福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】白い壁の室内で椅子に座って正面を見ている岡本ゆうすけさん。黒いニットベストの下、ボーダーの襟付きシャツをきて、デニムパンツに白いスニーカーを履いている。髪は白髪で膝の上に手を載せている。【写真】白い壁の室内で椅子に座って正面を見ている岡本ゆうすけさん。黒いニットベストの下、ボーダーの襟付きシャツをきて、デニムパンツに白いスニーカーを履いている。髪は白髪で膝の上に手を載せている。

岡本祐輔さん【戦争・原爆語り部】 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道 vol.44

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手話を大切なことばとして生きる「ろう者」はどんな仕事をしているのでしょうか。

連載「働くろう者を訪ねて」では、写真家であり、ろう者である齋藤陽道が、さまざまな人と出会いながらポートレート撮影とインタビューを重ねていきます。

最終的な目的は、働くろう者たちの肖像を1冊の本にすること。その人の存在感を伝える1枚の写真の力を信じて、「21世紀、こうして働くろう者がいた」という肖像を残していきます。

(連載全体のステートメントはこちらのページから)

第44回は広島県広島市で戦争・原爆にまつわる語り部として働く岡本祐輔(おかもと・ゆうすけ)さんを訪ねました。

岡本祐輔さん【戦争・原爆語り部】

【写真】白い壁の室内で椅子に座って正面を見ている岡本ゆうすけさん。黒いニットベストの下、ボーダーの襟付きシャツをきて、デニムパンツに白いスニーカーを履いている。髪は白髪で膝の上に手を載せている。

― お名前、年齢、ご職業は?

岡本祐輔です。95歳。昭和5年生まれです。前は理容師をしていました。今はのんびりと家で過ごしています。手話サークルへ行って、みんなとおしゃべりしたりしています。依頼があれば戦争や原爆の講演もしています。

― 出身地はどこですか。

北海道夕張市で生まれ、山口県防府市で育ちました。父は炭鉱で働く人で、炭鉱がある町を転々としていました。

昭和5年に生まれて、1年経ったときに高熱を出して、それが原因で耳が聞こえなくなったそうです。その年の11月に炭鉱での爆発事故で父が亡くなりました。当時38歳でした。父を含めて、65名が亡くなった大事故でした。それから我が家は山口県に引っ越したんです。

母がろうである私を隠したかったらしく、田んぼだらけのところに家を建てたんです。それでもちょっと大きくなったら近所の子たちと遊ぶようになりました。駄菓子屋で他の子の真似をして、お金を払わずお菓子を持ち出してしまったこともありました。二回目のときに捕まり、しっかり叱られました。そのあと母と謝りに行ったのもはっきり覚えています。

― 今まで通っていた学校はどこですか。

広島県立広島ろう学校(※注)です。数え年で8歳のときに入りました。昔からあるろう学校で、予科1年、初等部6年、中等部4年までありました。

寄宿舎もあります。ひと部屋に8人が過ごしていました。4人部屋もありました。

ろう学校に入って、最初の1年間は発音訓練をしていました。家に帰ったとき、「頭」「耳」「おじさん」などを声で言うと、母やおじさんが喜んでくれました。ご褒美としてお菓子やお金の50銭をもらえたので嬉しかったです。

※注:2007年 広島県立広島南特別支援学校に校名を変更

― こどものときの夢は何でしたか。

母にすすめられて、ろう学校では理容科に進みましたが、木工を習ってみたかったなと最近思います。

― これまでの職歴は?

理容師をしていました。弟子として住み込みで7年間働き、それから友人と自分のお店を立ち上げました。元々は本屋だったところで、戸が開けられないほどの古い建物でした。広さは8畳ぐらいだったかな。できるところは自分で壊して直して、難しいところは職人に頼んで、修繕をしていきました。

近所へ挨拶をして、開店したのですが、最初はまったくお客さんが入らなかったです。どうしようかと思いました。「岡本理容」という看板を出したら、やっとお客さんが来てくれました。それから少しずつ増えていきました。親子で来てくれたり。

どんな髪型でも、お客さんの要望通りに丁寧に切りました。でも女性で刈り上げを依頼されたときはびっくりしましたね。

― 戦争のことを話す活動をはじめたきっかけは?

60歳ぐらいのときだったかな。戦争の話をしてほしいという依頼があったんです。奈良、大阪、和歌山などのろう学校の中学生や高校生が修学旅行で広島へ来る。そのときに広島原爆のことや戦争の話を聞かせてほしいというので、話しにいきました。気づいたらそういう依頼が増えました。北海道のろう学校の生徒にも会いました。

その生徒たちが質問したいことやわかったことを紙に書いていたんです。上手に書けていてびっくりしました。すごいです。

戦争や被曝についての講演をしていたろう者は何人かいましたが、高齢のために亡くなられています。

― 戦争のお話をお聞かせください。

昭和16年12月8日、ハワイで日本軍による攻撃が成功して、戦争が始まりました。太平洋戦争です。周りも学校もピリピリとした雰囲気になり、服装が少しでもみだれていたら叩かれました。

昭和20年4月になって、戦争がますます激しくなってきたので、こどもたちは田舎の方に疎開しました。私は吉田町(広島県安芸高田市)へ行きました。ろう学校のこどもたちは疎開するかどうするかを選ぶことができ、希望者だけが疎開しました。

吉田町へ行くと、そこには農業学校とお寺がありました。農業学校を仮の学校として通い、お寺で生活をしていました。お寺にはろう者、ろう生徒だけがいました。

昭和20年8月6日の朝、外へ出るとピカッと光りました。ピカッ。本当に一瞬だけ。あわてて光った方向を見に行くと、遠くで指1本分の煙が高く立ち上がっていて、上の方ではモクモクと広がっていました。周りの建物の窓ガラスがブルブル震えていました。爆発の衝撃で震えていたんでしょう。聞こえる人には音も聞こえたそうです。

学校へ向かい、着いたころには煙が指3本分の太さになっていて、上の方の煙はもっともっと広がっていて、遠くの方へ流れていました。

昼の2時半ころにトラックがたくさんやってきて、吉田町の病院にたくさんのムシロが敷かれて、ケガをした人が続々と運ばれてきました。とてもすごい匂いでした。動ける人はみんな、水を持っていったり、助けたりしていました。この人たちはどこから来たんだろう? と聞いてみたら「広島市から」。びっくりしました。亡くなってしまった人は火葬されていました。

お寺へ行って「みんなが無事でありますように」と仏様に拝みました。一生懸命に拝みました。お坊さんが木魚をたたいていました。

しばらくして、手紙が届きました。読めない字で書かれていたので先生に読んでもらい、母と姉が無事だということがわかったんです。姉は青崎小学校にいる。

8月14日、自分を含めて、広島市へ行きたいという5人の生徒、そして1人の先生。この6人で朝4時に出発しました。まずは吉田口駅へ向かいました。暗い山道をじっくりと歩き、歩き、登って、下って、やっと駅に着いて、汽車に乗りました。矢賀駅で降りて、またそこから歩きました。矢賀駅の先は線路がなくなっていたからです。

歩けば歩くほど、崩れた家が少しずつ増えていって、だんだんと崩れ方がひどくなっていって。そしてぺちゃんこになった家だらけになりました。ぼうぜんとしました。私の家もすっかり無くなっていました。

広島ろう学校は、原爆が落ちたところから2.7キロメートルにありました。校舎や寄宿舎は潰れていました。原爆でろう学校にいた16人が亡くなりました。

青崎小学校で母と姉と再会することができました。姉を見て、名札がなかったら見つけることは難しかっただろうなと思いました。

また歩いて、汽車に乗って、歩いて、疎開先の吉田町へ戻りました。夜の11時を過ぎていて、真っ暗でした。

一晩眠り、起きて、みんなに広島市の状況を伝えました。家族の安否がわからない人も多くいました。「夫は兵隊として戦地へ行き、家は原爆で無くなるなんて」と悲しむ人もいました。

昭和21年、ろう学校で卒業式が行われました。卒業生は2名でした。昭和22年には、建て直された広島ろう学校の校舎で卒業式をすることができました。

※参考: 吉田町ー吉田口駅 約6.6km 徒歩 約1時間半
矢賀駅ー爆心地(広島原爆ドーム)約4.5km 徒歩 約1時間

― 広島市にいたお母様とお姉様は無事だったんですね。

はい。母と姉の話を聞くと、B-29という航空機がやってくる音がして……去っていったみたいだなと思ったら原爆が落ちてきたそうです。

原爆が落ちたとき、母は建物の影にいて無事でした。原爆の光には当たらなかったみたい。

母は倒れてきた建物の下でしばらくじっとしていて、這い出ると周りは多くの人が倒れていました。「娘はどこにいるのか」と探して、探して……。3日後、ひどい混乱のなかで、青崎小学校に着き、姉を探しました。服についていた名札で姉を見つけたんです。

横になっていた姉はケガだらけで、ハエがたかっていました。母は自分の子を助けたい一心でなんとかきれいにして、看病をしていました。姉のリハビリや生活の立て直しには時間がかかりました。姉は顔にもケガをしましたが、お尻や足の皮膚を移植して、きれいに治りました。姉は18年前に86歳で亡くなりました。

― なぜ戦争のことを語り継ぐ活動をしているのでしょうか。

戦争のことは伝え継ぐべきだと思っているからです。つらい事実ですが、隠してしまっては意味がありません。私が伝え継ぐことで、今と昔の違いを知ってほしい。興味を持つきっかけとなったら。

戦争や原爆は本当に恐ろしいものです。再び起こってはいけません。傷つく人が増えるだけ。原爆を作るのは止めてほしい。兵器も作って欲しくない。

広島では平和のために活動をしている人が多くいますが、世界はどうなんでしょうか。毎年8月6日になったら、戦争のことを思い出してほしいです。

しまった、とおもったら謝らなきゃ。だんまりしたり、無視したり、逃げてはいけない。気づいたらすぐに、伝えてほしいです。

広島県ろう学校に「被爆ろう者を偲ぶ碑」があります。ぜひ見に行ってみてください。誰でも見ることができます。

平和記念公園の中心にある「原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)」の石室には確認された全ての被爆死没者の名簿が書かれています。その中にろう者もいます。

― 5年後の自分は、どうなっていると思いますか?

いやあ、わからないけど、遊んで楽しく過ごしたいですね。

― 好きなたべものは何ですか?

寿司です。特にマグロがすきです。なんでも好き。嫌いなものはありません。あ、苦手なものはイカの塩辛です。ナマコは好きなんだけど、イカの塩辛はダメですね。美味しそうに食べている友人が不思議に見えます。

― 最近幸せだと思ったことは何ですか?

月1回のサークルで麻雀があり、大好きで楽しみにしています。60歳で1回やめたんだけどね。麻雀仲間がズルをして。まあ、いい友達や悪い友達もいるんだけど、それぞれいいところもあるから。

あとは競馬かな。今は年をとって仕事をしていないから資金がなくてね、G1だけを楽しみにしています。
そして毎日の晩酌と知人との食事会、これが一番の楽しみです。

動画インタビュー(手話)

インタビューの様子や、日常の様子をまとめたこの映像には、音声も字幕もテロップもありません。写真だけではどうしてもわからない、その人の手話の使い方に滲みでてくることばの特徴を感じてもらうためです。たとえ手話がわからなくても、そのリズムに目をゆだねてみてください。じわりと浸透する何かが、きっとあります。「こういうふうに話す人なんだなあ」と知ってもらった上で、写真を見てもらうと、見え方がまた変わります。

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連載:働くろう者を訪ねて|齋藤陽道