さまざまな側面をもつ「わたし」と「あなた」をそのまま大切にするには? 美学者 伊藤亜紗さんを訪ねて こここスタディ vol.01
会社では営業担当だけど、プライベートでは当然違う。実家にいるときは子どもだけど、行きつけのバーでは全然違う名前で呼ばれてる。社会に生きるわたしたちは、いろいろな「わたし」を生きています。
誰もが、無限に広くて、底なしに深い。だから、雑にカテゴリ分けされたり、レッテルを貼ってこようとする人に出会うと無性に居心地が悪くなる。わたしもあなたもそのまま、“無限”なまま、個と個で出会えたらきっともっと楽しいだろうに。
東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院准教授の伊藤亜紗さんは、さまざまな身体をもつ人とともにその身体について研究を続けています。
Aさんの身体のことを、Aさんがよく知っているわけではないじゃないですか。私もAさんも知らないAさんの身体について、言語を使って一緒に研究しましょうということなんです。(中略)いかに早く「わからないところ」にいくか。「早く一緒に“沼”に落ちよう」みたいな。
さまざまな身体をもつ共同研究者たちと、一緒に“沼”に落ちるということ。そこには、個と個で出会うことのヒントがありそうです。「個と個で出会うために大切なふるまい」について、亜紗さんにお話を訊きました。
固定的な役割を演じさせてしまわないために大切な「個人の中の多様性」
—亜紗さんの著書『手の倫理』で「一人の人の中にある多様性」について書かれていたのが印象に残っています。その視点を意識しはじめたきっかけはなんだったのでしょうか。
研究において相手が無意識的にしていることを追いかけたいので、見えている面ではなく、見えていない面を探ろうという意識は常にあったと思います。もうちょっと社会的な意味で意識するようになったのは、「多様性」「ダイバーシティ」という言葉が流行っている中で、障害のある人がそういった言葉を使わないのが興味深くて。
彼らはむしろ困っているんですよね。障害者と安直にラベリングされて、固定的に見られることによって、常に障害者を演じさせられてしまう。そうではないやり方で多様性を考えるとき、それぞれ多様な側面を無限に持っていること、つまり「一人の人の中の多様性」の視点が大事なのではないかと思いはじめました。
—多様な側面があると思えれば、どの側面から関わっているのか、関われるのか、お互いに選択肢を持つことができる、と。
それって普段やっていることですよね。知人で、障害のある人と、人生相談をしたり、一緒にたこやきを焼いたりしていたら、障害者というラベルを外した部分に出会っていて、障害者であることは忘れます。「あっそういえばこの人、目が見えなかった」って。
—たしかに、何気ない時間を一緒に過ごすことによって、相手の別の側面に出会うことってありますね。
舗装された道路ではなく、未知の「沼」で一緒に話をする
—「見えていない面」を探るために、何か出会い方で工夫していることはありますか。
特には……。でも、やっているのかな。常に隙を突こうとはしていて。インタビューって言ってしまうと相手の方はいろいろ用意してきて下さっちゃうんです。それはすごいありがたいんですけど、用意してきたことって、その人の中ですでにわかっている話だから、おもしろくないんですよね。向こうにとっても、思いがけない出会いにならない。
一期一会って言葉がありますけど、一回きりの接触って、準備してきたことの範囲内では起こらないと思うんです。接したことによって自分も相手も変わっていないと、その接触の感触が残らない。だから、用意してきてくれたものじゃないところをいかに突くかみたいなことを考えていて。
たとえば視覚障害のある知人と待ち合わせしたときに、そのときの相手の立ち姿について「重心が身体の中心にあるんだね」とか言う。そんなこと言われても相手は困ると思うけど、その人の世界に対する警戒心とか無意識的なものがそこに表れていると思ったんです。そういうところから準備してきたものが壊されていくので。
—たしかに、自分がそんなふうに言われたらびっくりしつつも、気づきがあって新鮮かもしれません。
インタビューの時間に得られる情報って大したものではなくて、むしろ待ち合わせや、行き帰りの時間のほうが豊かなんです。そもそもインタビューとはあまり思ってなくて。研究者と研究対象という関係にしてしまうと一方的な関係になってしまうので、「共同研究者」として接しているんですよね。
たとえばAさんの身体のことを、Aさんがよく知っているわけではないじゃないですか。私もAさんもよく知らないAさんの身体について、言語を使って一緒に研究しましょうってことなんです。
Aさんの身体でもあるけど、最終的には人間の身体のひとつの例として考えたい。身体のもつ可能性を一緒に研究しようとしているんですよね。だから、いかに早く「わからないところ」にいくか。「早く一緒に“沼”に落ちよう」みたいな。
—舗装された道路を一緒に歩くのではなく、未知の「沼」で話をすると。
そうですね。普段のコミュニケーションは、すらすらしゃべれることがいいことだと思われているけど、そうではなくて「ここは言葉に詰まりながら、言葉を探す場所です」と最初に共有したいんです。隙を突くことでちょっと言葉に詰まらせて、本人も意識していないところに一緒に行く。だから会議でもインタビューでもなく、「共同研究」なんです。
いいメタファーが見つかると、自分の身体への関わり方が見えてくる
—でも、実際に初対面の人と一緒に沼に落ちるって、なかなか難しいような気もします。亜紗さんがそのために大事にしていることってありますか。
方法論的に意識したことはありませんが、 いつもおもしろいなと思うのはやっぱりメタファー(=隠喩)なんですよね。その人が使うメタファーに、その人の物事の考え方などがぎゅっと凝縮されている気がしていて。メタファーって、文学では修飾の意味合いが強く、本質じゃないと思われていますが、実は本質だと思うんですよ。
たとえば、吃音のある知人が「(自分の身体を)果汁100%のちっちゃいゼリーのちっちゃい蓋を開けるような感じで扱っています」みたいなことを言うんです。本人は無意識的にそう言っているけど、この言葉に情報が凝縮されていると思っていて。
なんで果汁100%なのか、 開けているのは誰なのか、失敗したらどうなるのか……とか。本人はすでに答えをつかんでいるけど、その背後にあるものは自覚していないので、そこを掘っていくといろんなことが見えてくるんですよね。その人のメタファーの上で会話をしていくと、さっき話したような沼に行けるというか。
—果汁100%ですか。開けるときの期待感のようなものもありますよね。
きっとそうですよね。ちょっと高級じゃないですか。扱いに困っているけど、決して身体を粗末にはしていない、何か大事なものとして扱っているんだなってことがわかるし。みなさんそうやって、さまざまな状態を表現する言葉を探してくださるんです。
—メタファーは、それをきっかけにいろんなことを知っていく装置なんですね。
そうですね。メタファーは、世界を表現すると同時に、世界にアプローチする武器にもなると思うんです。政治家ってよくメタファーを使いますよね。
新型コロナウイルスの流行を「戦争」というふうに語ることで、マッチョな政治家として振舞う人もいれば、環境破壊によって難民になったウイルスが新しい住処を求めて人間のところにいるという意味で、ウイルスは「引っ越し」をしているんだと語る人もいる。同じ現実でも、意識が全然違うと思うんです。
ー前者と後者では、コロナに対する対応も変わってくるように思います。
メタファーは現実的な力を持っている。身体に関するいいメタファーが見つかると、自分の身体への関わり方が見えてきたりするんですよね。
人間は常に複数のメッセージを伝えているはず
—ひとりの人間の中に多様性があることを意識していても、相手をラベリングしてしまうことや無意識の偏見から完全に解放されるってかなり難しいことだと思うんです。一体何がハードルになっているのでしょうか。
見た目は大きいですよね。説得力があるとかないとか、強そうだ・弱そうだみたいな、ビジュアルの情報ってどうしてもあるじゃないですか。
でも、それがオンラインになることによってちょっと変わっている。最近大学の講義がZoomになりましたが、学生の顔が見えない(学生はビデオをオフにしている)ので、ビジュアルによって相手を判断してしまうことからだいぶ解放されたんですよね。
たとえば、授業中に「この作品どう思う?」と問いかけると、学生がそれぞれの意見をチャットに書き込んでくれるんです。そのチャットを見て、この考えおもしろそうだなと思う学生を当てると、ビデオをオンにして書いたことについて説明してくれるんですね。
そこに出てくる顔がいつも意外なんですよ。リアルだったら当てていないかもしれない子が出てくるんです。リアルだと、おもしろいことを考えてそうなオーラが出ている子をつい当ててしまう。でも当然、そういうオーラが出ていない子もものすごく広い世界を見ている。そういうのは見た目に左右されなくなった今だからこそ発掘できた可能性で、オンライン授業になって一番よかったことだと思っています。
—今、きっと世界中で起きている事ですよね。
そうですよね。学生も多分そうだと思うんですよ。先生の顔は見えるけど、背の高さとかはわからないですよね。この前、学生が私の似顔絵を書いてくれたんですけど、下半身が動物だったんですよ。ケンタウロスみたいな。「下半身がこれじゃないという保証はないですよね」って(笑)。
授業時の背景を草原の画像にしているので、その学生のイメージでは私の下半身は馬。そう思いながら授業を聞いているのと、リアルに相手を見ているのとでは、聞こえ方が全然違うと思うんです。動物に講義されるって、どういうことなのか知りませんけど(笑)。
でもZoomでの会話はそのぐらいお互いのリアリティに関して、不確かですよね。その不確かさはさみしくもあるけれど、同時に今まで何に縛られていたかを意識する状況にあると思います。
—不確かさが人を解放する。一方で、不確かさは効率を優先すると、排除されてしまうものでもあると思います。不確かなのは、時間がかかるというか。
不確かさを増やしたほうが、実は効率がいいこともあると思うんです。いろんなところで言ってる話なんですが、Zoomの画面は縦長にしたほうがいいんじゃないかと。横長だと顔しか映らないけど、縦なら手が映りますよね。
さっきの話で言えば、顔が道路で、手が沼なんです。顔の表情は、本人が意識して作っているけど、手は無意識的に動いていて、その手も含めて人とコミュニケーションをしたほうがいいと思うんですよね。
たとえば、肖像画ってよく顔と手が分裂しているんです。レオナルド・ダ・ヴィンチの『白貂を抱く貴婦人』は女性がちょっと横向いていて、顔はクールなんですけど、手にはすごく力入ってるんですよ。だから怖いんですよね。その分裂によって、異なるメッセージを伝えている。
人間って常に複数のメッセージを伝えていて、それをなんとなくキャッチし合いながらコミュニケーションをしているんです。確かなものだけだと逆に不安になる。ニュアンス込みで伝えた方が結果効率的というか。
—なるほど。Zoomはたしかにリアルに比べて不確かな部分が多いけれど、リアルがもつ不確かさを排除している部分もありますね。
常にまったく演技のない状態で人と関わる必要もない
—ラベリングしてしまうことついてもうひとつ伺いたくて。自分が相手を決めつけてしまうのと反対に、自分が自分をラベリングしてしまうことってあると思うんです。
そうすると相手もそれをキャッチして対応してくれて、ふたりの関係が、自分が作ったラベルのもとに固定化されてしまう。そういう連鎖から解放されて、個と個で出会うためにはどんな考え方があるんだろう、ということをお聞きしたかったんです。
それってもしかしたら他者を見くびっているかもしれないですよね。「自分は自分のイメージをコントロールできていて、他者はそのコントロールされた自分を見てる」って。でも、たとえばZoomで自分の顔を見るようになって、自分を嫌いになった人って多いと思うんです。「思っていたのと違う」って。ずっとその顔だよって感じですけど(笑)。
実際、相手は常に自分の意識できていない部分も見ているんですよね。だからなにしても無駄というか。大丈夫、安心して演じていいんだと思いますよ。(お笑いコンビ)「パックンマックン」のパックンさんがうちの大学で講師をしているんですけど、彼は授業に大学生のような格好で来るんですよね。テレビに出るようなちゃんとした格好で授業に来ると学生が黙っちゃうからだそうです。
服装については私も一時期悩んで、Tシャツで行ってみたり、すごいかっこいい格好で行ってみたり、試行錯誤しました。でもそれも含めてメッセージというか。かっこいい格好をしていても、私が模索していること込みで学生は受け取っていたりして、そこに逆にシンパシーをもつこともあるので。
演技も込みでいろんな実験をしていくのが重要だと思います。常にまったく演技のない状態で人と関わる必要もないと思うので。
—なるほど。個と個というのは、ラベリングを避けて、必ずしも裸と裸である必要はない。演じる行為のなかにも、共感や同情などのシンパシーが生まれる、ということに今、コミュニケーションの希望を感じました。
罪深い。でも、だから、継続して関わる
—自分が「個と個で出会いたい、相手のさまざまな面をまるごと受け入れたい」と思っていても、相手は「表面上のコミュニケーションで済ませたい」と思っているかもしれない。その場合、相手にいやな思いをさせてしまう危険性もあります。
難しいですよね。精神科医の宮地尚子さんがコミュニケーションの話の中で、「人を耕すこと」とおっしゃったんです。すごいそれがピンと来て。人と関わるって、その人の耕されていない硬くなっている部分を耕すわけですけど、耕すって、尖ったものでキーッと引っ掻くことですよね。それが精神科では、トラウマや固くなった記憶を柔らかくするということなんですけど、教育の場だと難しい。
たとえば、「感動」とかも近いと思うんですよ。人を感動させるって、人を揺さぶって相手を不安定な状態に置くので危険ですよね。耕すにはなんらかの痛みと破壊を伴うことが必要になると思うんだけど、それは場合によっては相手を傷つける危険を伴っています。私が接してきた学生の多くは人の心を動かしてしまうことに対する警戒心が高くて繊細です。だから、耕しにくくなっているのは事実なんですよね。
—感動って、激情ですもんね。相手によってはショッキングな出来事になってしまう。
人を傷つけてしまうある種の「鈍感さ」みたいなものには、もちろん対抗しなくてはいけないのだけど、それが実はお互いの壁を高くすることになりかねない。「耕さないでくれ」って、どんどんみんな固くなっていくこともあると思います。やっぱり心の中には自分で耕せないところってあるんですよね。耕せばそこにいろんな作物を育てられるし、育ったものを人に与えたりできる。そっちも大事だと思うんですよね。
—まさにそうですね。お互いを耕すにあたって気をつけるべきことってどんなことだと思いますか。
最初に、信頼関係をちゃんと作るっていうのは大事ですよね。一緒にゲームなどをすることで相手との線引きが変わってくるかもしれません。あとは、耕した時のその土の感触とか感じなくてはいけないということだと思うんですよね。ちょっと踏み込んでみて、相手がどういう反応するか、見てなくちゃいけない。
さっきお話ししたように、インタビューでも無意識的なところを突きたくなるんだけど、ちょっと突いてみてその人が嫌がったらそれ以上突くべきじゃないし、逆にほぐれたらもっといっていいのかもだし。『手の倫理』でまさに倫理って書いたところなんですけど、その人の出方、反応を伺うってことなのかなって思うんです。やっぱり本当に人によって違うから。難しいですけどね、表面に出ない人もいるから。
—そうですね。でもだからこそ、“ちゃんと”見る、と。
自分も人を傷つけたと思います。うまくいっている人に対して「それ、どうやってやるの? できてる?」と問い続けるような研究なので、実際かなり影響を与えているはずです。罪深い。でも、だから、なるべく継続して関わるようにしています。変わっていくことにも向き合うというか、一緒に見ていけたらいいなと思っているんです。
Information
・伊藤亜紗さん著書『手の倫理』(講談社選書メチエ)
・伊東亜紗さん、村瀬孝生の著書『ぼけと利他』(ミシマ社)2022年9月15日発売!
・伊藤亜紗さん新著『体はゆく──できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』(文藝春秋)発刊!
・伊藤亜紗さんウェブサイト
Profile
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伊藤亜紗
東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長/東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授/東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース教授
専門は、美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次に文転。障害を通して、人間の身体のあり方を研究している。2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野を単位取得のうえ、退学。同年、同大学にて博士号を取得(文学)。学術振興会特別研究員をへて、2013年に東京工業大学リベラルアーツセンター准教授に着任。2016年4月より現職。主な著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社、2013年)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社、2015年)、『눈이 보이지 않는 사람은 세상을 어떻게 보는가 』(2016年)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版、2016年)、『どもる体』(医学書院、2018年)、『記憶する体』(春秋社。2019年)、『手の倫理』(講談社、2020年)、同時並行して、作品の制作にもたずさわる。
- ライター:伊藤 紺
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歌人/ライター、コピーライター。1993年生まれ。2019年歌集『肌に流れる透明な気持ち』、2020年短歌詩集『満ちる腕』を刊行。ファッションブランド「ZUCCa」2020AWムックや、PARCOオンラインストアの2020春夏キャンペーンビジュアル、雑誌『BRUTUS』『装苑』等に短歌を制作。森ビルオウンドメディア「HILLS LIFE DAILY」の連載「感覚の遊び場」などでのライティングも。写真家の濱田英明氏の写真に言葉を書く、靴下屋の連載「いろいろ、いい色」毎週更新中。
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