福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】室内に木製の機織り機がたくさん並んでいる。画面中央に池田さん夫妻が立っている。左側が夫、右側が妻。ふたりとも白い半袖のTシャツを着ていてメガネをかけている。夫は黒いハーフパンツにしましまの靴下、妻はデニムパンツで素足。【写真】室内に木製の機織り機がたくさん並んでいる。画面中央に池田さん夫妻が立っている。左側が夫、右側が妻。ふたりとも白い半袖のTシャツを着ていてメガネをかけている。夫は黒いハーフパンツにしましまの靴下、妻はデニムパンツで素足。

池田幸雄さん、池田ヤヲ子さん【織物職人】 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道 vol.42

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手話を大切なことばとして生きる「ろう者」はどんな仕事をしているのでしょうか。

連載「働くろう者を訪ねて」では、写真家であり、ろう者である齋藤陽道が、さまざまな人と出会いながらポートレート撮影とインタビューを重ねていきます。

最終的な目的は、働くろう者たちの肖像を1冊の本にすること。その人の存在感を伝える1枚の写真の力を信じて、「21世紀、こうして働くろう者がいた」という肖像を残していきます。

(連載全体のステートメントはこちらのページから)

第42回は鹿児島県奄美大島(あまみおおしま)で織物職人として働く池田幸雄(いけだ・ゆきお)さん、池田ヤヲ子(いけだ・やをこ)さんのお二人を訪ねました。

池田幸雄さん、池田ヤヲ子さん【織物職人】

【写真】室内に木製の機織り機がたくさん並んでいる。画面中央に池田さん夫妻が立っている。左側が夫、右側が妻。ふたりとも白い半袖のTシャツを着ていてメガネをかけている。夫は黒いハーフパンツにしましまの靴下、妻はデニムパンツで素足。

ーお名前、年齢、ご職業は?

池田幸雄と申します。よろしくお願いいたします。年は78歳。奄美大島の工房で20年間ぐらい織物をしていました。(以下、「幸雄」と表記)

池田ヤヲ子と申します。77歳です。27年間ぐらい男性用の大島紬を織っていました。父から受け継いだんです。(以下、「ヤヲ子」と表記)

―出身地はどこですか。

幸雄:鹿児島県霧島市。手話では開いた両手を重ね、霧を表現するように少し揺らして「霧島」とあらわします。

ヤヲ子:私は奄美大島の笠利町です。近くにリゾートホテルの「ばしゃ山村」があります。

 

―今まで通っていた学校はどこですか。

幸雄:小学1年生から高校3年生までずっと鹿児島県立鹿児島聾学校。

ヤヲ子:私もです。最初は地元の小学校に1年間通っていたんですが、母の判断で鹿児島聾学校へ転校しました。もういっぺん小学1年生からスタート。ろう学校に通ったおかげで読み書きができるようになったので、良かったです。

 

―こどものときの夢は何でしたか。

幸雄:夢はなかったです。そうそう、高校のときは県外で働いてみたいなと思っていました。

ヤヲ子:中学生のとき、大阪で働いてみたいなって思っていました。洋裁だったかな。

 

―これまでの職歴は?

幸雄:高校で大工の技術を教わったので、卒業したらそういった仕事をするのかなと思っていたんですが、神奈川県・横浜の電車の部品を作る会社に入っちゃったんです。次は神奈川県・川崎の研磨工場。その次は理容師。そして大阪のメッキ・鉄工場。
奄美大島へ帰ってから、20年ぐらいずっと織物工房で働いていました。工房が成り立たなくなってからは、配送会社に入り、配達員をしていました。手話講師として月に1回、沖永良部島(おきのえらぶじま)へ行っていた時期もありました。

ヤヲ子:期間はそれぞれ短かく、いろんな仕事をしてきました。最初は奈良で帯に刺繍を入れる仕事。奄美大島に帰り、母から織物を習って織物職人になりました。でもその後、兵庫・神戸のゴム・靴工場へ入社。また奄美大島で織物を。その次は大阪のONWARDというアパレルメーカーでたくさん服を作ったりしていました。それで、また奄美大島で織物。
夫とは大阪で出会ったんです。どの仕事も自分に合わなくて、結局、織物の仕事が長く続いたんですね。全部合わせると30年ぐらいかな。工房の経営が難しくなったあとは、魚をさばいたり仕分ける仕事に転職しました。

 

―織物の技術はどうやって身につけましたか?

幸雄:義父からすすめられたのがきっかけです。大島紬には工程がいくつかあり、どれも難しいものです。私は最初の工程、「締機(しめばた)」を担当していました。
まずは先輩に工程を教えてもらいます。ですが、聴者から織物の技術を学ぶのはとても大変でした。言葉が通じないので、うまくコミュニケーションができなくて。なんだろう、こうやるのかな、なんだろう……と戸惑いっぱなしでしたが、真剣にやり方を見て、織り続けました。
私の織り方を見た義父から「1年で独り立ちすることができる」と言われました。頑張ってやってみたら、5ヶ月で独り立ちすることができました。

ヤヲ子:私は両親が織物職人だったので、幼いころから見たり、教えてもらったりして自然と技術が身につきました。担当は「本織り」。機織り機(はたおりき)は工房から無料で借りられます。ちなみに一番上の姉が商人で、私たちが織り上げた物をあちこちへ売りに行ってくれていました。

 

―他にろう者の織物職人はいますか?

幸雄:昔は何人かいました。ほとんど「本織り」だったね。

ヤヲ子:他のろう者も親から教わっていましたね。

 

―織物の仕事はどうでしたか?

幸雄:織り方は9マルキ(※注)、7マルキ、5マルキ、いろいろあります。私は7マルキがやりやすくて好きです。

※注「マルキ」: 縦糸の絣の数を示す単位が使われる。数字が大きいほど細かくて高級とされる。

ヤヲ子:私は母のような凝った模様ではなく、2、2、2というような並びのシンプルな模様を好んで、男性の着物になる反物を織っていました。織ったものを納品して、検品、審査をされ、合格したら賃金がもらえます。不合格とされるものもありますが、私はありませんでした。

幸雄:親方が注文を受けて、整理、仕分けされたものが私のところにやってきます。とある工程を他の職人に依頼することもあります。妻にお願いすることも。

ヤヲ子:そうそう。もう仕方がないなあ、とやってあげたり。

幸雄:「締機(しめばた)」で使う縦糸、横糸の素材は違うんですよ。絹と綿。大島紬は絹100%でできています。染めたくない部分を作るために、綿糸で隠すんです。その作業をやるのが私の「締機(しめばた)」。それで織ったものを染めていくんです。
細かく話すと難しくなっちゃう。見た方がいいね。奄美大島紬村に詳しいことが展示されているからあとで見に行きましょう。私たちが使っていた機織り機と同じものも展示されています。

ヤヲ子:賃金は、若いころは1点2万ぐらいでした。結婚した後、復職したときは6万5000円ぐらい。幅が広いものは12万円ぐらい。でも安価で買える洋服が普及してくると、だんだんと賃金が安くなってきて、つらくなり、工房がなくなってしまいました。それで私たちは別の仕事を始めたんです。

幸雄:つらいといえば、仕上がったものを見直して、間違えたところを見つけたとき。悔しがりながら全部ほどいて、最初から織り直しました。「本織り」のひとから「これは使えない、売れない」と指摘されたこともありました。あと、織物を始めてから視力が落ちたね。

 

― 5年後の自分は、どうなっていると思いますか?

幸雄:就労継続支援A型事業所や、B型事業所とかで働いてみたい。家でじっとしているよりも、外へ出て働きたいです。

ヤヲ子:家での趣味があるからそれを楽しみたいな。裁縫でものづくりをするのが好きなんです。服、ぬいぐるみ、かざりもの。あそこにあるつるし飾りも私が作りました。姪っ子に服を作ってあげたりもしています。

 

―好きなたべものは何ですか?

幸雄:長崎ちゃんぽんが好きです。やわらかいほうね。

ヤヲ子:魚かな……。そういえば前に夫が釣ってきたタコを長く茹でてしまい、固くなってしまったことがあります。短時間で十分なのよね。母はお茶っ葉も一緒にゆでていました。綺麗な赤いタコになるんです。鹿児島のタコのほうが綺麗な赤色になる。奄美大島のタコとはちょっと違う。

幸雄:そういえばうどんをつかう料理が多いよね。

ヤヲ子:そうそう、讃岐うどんが好きです。お土産で香川の讃岐うどんをいただいてからハマりました。

 

―最近幸せだと思ったことは何ですか?

幸雄:猫が大好きでね、もう可愛いの。猫がそばにいると幸せになります。前に飼っていたんだけど、亡くなっちゃって。また飼いたいな。妻に提案したんだけど断られちゃって。

ヤヲ子:だって前、20匹ぐらいに増えちゃったでしょ。もういいわよ。

幸雄:そうそう。あのときは慌てちゃったなあ。周りの人に譲ってなんとかなったね。

動画インタビュー(手話)

インタビューの様子や、日常の様子をまとめたこの映像には、音声も字幕もテロップもありません。写真だけではどうしてもわからない、その人の手話の使い方に滲みでてくることばの特徴を感じてもらうためです。たとえ手話がわからなくても、そのリズムに目をゆだねてみてください。じわりと浸透する何かが、きっとあります。「こういうふうに話す人なんだなあ」と知ってもらった上で、写真を見てもらうと、見え方がまた変わります。

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連載:働くろう者を訪ねて|齋藤陽道