福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】建物の横、緑のある庭に佇む2人の女性【写真】建物の横、緑のある庭に佇む2人の女性

蓋された「小さな自分」の声に耳を傾けて。ケアを促す料理レッスンの場、就労支援の場──山口祐加さん×鞍田愛希子さん こここインタビュー vol.26

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料理に対する苦手意識が、ずっとある。

基本的に家族の食事は私が作る日々だが、いつも「こんなに茶色ばっかりで、彩りの少ない食卓じゃダメだ」「野菜が少なくて栄養が偏っているかも」と不安だ。昔誰かに笑われた「野菜を切って焼いただけのものは、料理とは呼べないよ」という言葉を思い出すたびに、イラッとしながらも「やっぱり私にはちゃんとした料理が作れない」と、自分に赤ペンでバツをつけるような感覚が蘇る。

誰が決めたわけでも、言われたわけでもないのに、料理は「ちゃんとやらないといけない」「きれいに作らなきゃいけない」と思っている方が本当にたくさんいます。でも、その方々に「ちゃんとってどういう意味ですか?」と聞いてみると、ほとんどの人が「確かに、言われてみると何をちゃんとと呼んでいるのかわからない」とおっしゃるのです。

(山口祐加、星野概念 著『自分のために料理を作る』p.28より)

「食べられる状態になれば、すでに料理」という自炊料理家、山口祐加さんの言葉は、私たちを取り巻く「こうしなければ」の呪いを的確に表している。その呪いは日常の至る所で私たちに「こんな私ではダメだ」という“罪悪感”を生み出しているのではと、福祉施設「ムジナの庭」で就労支援をしている鞍田愛希子さんは言う。

「ムジナの庭に通っている精神疾患や知的障害のある人々も、罪悪感に苦しめられている人が多いです。役に立っていない自分を許せなくなる、自分に厳しい人たち。彼らに『十分だよ』と言ってあげるケアの役割を、山口さんは料理、私は就労の側面でさせてもらっているのかもしれません」

料理のレッスンと就労支援の活動は、遠いものに見えて実は「理想と自分のギャップに苦しむ人がいる」という点で似通っているのではないか。それぞれの視点から見た「ケア」について、山口さんと鞍田さんに、ムジナの庭で語り合っていただいた。

「ケア」とは、回復すること。

鞍田

最近「ケア」という言葉をよく聞きます。山口さんのご著書『自分のために料理を作る――自炊からはじまる「ケア」の話』にも入っているこの言葉、山口さんはどのような意味合いで使われていますか?

山口

私はケアを「人間が生きていくために必要なこと」と捉えています。ごはんを食べたり、よく寝たり、お風呂に入ったり。要するに“回復”ですね。身体や心を回復させる方法は人それぞれですけど、料理はトマトを切って塩をかけるとかであれば誰でもできるし、大したお金もかからない。その上、消えてなくなって何度もできるので、自分をケアする手段として有効だなと思っています。

鞍田

山口さんご自身も、料理で自分がケアされると感じます?

山口

私自身は「自分をケアしよう」と料理を始めたわけではなく、ただ好きで夢中になれることをしていただけなんです。振り返ってみると、食べたいものを作れる達成感や、私自身をお世話できている気持ちよさみたいなものが、自分の根っこを支えてくれているなとは感じますね。だから今話題になってるセルフケアみたいなものが気になるんだったら、まずはみんな料理から始めてみたらいいんじゃないかなって。

【写真】こちらを向いて笑う山口さん
「自炊料理家」として、自炊レッスンの教室やレシピ製作、執筆などを行っている山口祐加さん
鞍田

「ムジナの庭」のメンバーさんも、料理へのハードルが高い人が多いです。山口さんのご著書で印象的だったのが、「袋麺に具を乗せなきゃ」という呪縛に囚われていた方。私も袋麺には罪悪感があったみたいで、野菜を足さないといけない気になってた自分に、あのエピソードを読んで初めて気が付きました。

そういう「ねばならない」がベースにある人が料理を習いにきたとき、山口さんはどう声をかけているんでしょう。

山口

私、納得感がすごく大事だと思うんです。「料理ができるようになりたい」と思っている人の中には、社会圧からそう思わされている場合もあります。本心では「外食でいい」「袋麺でいい」と思っていて、そこに自分で納得できるならオッケー。だから「今の私は本当にこれを食べたい? 作りたい?」と聞くと思います。

鞍田

メンバーさんと話していると「きちんとしなければ」という声がすごく多いんですよね。鬱になると家事もできなくなる人が多いなかで、それすら許せない自分がいたりする。当事者研究をやってると、ほとんど毎回のように「きちんと」「ちゃんと」っていう言葉が誰かから出てきて、「また出た!」ってみんなで笑い合うぐらいです。

そこを深掘りして、「そもそも“きちんと”ってどういう状態?」とか「なんで“ちゃんと”しなきゃいけないんだろう」と話していくことで解放されるのと、山口さんの声かけはすごく似ているなと思いました。

山口

そうですね。あまり料理をしていない人ほど、栄養や品数、彩りへの理想が高いように思います。今はSNSもきれいな食卓の写真で溢れていますし。でも私は、料理って「食べられないものを食べられるようにする」ことだと伝えているんです。だから、キュウリやトマトを切ってマヨネーズつけるだけ、キャベツをちぎっただけでも料理ですよ、と。

鞍田

そう言われると、すごく気が楽になる。

山口

『自分のために料理を作る』を読んだ方から「この本のコンセプトは『お前はすでに料理している』ですね」と言われたとき、たしかにそれが言いたかったのかも!と思いました。

鞍田

それめっちゃいいですね(笑)。自分は0点だと思っていたけれど、少し環境や視点を変えるだけで「お前はもうできている」状態だったりする。多くの人は、ある程度のスキルを持っているわけですよね。切ったりちぎったりするだけでいいなら。

【写真】胸に手をあて、山口さんのほうに語りかける鞍田さん
ムジナの庭を運営する、一般社団法人 Atelier Michaux(アトリエミショー)代表の鞍田愛希子さん
山口

「ちゃんとした料理」という理想に対して、そこに至れていない自分はダメなんだと減点方式をしてるんですよ。これは料理だけじゃなくて、仕事や子育てなどあらゆることに通ずると思うんですよね。例えば、子どもが生まれる前に描いていた「親としての理想像」があって、そのとおりにできない自分はダメだ……とか。

鞍田

よくわかります。今、就労支援とケアを一体化させた「ムジナの庭」とは別で、「こらだ環境研究所」という生活訓練施設を作ろうとしてるんです。そこではもう少しケアのプログラムに集中して、もっと料理もしようと思っていて。理想像に縛られた自分を解き放つ意味では、オムライスや生姜焼きなどのメニューだけでなく、「ちぎる」などの動作をテーマにした料理の日もおもしろそうだなとヒントをもらいました。

山口

みんなでドレッシングを作るのも楽しいと思います。油と酢と塩があれば、包丁や火を使わずにできますし、アレンジも効かせやすいですよ。

鞍田

自分たちで作ったドレッシングがあったら、もう少し何かしたくなりますね、きっと。

山口

そうそう、たぶんみんな最初のきっかけがないんだと思います。「おいしい新米が届いたから、塩鮭を買って帰ろうかな」みたいな、料理に至る引っかかりが増えるといいですよね。

「食べること」って、お腹が空くたびに考えなきゃいけなくて、めんどくさいとも思うんです。でも、そこで考えることを放棄するんじゃなくて、一品でもいいから「食べたい」と感じるものを作るだけで、次につながるんじゃないかなと思います。

 

小さな自分の声を聞く。

山口

料理を教えていると、「正解」を求めて来られる方が多いんですけど、料理に正解はないんですよね。だから、以前大学生に向けて行ったレッスンではキャベツやブロッコリーの茹で時間を変えて食べてもらう実験をしました。日本だと柔茹ではダメだ、という印象がありますが、イタリアではインゲンを20分くらい茹でるんですよ。

鞍田

ええ! 野菜の茹ですぎは失敗という先入観がありました。

山口

“食感の向こう側”みたいな感じでね、おいしいんですよ(笑)。だから、生徒さんにも「茹で過ぎたときはイタリア風と呼んでください」と伝えてます。

鞍田

呼び方が変わるだけで、捉え方も全然違いますね(笑)。

山口

ブロッコリーの茹で時間、私は1分半が好きなんです。でも、それがいいよと伝えちゃうと1分半の味しか食べてもらえない。もう少し長く茹でればブロッコリーを好きになる可能性がある人に届かないのが、もったいないと思ってて。

【写真】ムジナの庭の窓際にキッチン用具が並ぶ。明るい日差しが影をつくっている
鞍田

そういう時、レシピではどうやって表現するんですか?

山口

正直もう限界を感じますね。「お好みの加減に茹でる」と書いても、編集の人に「目安は何分ですか?」と聞かれてしまうから。まずは自分で茹でて食べてみろ!と言いたくなっちゃう(笑)。

鞍田

自分の感覚が信じられない人は多いかもしれませんね。

山口

そういう意味では、子どもに教えるのが一番楽ですね。「お肉はピンクだと食べられないから、白っぽくなったらいいよ」と伝えるだけで、みんな感覚的にわかってくれます。

鞍田

そっか、大人になるほど感覚が鈍くなっていくのかな。

山口

本当は大人の心にも「小さな自分」が住んでいると思っています。料理に限らず、心の中で日々素直な気持ちを呟いている自分です。でも、例えば「早くミーティング終わらないかな」なんて本音があっても、会社に行かなきゃとかお金を稼がなきゃとか、生活を回すためのルールの中で生きざるを得ない場面はたくさんありますよね。

だからこそ、プライベートな時間くらいは、気分屋な自分のままでいさせてあげてほしいなと思います。私は常に、小さな自分に「何食べたい?」と聞くんです。朝起きたときは、「昨日のお味噌汁にする? 炊けたご飯でおにぎりにする? どっちも食べちゃう?」って。

鞍田

その習慣、いいですね。きっとみんな持っているはずの、その小さな自分の声が、社会の「こうすべき」で蓋をされていっちゃうんだと思います。

ムジナの庭にも、ずっとそこに蓋をしてきたが故に、自分の喜怒哀楽を感じにくい方が多いんです。そんな時は、「こういう感情なんだよね」と確認しながら、一緒に言語化していくようにしています。例えば「私が悪かったんです」と自分を責める人も、「その状況は怒っても大丈夫だよ」と誰かに代弁してもらうことで、ようやく「怒っていいんだ」って理解できる。

【写真】机の前に座り、真剣な顔で向き合う山口さんと鞍田さん
山口

そうですよね。「ケア」って、誰かに関心を向けるとか、誰かのために時間を使うことじゃないですか。だから、まずはそれを自分に向けてあげてくださいよって。

鞍田

たしかに、他者に対して気を遣うことはできていても、自分のことはあまり考えない人は多いですよね。それがまさに、山口さんの本に出てくる「自分のために料理ができない」ってことなんですね。

山口

この本に出てくる人たちも、技術的にはできるのになぜか料理ができない。そこで心の問題を深掘っていくと、「ケア」という言葉が浮かんできたんですよね。出版後のイベントでも、いろいろな人の料理の悩みを聞きました。自身のことを振り返るうちに、泣き始めてしまう方もいて。自分が思ってることを押し殺して、飲み込んで生きてる人がどれだけいるんだろうかと思いました。

鞍田

自分で自分の声を聞けていない?

山口

「聞かないようにしている」という表現のほうが正しいかも。一度聞き始めるとキリがなくて、あえて敏感にならないようにしているというか。

鞍田

なるほど。その状態になると、自分だけでは解決がきっと難しいですよね。たぶん山口さんが料理教室でされていることも、私がムジナの庭でやっていることも、そこに並走しながら、閉じた心の蓋を開けていくことなんだろうなと思います。

 

お守りを持たせて、送り出す。

鞍田

料理って、少し前の世代だと親戚から「おせちも作れないなんて」と言われたりしたし、今はSNSで「いいね」の数に表れたりしますよね。時代は違えど、誰かが評価する構造は常にある。その社会構造から、ひとりずつ「降りました」と表明をすることが大切なのかも。

山口

みんな、降りたいんですね。

鞍田

そう、でも降り方がわからないんだと思います。

山口

私が以前、Twitterで「『手抜き』『ズボラ』と言うのやめます」と言ったらかなりの反響がありましたが、これも降りる表明になったのかもしれませんね。

鞍田

そういう山口さんだから、みんな安心して集まってくる気がします。ムジナの庭は、もともとケアを目的にした場所ですけど、料理の分野でケアの道を切り拓かれた山口さんの活動、すごく面白いなあ。初心者に向けた「自炊レッスン」は、基本的には3回で終わりなんですよね?

山口

そうですね。1回目はスープと焼き野菜の回。私は「料理前料理」と呼んでるんですけど、一般的には料理にカウントされることがないようなものを料理だと伝える回です。長芋やレンコンを焼いただけでも、みんなすごく感動してくれます。そして2回目に魚や肉のメインのおかず、3回目にきんぴらなどの副菜。これで一汁二菜は作れるようになったから、あとは自分でできるはず、いってらっしゃい!という感じです。

鞍田

みんな戻ってきたりはしないんですか?

山口

戻ってくる人は、ほとんどいないですね。それぞれの生活に戻っていって「こんなの料理じゃないかも……」みたいな考えが浮かんできたとしても、「まあでも、山口さんがこう言ってたし大丈夫」と思ってもらえるのかもしれないです。お守りみたいな感じなのかなって。

鞍田

心の拠り所みたいなね。

山口

生徒さんには「私、いつも肩に乗ってるんで」って言ってますからね(笑)。その人の味に周りがいろいろ言ってくるなら、「じゃあ自分で作ってください」「やってみてから言ってください」でいいと思うし。

鞍田

「これも料理ですけど?」みたいな、ちょっと強気な感じがすごくいいですよね。結局は「自分軸を持つ」ということなのかもしれません。人がどうであれ、何を言われようが自分の納得感を大切にすること。それが最終的なゴールに近いものだと思うんです。

【写真】ムジナの庭で仕事をするメンバーさんたちが、壁ごしに見える
山口

でも、就労だとどうなんでしょう。例えばムジナの庭では、ネガティブな感情を外に出すことを意識していると言っていましたけど、社会に出ると「そんなのダメだよ」って言われるじゃないですか。そうすると「やっぱりダメだ」となっちゃう人もいるのかなって。

鞍田

ネガティブ感情の話だけで言えば、それまで無理に蓋をしてきたからこそ、ある日マグマが噴き出すみたいに爆発しちゃうんですよね。ムジナの庭でその蓋をちょっとずつ開けて、感情の昇華が進んでいくと、もう溜まらなくなっていく。感情の出しどころや適切な伝え方を、ゆっくり学んでいるような感じなんです。

ただ一方で、「否定する人はいる」「不測の事態は起きるのが社会だ」ということも伝えたくて、場を整えすぎないようにもしています。トラブルが起きないようなルールを作って、ムジナの庭を理想的なユートピアにしてしまうと、その人の可能性を奪ってしまうことにもなりますよね。むしろその逆で、ムジナの庭以外の場所で何かあったときにも対応できる力をつけられるよう、その人の限界値を少しずつ広げていけるよう、チャレンジや失敗を重ねられる環境づくりを心掛けています。

人によって場面によってサポートのあり方も変化するので、あえてスタッフにはマニュアルも作っていません。その都度一緒に考えることに意味があると思っています。

山口

メンバーさん同士の衝突も避けないと言ってましたよね。

鞍田

そうなんです。もちろん、希望をヒアリングした上でですが、他人とぶつかることでしか生まれないもの、越えられない壁はあると思っています。その辺のスピリットが、山口さんと似てるなと感じます。

山口

思っていることを言わない方が丸く収まる、みたいなことをみんなすり込まれすぎていると思うんです。ネガティブなことも、もっと言っていいのに。

私も最近、夫と喧嘩したときに、黙っている夫に対して、なんで何も言わないの?と聞いてみたら「自分の考えを言わないのは、相手の気持ちを想像しているから」と言われたことがあって、「それは失礼だ」と返したんです。だって、実際の私は夫が想像していることを思っていないのに、向こうが勝手に解釈しているわけですよね。だから、夫と意見が食い違うときは「思ってることはちゃんと言え」と言ってます(笑)。パートナーに対してわだかまりがある人たちに「それ、ご本人に言いましたか?」と聞くと「言ってない」ということがすごく多くて。それはマグマ溜まっていっちゃうよね、と思います。

鞍田

山口さんたちの会話は「違和感があったときにちゃんと答え合わせをする」ってことだと思うんですけど、それはムジナの庭でも大事にしていることです。例えば、「挨拶したのに答えてくれなかった」とショックを受けても、そこにはいろいろな可能性があるわけですよね。聞こえてなかったとか、自分が言われてると思わなかったとか、逆に嫌われてると思って返事ができなかったとか、本当にいろいろ。

答え合わせまでちゃんとすればモヤモヤがなくなるんです。けれど日常では、違和感のまま持ち帰ってしまうことが多いんですよね。そういった一つひとつを、虫眼鏡で拡大するように細かく見つめていく場所にしたいと思っています。

【写真】山口さんのほうを向いて話す鞍田さんの横顔

「家と外」「私とあなた」の境界線。

山口

私が夫との違和感をそのままにしたくないのも、基本的に「家」を回復する空間にしたいからなんです。どうしても「外」は消耗する空間だから。でも、家が自分を回復できる状態にない人はいると思います。そういう人もやっぱりどこかで、こういった回復できる場所を見つけてほしい。

鞍田

家という縛りに苦しめられてきた方も多いし、そこに帰るほうがしんどい場合もありますね。そういう意味もあって、ここは「庭」にしています。庭は半分「家」だけど、半分「外」の要素を持っている。安心できる家の代わりとして使ってもらっている側面もあります。

山口

なるほど。

鞍田

山口さんの言う「家がリラックスモード、外がオフィシャルモード」という意味では、中間というか、やっぱりケアと就労の両方を担っている場なんだろうと思います。山口さんは、生徒さんに対して家と外、どっちの感覚で接していますか?

山口

私自身は、家と外をかなり分けているんですよね。みなさんが想像してる以上に、家ではめちゃくちゃダラダラしてますし。あと「料理家」と名乗ってSNSで牧歌的な食卓の写真を上げていると、なぜかすごく“優しい人”のようなイメージを持たれますが、結構強気な人間です。今日お会いして、鞍田さんには伝わったと思うんですけど(笑)。

鞍田

そういうところが、すごくいいなと思いますけどね。

山口

ありがとうございます。やっぱり優しさは有限だと思うんですよ。いつでも、誰にでも優しくはいられない。それに、いくら私が「大丈夫だよ」と優しく言ってあげたとしても、それこそ外に出たときに攻撃されたら大丈夫じゃなくなっちゃう。だから、生徒さんたちには自分で自分を許せるようになってほしいし、最終的には自らの力で大丈夫になってほしいなと、いつも思ってます。

【写真】山口さんが話す姿が、笑顔の鞍田さんごしに見える
鞍田

お話ししていて、山口さんはちゃんと「自他の境界」ができた状態で、人へのケアができているんだなと思いました。境界については、メンバーさんともよく話します。そこのボーダーラインをしっかりと設けないと、人の感情やペースに乱されて、自分のバリア機能が働かない状態になるよね、と。

山口

私はそれ、たぶん感覚的にやってましたね。

鞍田

誰かをケアするときに意外とそこが難しいと思うので、山口さんはどうしてるんだろうと気になっていたんです。今回お会いしてみて、ようやくわかったところがあります。「あなたはあなたでできている、私も私でやっている」と境界線が明確なので、相手も依存せずに自立が進んでいくのかなと思いました。

山口

そうかもしれません。夫もですけど、優しい人はいろんなことを引き受けすぎちゃう。でも、同じ家の中で私までそうなったら生活が回らなくなっちゃうと思うので、私は淡々とやってます。

鞍田

ちゃんと境界を守りながら人と自分を大事にするのは、私たち自身も目指したいし、ムジナの庭のみんなにも目指してもらいたいところ。それがちゃんとできたときに、ようやく「ケア」という言葉が本当の意味を持ち始めると感じています。

ケアは、一方的に施したり、とにかく優しくしたり、そういうことではない。自分と相手をそれぞれ大事にして、入りすぎないのも大事な要素だなと思いました。今日は来ていただいて、本当にありがとうございました!

【写真】ムジナの庭の階段下から見た、2階の部屋。吹き抜けに面した小窓からカラフルな布が垂れ下がっている

【取材後記】納得感のある生き方に向けて。

この取材をしてから、私は事あるごとに「どうしたい?」と小さな自分に問いかけるようになった。小さな自分は結構素直で、「今日は疲れたから料理したくない!」とか「お米が残っているけど、本当はパスタが食べたい!」などと教えてくれるけれど、やっぱり「家族に栄養のあるごはんを……」「残り物を片付けないと……」という気持ちに飲み込まれそうな日もある。

そのたびに、山口さんと鞍田さんの顔が浮かぶ。そして「もう今日はきゅうりを切って、味噌とマヨネーズで一品にしよう」と気が楽になる。だって、これも立派な料理だと山口さんも言っていたし。しかも、そういうものに限って子どもたちに人気だったりする。

「自分らしく生きていい」と頭ではわかっていても、私たちはすぐ、実態のない「きちんとしよう」に囚われそうになる。それらはメディアや広告だったり、他人の何気ない発言だったり、いろいろなところに潜んでいて「できない私はなんてダメなんだろう」と落ち込ませにくる。ひとり立ち向かうのはすごくエネルギーを使うことで、きっと多くの人が事あるごとにその罠で転びそうになっているのではないか。

その道の中で、山口さんは「料理」、鞍田さんは「就労」を接点に、人々の手を握る。引っ張るでもなく、道を示すのでもなく、ただただ「それで十分」と顔を覗き込んでくれるような寄り添い方だ。そうした支えがあって初めて、“きちんとした正解”を探す必要すらないと気づける人も少なくないのかもしれない。

ある日の食卓から、今日の働き方から、誰かとの距離感から。まずは自分に「どうしたい?」と聞いてみる。その日常の小さな一瞬、私たちの「納得感のある生き方」は始まっているのだ。

【写真】ムジナの庭の、庭に立ち、こちらを向く山口さんと鞍田さん

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連載:こここインタビュー