビューの様子や、日常の様子をまとめたこの映像には、音声も字幕もテロップもありません。写真だけではどうしてもわからない、その人の手話の使い方に滲みでてくることばの特徴を感じてもらうためです。
たとえ手話がわからなくても、そのリズムに目をゆだねてみてください。じわりと浸透する何かが、きっとあります。「こういうふうに話す人なんだなあ」と知ってもらった上で、写真を見てもらうと、見え方がまた変わります。

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連載:働くろう者を訪ねて|齋藤陽道