福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】室内に立ち、赤い表紙の本を開いて正面を見ているまつざきじょうさん。向かって左手にはパソコンの置かれたデスクと椅子があり、右手はスチールラックの中に本や資料がならんでいる。松﨑さんはメガネ、黒いジャケットの下に黒いセーターと白いシャツ、青い色のパンツ、黒い革靴を身に着けている。

松﨑 丈さん【大学教授】 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道 vol.46

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手話を大切なことばとして生きる「ろう者」はどんな仕事をしているのでしょうか。

連載「働くろう者を訪ねて」では、写真家であり、ろう者である齋藤陽道が、さまざまな人と出会いながらポートレート撮影とインタビューを重ねていきます。

最終的な目的は、働くろう者たちの肖像を1冊の本にすること。その人の存在感を伝える1枚の写真の力を信じて、「21世紀、こうして働くろう者がいた」という肖像を残していきます。

(連載全体のステートメントはこちらのページから)

第46回は宮城県仙台市で大学教授として働く松﨑 丈(まつざき・じょう)さんを訪ねました。

松﨑 丈さん【大学教授】

【写真】室内に立ち、赤い表紙の本を開いて正面を見ているまつざきじょうさん。向かって左手にはパソコンの置かれたデスクと椅子があり、右手はスチールラックの中に本や資料がならんでいる。松﨑さんはメガネ、黒いジャケットの下に黒いセーターと白いシャツ、青い色のパンツ、黒い革靴を身に着けている。

― お名前、ご職業、年齢は?

松﨑丈です。大学教授をしています。宮城教育大学 教育学部で特別支援教育を教えています。ここは教員を目指す人たちを育てるところです。特に特別支援学校や特別支援学級、ろう学校の先生になりたいと思っている人がやってきます。ここで教えて、20年目になります。48歳です。

 

― 出身地はどこですか。

広島県で生まれ、大分県別府市で育ちました。

 

― 今まで通っていた学校はどこですか。

大分県立ろう学校の幼稚部に通い、小学校、中学校、高校は地元の学校に通っていました。

大分県立ろう学校は当時の日本ではめずらしく、身振りなど多様な方法を使うことに肯定的で、のびのびといろんなコミュニケーションを楽しむことができました。

大学に入るまではほぼ独学で勉強をしていました。私は補聴器をつけても声を聞き取ることはできないので、口の形を見て読み取るしかありませんでした。今のような情報保障はなかったので、情報が入ってこない環境で耐え続けていました。

高校3年生のとき、大学で先生をしていた父が「山形の大学のほうが自分の研究をより一層深められそうだ。家族で引っ越ししたい」と言い出しました。なので、東北で障害児教育を専攻できる大学を探して、宮城教育大学を見つけ、受験して入りました。

手話は大学生になってから覚えました。仙台市内の手話サークルで仲良くなった人たちに手話でのあだ名をつけてもらいました。当時の私は流行りに乗って、もみあげを長く伸ばしていたので、それがあだ名の由来に。

 

― こどものときの夢は何でしたか。

幼稚部のとき、初めて読んだ漫画が『キャプテン翼』。サッカーも大好きだったので、将来はサッカー選手になりたいなと思っていました。

小学3、4年生のとき、「学校の先生はろうである私の気持ちをわかってくれない」と悩んでいました。

「私は聞こえないので黒板にたくさん書いてください」
「口を大きく動かし、ゆっくりと話してください」

と、先生方にお願いしていたのですが「ここは君のための学校ではない。松﨑君だけを特別扱いすることはできない」と言われました。それに対して、激しく違和感を感じました。

学校がこどもを選ぶのか? 学校はどんなこどもでも受け入れる場ではないのか?

そのように考えることができたのは、家に教育に関する書籍がたくさんあり、それを読んでいたからです。父の専門は教育心理学で、大学で幼稚園教諭や保育士の養成をしていました。私の仕事とちょっと似ていますね。

父の本棚からいろいろ読みました。全てを理解するのは難しかったですが、自分なりに読んで、考えるようになりました。

こどもは一人一人、主体的な存在である。先生は一人一人を尊重しなければならない。

なるほどと思うと同時に、自分が通っている小学校っておかしいなと思いました。なぜだろう……と考えながらいろいろ読んで、父の仕事を見て、あることに気づきました。

学校の先生の考え方は、大学で学ぶ内容に深く関わっているんだ。

つまり、私が大学の先生になれば、学生たちに「ろう児の心理とは何か」などを教えられる。その学生たちが柔軟な思考や姿勢をもった先生になり、こどもを選ばない先生となり、ろう児の気持ちも汲み取れる先生になってくれる。

「よし、大学の先生を目指そう! 」と具体的にそう思ったのが小学5、6年生のときです。

 

― 独学でどうやって勉強したんですか?

母は私が生まれるまで、小学校の先生をしていたんです。小学校で学べていない私を見て、自宅で勉強を教えてくれました。私のニーズやレベルなどをよくわかってくれているので、とてもやりやすかったですね。私に合った教材なども作ってくれました。厳しい面もありましたが、スッと理解できたので楽しかったです。

おかげで基礎学力や物事を考える力はしっかりと身につきました。なので中学校、高校での授業にもついていくことができました。

父からは仕事の方向性を、母からは基礎学力や物事を考える力を。この二つがうまく重なり合ったんですね。私の大切な財産となっています。

 

― 大学教授になるまでの経緯を教えてください。

宮城教育大学で4年間学び、特別支援学校教諭免許状、中高の美術教員免許を取得。大学院で2年間学び、研究をして、修士号を。さらに東北大学大学院で、4年間研究をして博士号を取得しました。博士号を持っていれば大学教員の採用で有利になることがあるんです。

宮城教育大学に在籍していたとき、お世話になっていた教授がいました。坂本幸先生は聴者ですが珍しいタイプで、口話教育主義の時代の中、手話での教育に肯定的でした。おそらく、日本で初めてデフファミリーの生活に入って観察研究をしていたお方です。

大学に入学してから、坂本先生の存在を知りました。なんという巡り合わせだろう、と嬉しく思いました。おかげで自分の研究の方向性をはっきり決めることができました。

私が博士号を取得して修了する年が、坂本先生が定年退職する年でもあったんです。その教員のポストが空いたので、教員公募が出ました。その公募に申し込んでみたら採用されました。

宮城教育大学に学部と大学院あわせて6年間在籍し、東北大学大学院に進学した後も何度か足を運んでいたので、他の教授たちに「ああ、松﨑君か。よく知ってるぞ」と認知していただいていたのもプラスになっていたと思います。

在籍していた間、いろんな活動をしたり、手話サークルや情報保障の会を立ち上げたりしていました。ノートテイクやパソコンテイクの養成・派遣などの体制作りも考えて、整えてきました。それも評価につながり、松﨑ならこれからも大学を良い方向へ改革してくれるのでは、という可能性を感じてくれたようです。

 

― どんな仕事をしていますか。

基本的に4つあります。学生教育、研究活動、学内運営、地域支援。

大学で講義などをして、教員を目指す人たちにいろいろ教えています。

ろう重複障害(※注)の子が増えてきました。その子にどうやって教えたらいいのかがまだはっきりとわかっていないのが現状です。親、先生も適切な教育方法やコミュニケーションに悩んでいるんです。

私はそれを研究しています。調査をするだけではなく、実際にろう重複障害の子と会い、対話を重ね、どんな支援が合っているのか、それに気づくにはどうすればいいのかを探っていきます。これが実践研究です。

研究結果を親や先生に伝えたり、大学での講義で取り上げています。

特別支援教育専攻運営委員会の専攻長でもあるので、宮城教育大学における教育・研究の運営にも関わっています。大学の専攻長になったり、教育学部で手話で講義をしているろう教授、日本では私が初めてだそうです。

そして、各地域で困っている家庭や学校があれば訪問をして、様子を見て、支援をしています。大学教授には「教える」「研究」のイメージが強いかもしれませんが、意外といろいろやっているんですよ。

ろう児の気持ちをわかってくれる先生を増やしていきたいです。私の研究で、ろう学校や学校、教育の現場が変わり、良くなり、こどもも親も先生も喜ぶ学校が生まれる。それを実際にみることができたときが幸せです。

その実例を大学での講義でみんなに伝え、参考にしてもらえたらまた幸せ。今やっている4つの仕事がそれぞれつながり、良い流れが巡っていけるように考えています。

※注:ろう重複障害は、聴覚障害に加えて知的障害や発達障害などを併せ持つ状態。複雑な課題状況を生じさせる傾向がある。松﨑 丈さんの著書『ろう重複障害の子どもたちとのコミュニケーション』(2025年、明石書店)に詳しい。

 

― 悩みごとがあるそうですが。

はい。一度だけ、自分は大学教授に向いてないのでは、と悩んだことがあります。

20年前、大学で講義をするようになってから、学生たちとのコミュニケーションに苦しんでいました。手話ができない学生とは筆談やパソコンで会話をしているのですが、その方法だと本当に伝えたいことを飲み込んでしまいがちです。

聞こえる人は声で本音をこぼします。筆談やパソコンだと、一息置いて、考えて、書いてしまうので、ちょっとした本音をこぼすことがなかなか無いみたいなんです。

書く手が止まるのを見ると、「あれ、今、言葉をひっこめたかな」と気になってしまって。それでコミュニケーションの難しさを感じ、この職業に向いていないのではと悩んだんです。聴者の同僚に相談したら「松﨑先生なら大丈夫だよ」と言ってくれました。でもね、ううん、悩みましたね。

実は今、別の悩みがあります。

以前は大学1年生からろう教育、障害関連を専門として選択し、学んでいくカリキュラムになっていました。ろう学校教員養成課程を選択する人は少なく、学生数は多くても15人ぐらいでした。なので一人一人に対して、細やかに指導することができていました。

今はインクルーシブ教育の考えが広まって、一般の学校の先生になる人も、特別支援教育や、障害とは何かを学び、特別支援学校教諭を副免許状として取得するようになりました。なので、副免許状取得を目的とする人が増え、学生が100人を超えてしまいました。

それでも講義はやらなければならないので、100人以上の学生たちにどう教えるかを考え、工夫し続けています。

学生が100人だと、一方的な講義になってしまいます。本当は一人一人に向かい合い、対話や議論をし、共に考えていきたいのに。

 

― 工夫していることは?

100人でも、一緒に考え、盛り上がれるような講義を考え続けています。なかなか難しいのですが。

手話通訳者にも来てもらっているので、通訳者から見やすい服装、色を意識しています。黒、紺などの暗めの色。模様は無し。でもそのことに気づいている学生はいなさそうで、「暗めの色が好きなんだな」と誤解されているようでした。

ある日、講義の途中でボーダー柄の服に着替えてみました。数分ほど話していたら、通訳者がまいってしまいました。何度もまばたきをしていて、通訳の精度が下がっていたんです。学生たちは「ボーダー柄に変えたら通訳がうまくできなくなっている。どうしたんだろう」とざわついていました。

通訳者にどうしたのか、とあえて聞いてみたら「今の服装は手話がうまく見えず、通訳しにくい。目がチカチカする」と答えてくれました。学生たちも「なるほど、松﨑先生は趣味で暗い色の服を着ているんじゃない。通訳者が働きやすい環境を整えているんだ」と気づいたようです。

自分がろう学校の先生になったら児童、生徒たちの目に配慮して、ボーダー柄ではなく、手話が見えやすいような暗めか無地の色の服を着るようにしよう、という意識を持ってくれた学生もいます。

一から全部説明するのではなく、このように実践で伝えるのを大切にしています。

 

― 心がけていることは?

大学生のときに受けた講義が技術的なことばかりで、違和感を感じたんです。自分は「人とは何か」をもっと熱く語り合いたい。

なので学生時代は、講義外の空き時間を使って、学年問わず希望者を募って「ろう教育問題研究会」という自主的な勉強会をやっていました。本を読んだり、話し合ったり。

その研究会に来てくれていた人たちは卒業後、先生になったり、手話通訳者になったり、ろう者と関わる職に就いています。その様子を見て、ああやっぱり、講義というのは心に響くようなものであるべきだと実感しました。

その経験があったので、講義をするときは学生の人数に関係なく、なるべく対話するように心がけています。勉強をするだけではなく、得た知識が心にも響き、伝え、結びつく。その経験が大切です。

 

― おすすめの本を教えてください。

『重複障害児との相互輔生 行動体制と信号系活動』(1997年、東京大学出版会、※現在は絶版)。

1960年〜1970年ころ、日本で初めて盲ろう教育を研究した梅津 八三氏の本です。

「障害」とは個人の特性そのものを指すのではない。障害がない人がつくりあげた社会と、障害を持っている人の間に起こりうる何かこそが「障害」なのではないだろうか、という視点が面白いと思いました。

専門用語で言うと「社会モデル」ですね。

コミュニケーションにおいて何かが起こったとき、個人に原因があると考えるのではなく、その人と自分の間にある壁や関わり方に問題があると考えることが大事なんです。

これを梅津 八三氏は「相互障害状況」といいます。そこから立ち直るには、お互い輔(たす)けること、つまり「相互輔生」が大事だというんです。

この考え方は最近できたものだと思われがちですが、1970年代にすでに梅津 八三氏が唱えていました。世界でも梅津 八三氏が最初かも。

私は『重複障害児との相互輔生』などを参考にしながら実践研究を進めることで見えてきたことをベースに、本を書きました。『ろう重複障害の子どもたちとのコミュニケーション』です。

鷲田 清一氏の『「待つ」ということ』(2006年、角川選書)もおすすめ。現場から離れたところから俯瞰し、そこから探っていこうという内容です。リラックスしながら読めて、視野が広がります。

 

― 「生野ろう学校児童事故事件」に関わっていたとお聞きしました。

はい。2025年1月に最終判決が出ましたね。

最初は不当な判決が出されました。亡くなられた児童が生まれつき難聴であるなどの理由で、逸失利益を「全労働者の平均賃金の85%」と低く提示されたんです。遺族は差別だと控訴しました。

不当判決が出される前にテレビでニュースを見て、これまでの自分の仕事の経験を活かして支援したい、と思いました。遺族に会い、亡くなられた児童の日記などを見せてもらい、調査をした結果、健常者と変わらない学力を持っていたということがわかったんです。念入りに調べ、意見書を作成しました。

高等裁判所での証言台に立つ機会を与えられ、裁判長へ直接訴えることができました。裁判長は私の目を見て、聞いてくれたんです。聞こえる人は目を見ないで、メモを取ったりするんですが、その裁判長は違っていました。内容確認も丁寧にしてくれて、驚きました。もしかしたら判決が変わるかもしれないと希望を感じました。

遺族や弁護団の懸命な訴えと、私が持つ専門的な知識・経験が合わさった結果、最終判決で「逸失利益の減額なし、全労働者平均賃金の100%」が確定されました。前例のない、画期的な判決です。

証言後、涙を流すご両親から伝えられたことが印象に残っています。

「松﨑先生は娘と会ったことがないはずなのに、証言を聞いていると、昔から何度も会っていたかのようなイメージが浮かびました。あの裁判所で、娘の存在をしっかりと感じることができました。やっと、娘がいるということを認められたような気持ちです」

それを聞いて、私も、ろう児や家族のためにここまで生きてきた意味があったということを実感しました。

後日、父親に「いろいろとありがとう。娘のことを忘れないでほしい」と娘さんが使う予定だった文具をいただきました。これも、私がろう児や家族のために生きてきた証です。

 

― 5年後の自分は、どうなっていると思いますか?

白髪やシワが増えているかもしれませんね。でも今のように仕事をしていると思います。様々な人と係わりながら、自分の生きている意味をつくり続けていきます。

 

― 好きなたべものは何ですか?

前はラーメンでしたが、食べ過ぎて肝臓の数値が悪くなりまして。今は、ううん、なんだろう。魚かな。やっぱり魚ですね。焼いたりフライにした魚の隣に、ごはんと味噌汁があるとホッとします。

 

― 最近幸せだと思ったことは何ですか?

ちょっと抽象的になってしまうんですが、ある人と対話して、その人との間で新たに生み出された何かを共有できたときが幸せです。

学校で出逢うこどもたちや、大学で出逢う学生たちと話していると、最初はことばにできない何かがあって。お互いそれが何かわからなくて、「こういうことかな?」「いや、これかな?」と対話で一緒に探し、確かめ合うことで、ことばにしたかった何かが見つかります。

人は、どう生きていったらいいかわからなくなったとき、一人では何もできません。人と人が出逢い、対話し、探し、確かめ合うことで、何かが見つかるんです。その積み重ねをしていけることが幸せです。そこに、自分がこの世界にいる、この世界で生きている意味を感じられるからです。

何のためにここにいるのか、何のために教育や研究をしているのか。自分がここにいる意味をいつも見出したり確認したりしています。

自分一人だけで仕事ができているんじゃない。皆がいてこそ、私は働けています。

動画インタビュー(手話)

インタビューの様子や、日常の様子をまとめたこの映像には、音声も字幕もテロップもありません。写真だけではどうしてもわからない、その人の手話の使い方に滲みでてくることばの特徴を感じてもらうためです。たとえ手話がわからなくても、そのリズムに目をゆだねてみてください。じわりと浸透する何かが、きっとあります。「こういうふうに話す人なんだなあ」と知ってもらった上で、写真を見てもらうと、見え方がまた変わります。

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連載:働くろう者を訪ねて|齋藤陽道