福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】図書館の中、両側を本棚にはさまれた通路に相良良子さんが立っている。緑色のワンピースを気て、髪は肩までの長さ。両手を前で揃えてこちらを見ている。【写真】図書館の中、両側を本棚にはさまれた通路に相良良子さんが立っている。緑色のワンピースを気て、髪は肩までの長さ。両手を前で揃えてこちらを見ている。

相良啓子さん【手話言語学研究者】 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道 vol.29

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手話を大切なことばとして生きる「ろう者」はどんな仕事をしているのでしょうか。

連載「働くろう者を訪ねて」では、写真家であり、ろう者である齋藤陽道が、さまざまな人と出会いながらポートレート撮影とインタビューを重ねていきます。

最終的な目的は、働くろう者たちの肖像を1冊の本にすること。その人の存在感を伝える1枚の写真の力を信じて、「21世紀、こうして働くろう者がいた」という肖像を残していきます。(連載全体のステートメントはこちらのページから)

第29回は東京都立川市で手話言語学研究者として働く、相良啓子(さがら・けいこ)さんを訪ねました。

相良啓子さん【手話言語学研究者】

【写真】図書館の中、両側を本棚にはさまれた通路に相良良子さんが立っている。緑色のワンピースを気て、髪は肩までの長さ。両手を前で揃えてこちらを見ている。

ーお名前、ご職業は?

相良啓子です。開いた手のひらに指文字の「さ」をなぞらせて「さがら」。ろうの友人が作ってくれて、気に入ってずっと使っています。手話言語学研究をしています。

―出身地はどこですか。

山形県です。実家は果樹園をしていてシャインマスカットを育てています。10月になると大きく実り、収穫の時期になります。とても美味しいですよ。

―今まで通っていた学校はどこですか。

私、生まれたときは聞こえていたんです。一般の学校へ通い、高校は女子校。そして山形女子短期大学(※注1)へ。20歳になる前におたふく風邪になり、それが原因で、聴力を失いました。スキー場へアルバイトに行ったとき、耳下が痛くなって。病院で、腰から水をとって精密検査をしたら、おたふく風邪のウィルスが入っていたと。ものすごく痛い検査でした。

進路についてはいろいろ悩みましたが、筑波技術短期大学(※注2)に入りました。ろうのことを知りたいと思ったからです。そこで手話を覚えて、卒業するころには手話に夢中になっていました。そこから、筑波大学大学院へ進学、イギリスのセントラルランカシャー大学へと。

※注1:現在の東北文教大学短期大学部
※注2:平成17年より、筑波技術大学の短期大学部に編成

―聞こえなくなったとき、どんな気持ちでしたか。

聞こえていたときは、このまま山形で結婚して、子どもを産んで、友達とおしゃべりして、一生を山形で過ごすだろうと思っていたんです。でも、聞こえなくなって、すっかり進路が変わってしまいました。今まで気づかなかったことや、多くの出会いがあり、世界が変わって見えてきたり。いろんな言葉や文化があるということを体験的に知ることができました。

聞こえなくなったばかりのころは、泣いたり、途方に暮れたりしていたこともありましたが、そうしてばかりもいられないですよね。次第に「ろうとは何か」を知りたい、同じような経験をした仲間に会いたいと思うようになって、福島県の中途失聴・難聴者協会などに手紙を出したんです。そうしたらすぐにお返事があり、その中に「近々、聴覚・視覚に障害のある人のための短期大学が茨城県つくば市にできるらしい」と書かれていました。それが、当時の筑波技術短期大学だったのですね。思い切って入学を決意し、そこで手話と聞こえない仲間との出会い、どんどん新しい世界へと。

つくばで3年間学んだあとは山形へ戻ると母と約束をしていたんですが、結局戻れなくなってしまいました。なんだか、もっとろう者やろう教育について知りたいという思いが強くなり、出会いもあり、あと2年、いやあと5年? あれれ?と。母よ、父よ、ごめんね。でも、そのおかげで今の仕事に結びついたかなと思います。感謝しています。

思い起こせば、聞こえなくなったおかげで、山形を出て、いろんなところへ行けるようになり、出会いも増えていったんですよね。様々な方との語らいや経験を通して視野が広がり、いいこともたくさんありました。手話で話しているときがとても楽しいんです。聞こえていたら絶対にできないような貴重な経験もたくさん! なんだか不思議。

―こどものときの夢は何でしたか。

あまりよく覚えていないんですが「お花屋さん」だったかな。お客さんにきれいなお花を渡すと喜んでくれるからいいな、とか思っていた記憶があります。高校3年生のときは幼稚園の先生を夢見ていたかな。ピアノや歌も大好きだったので。

―これまでの職歴は?

アルバイトでは印刷会社、家庭教師、図書館などいろいろ。筑波大学院生だったころは、ろう学校の先生を目指していました。でも、実際に教育実習に行ってみると、そのろう学校では手話を使うことができず、口話のみでのコミュニケーションを求められました。胃が痛くなりました……。

自分が思い描いていたような仕事ができないような気がしてきて、もう少し違う職業も……と考えていたときにある出会いがありました。それは、旅行会社・JTBの特例子会社の社長さんとの出会いでした。手話ができる方で、人柄にも魅力を感じました。

「ろうの社員はいるが、離職率が高くて、どうしたらいいかを考えたい。社内カウンセリング的な仕事も担える人がいたら助かる」とおっしゃっていました。わたしも人と接する仕事に興味があったので、そのようなことにも貢献できれば、という甘い考えをもっていました。新入社員が先輩社員のメンタルをサポートするなんて無理ですよね。

はじめは社内ネットワークなどの業務担当だったのですが、JTBにろうの社員がいる、というのが知れ渡ってか、少しずつろうのお客さんからの旅行相談が増えていきました。個人の飛行機や電車の切符の手配から始まり、旅行企画の作成、そして添乗の仕事へと。たとえば30名でアメリカへ旅行したいという注文を受けたら、お客様の希望に合わせた行程、見積を提案し、より満足していただけるようにツアーを作り上げる。そのような仕事が増えていきました。

特に、北欧視察ツアーは毎年のように行われ、北欧のろう学校、大学機関、ろう者のクラブなどとよく連絡を取り合っていました。お客様が現地で交流や視察がしやすいように心がけていました。そして自分もお客様と一緒にツアーに同行し、添乗と通訳の仕事を兼ねた形で仕事をしたこともあります。今ではどのツアーも良い思い出になっています。

―手話言語学を研究し始めたきっかけは?

旅行会社も楽しかったのですが、忙しくなかなかハードでした。このままずっと旅行会社で働き続けるのだろうか? と思い悩んでいたとき、転機が訪れました。それは、仕事から戻って夜、偶然に見かけたメーリングリストからの情報でした。イギリスのセントラルランカシャー大学で国際手話ができる職員の募集があり、ハードルが高そうだと思いつつ、応募してみたんです。そうしたら、運よく採用が決まって、手話類型論研究の研究アシスタントを行う仕事に携わり、4年間イギリスで仕事と言語学の勉強を行いました。

当時、言語学についての知識はありませんでしたが、どうなるかな、どうなるかなと、わくわくしながらのチャレンジでしたね。手話言語学研究に取り組み始めたのはイギリスに行ってからです。

新しいことに挑戦するのが好きなんです。いつも考えるよりも行動してしまいます。挑戦してから、結果を見つつ、さてどうしようかな、と考えます。失敗したらそれはそれでOK。何もしないよりはいい。何かをして失敗しても、それが後で他のことに繋がっていくこともありますし。

イギリスに発つ前は、研究者になりたいと思ったことはないんです。イギリスでいろいろな研究者に会い、プロジェクトのアシスタントを通して、自分の心の耳に従って歩み続けていたら、手話言語学研究者になっていました。

―イギリスではどんなことがありましたか。

イギリスで会ったろう者はプロジェクトの仕事に関わりながら、自らの学位取得を目指して研究をしている人が何人もいました。そのような平行したやり方ができるのだ、と学んだのは、交流の場でもあるバーでした。雑談の貴重さを感じたときでもありました。自分も、同じようにチャレンジしてみたいと思うようになりました。

でも、仕事で稼いだ給料の半分を、学費に回すことになるわけです。学位取得をやるべきか、辞めるべきか、ずいぶん悩みましたが、せっかくだから学位も取ってみたい、という気持ちが強くなり、思い切って挑戦することにしました。イギリス滞在2年目のときです。

それから3年間研究し、「M.Phil.」(※注3)という学位をとりました。その先には、博士課程に進む道もあり、「あと2年研究を続けてPh.D.(博士号)を目指してはどうか?」と大学の教授から言われました。そのとき、同時に国立民族学博物館での仕事のお誘いもいただき、とても悩みました。

同僚にアメリカ人の研究者がいて、彼女からカウンセリングをすすめられ、人生初のカウンセリングをイギリスで受けました。アメリカはカウンセリングを受けるのが当たり前の社会で、めずらしいことではないんですね。カウンセラーはイギリス手話での会話が問題なくできて、私も心のうちを打ち明けることができました。

カウンセラーにいろいろ話していくうちに「新しいことに挑戦するのが好きだ」「イギリスでやったことの延長ではなく、新しいことに挑戦してみたい」という自分を客観的に知ることができた気がしました。ゼロからのスタートで、知らない土地で生活することの不安はあったものの、大阪で仕事をする道に決めました。

※注3:M.A.(修士号)とPh.D.(博士号)の間に位置する学位。インドやイギリスなどの大学で取得できる。

―国立民族学博物館(民博)では何をしていましたか? 

最初の1年は、博物館の中に手話言語に関する展示物を増やすことを行っていました。例えば、日本各地の方言で読み上げる物語「ももたろう」のコーナーには音声言語だけだったので、各地域で収録した手話での方言動画を加えました。手話にも方言があることを知ってもらうのが目的です。2年目は、国際会議の協力をしたり、自分の研究を進めたりしていました。3年目から、博士論文に取り組もうと漠然と考え始め、科研費も取得し、国内、台湾、韓国での調査もできるようになり、少しずつ論文を書くこともできるようになっていきました。

―手話言語学研究とは?

「言語学」では、言語のしくみを調べます。人間の言語を科学的に分析する学問です。それは、いくつもの手話言語を話せたり、理解できるといった、いわゆる「語学」とは異なります。今は、国内の地域変種に関するデータを収集して、年齢や地域の違いがあるのかどうかについても調べています。

これまでは、主に手話言語の数詞について研究してきました。手話は世界共通と思っている方もまだ少なからずいるようです。そうではなく、手話も音声言語と同じように、方言もありますし、手話独自の文法があります。そうしたことを実証的に示していきたいと考えています。あれこれと手話言語学に関わって、14年になるのですね。あっという間!

―最近の研究の様子をお聞かせください。

最近は歴史言語学からの視点で研究をしています。日本統治時代、日本手話が韓国と台湾に伝わりました。台北で使われている数詞の表現方法は、東京で使われていたのと同じなんですが、台南では以前使われていた大阪の数詞体系と同じなんです。統治時代に、東京の教員が台北へ、大阪の教員が台南へ渡ったといった歴史的な背景は文献資料から知ることができますが、現在の各地の手話表現を見て知ることもできるんです。

そして、1945年以降、台湾手話と韓国手話は、各国の音声言語などとも接触しながらそれぞれ異なる言語として、発達してきました。

手話の歴史的な研究を進めるためにはまず、国内で古くから使われている地域手話を調査しなければなりません。地域によって、また年代によって全く違うという発見もあるんです。先日愛媛県に行ってきたんですが、そこに住む年配の方の手話が、もう本当に、東京や大阪で使われている手話と違ってて。いやあ、本当に、うわあ!わからない〜!あはは!って笑っちゃうほど読み取ることができませんでした。標準手話と愛媛手話の両方ができる方が研究協力にあたってくださり、説明してもらいながら調査を進めることができたので助かりました。

今後は、社会言語学の領域でも研究を進められたらと思っています。まだまだ始まったばかりですが、研究公開できるように頑張ります。

―調査をしていく中で大切にしていることは?

現地の手話話者やコミュニティと信頼関係をどう築いていくか、です。一番いいのは生活の場を共にすること。日常会話をして、その人となりを知り、それから手話言語学研究のための調査を進めるのが理想です。

でも、予算や相手の予定などもあるので、どうしても制限がつきます。限られたなかで、地域のろうのネットワークを活かして研究調査をお願いすることが多いです。現地へ行ってみないとわからないことがたくさんあります。事前に準備を進めつつ、あとは直接お会いして、現地でいろいろとコーディネートすることが必要になります。

調査して、研究論文を出し、それがろう者のコミュニティにも役に立てる内容であれば良いなと思っています。

―今の調査、研究をどのようにまとめていこうと思っていますか?

そうですね、データ収集、分析、そして研究論文として公開する必要があります。研究を続けるためには、研究費が必要です。今ちょうど、研究費を取るための申請書を書いています。これがまた大変です。なかなかうまくいかないこともありますが、それもまた経験。次にむかって進むしかないですね。

―現在勤めている国語研究所(国語研)はいかがでしょうか?

2024年4月から、日本学術振興会・特別研究員として、国語研で研究をしています。手話言語学研究に携わる研究者は、まだ国語研では少ないので、頑張らなくてはいけません。

国語研には、ことばに関する研究者が沢山おられます。まだ少しの先生方としかお会いできていませんが、少しずつお話しできる機会があればいいなと思っています。音声言語と手話言語は、言語という共通点があるので、自分の研究のヒントになることがたくさん見つかりそうです。できるだけ多くのことを学びたいという気持ちがあります。

国語研にいる間に、ろう者や手話関係者が集まれるような企画の働きかけもしてみたいです。でも、まずは自分の研究を深めて、論文を書かなければ、です。

―5年後の自分は、どうなっていると思いますか?

さあ、どうなっているのでしょうね。手話言語学研究を続けていけるかどうかの勝負どころです。国内では、大学機関で手話言語学研究を独立した形で行っているところはないですしね。また、学術手話通訳を確保するという課題が大きいです。

5年後の自分がまだ見えていませんが、まずは1年、1年をしっかり積み重ねていかなければ、と思っています。そうすれば、その先も繋がっていくのでは?と楽天的に!まずは、目先の3年。その後のことは、その後ですね!

―好きなたべものは何ですか?

パスタ。アサリやイカなど、シーフード系が好きです。

―最近幸せだと思ったことは何ですか?

今まで多くの人に支えられてここまでやって来れたので、もう、なんでも幸せに感じます。今、言語学研究がやれていることも奇跡のようだし、研究が行き詰まったときは、いろいろな方向から助けてくれる人たちがいる。以前病気で入院していたときのことを思い出すと、今、自分の足で立ち、動いていられるのが幸せ。今日はあなたたちに出会えて幸せ。

動画インタビュー(手話)

インタビューの様子や、日常の様子をまとめたこの映像には、音声も字幕もテロップもありません。写真だけではどうしてもわからない、その人の手話の使い方に滲みでてくることばの特徴を感じてもらうためです。
たとえ手話がわからなくても、そのリズムに目をゆだねてみてください。じわりと浸透する何かが、きっとあります。「こういうふうに話す人なんだなあ」と知ってもらった上で、写真を見てもらうと、見え方がまた変わります。

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