福祉をたずねるクリエイティブマガジン〈こここ〉

【写真】小学校の教室のような場所。黒いインナーにグレーのジャケットを着ているおのさんが立っている。黒ふちメガネをしている。【写真】小学校の教室のような場所。黒いインナーにグレーのジャケットを着ているおのさんが立っている。黒ふちメガネをしている。

小野広祐さん【私立ろう学校校長】 働くろう者を訪ねて|齋藤陽道 vol.49

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手話を大切なことばとして生きる「ろう者」はどんな仕事をしているのでしょうか。

連載「働くろう者を訪ねて」では、写真家であり、ろう者である齋藤陽道が、さまざまな人と出会いながらポートレート撮影とインタビューを重ねていきます。

最終的な目的は、働くろう者たちの肖像を1冊の本にすること。その人の存在感を伝える1枚の写真の力を信じて、「21世紀、こうして働くろう者がいた」という肖像を残していきます。

(連載全体のステートメントはこちらのページから)

49回は東京都品川区で私立ろう学校校長として働く小野広祐(おの・こうすけ)さんを訪ねました。

小野広祐さん【私立ろう学校校長】

【写真】小学校の教室のような場所。黒いインナーにグレーのジャケットを着ているおのさんが立っている。黒ふちメガネをしている。

― お名前、ご職業、年齢は?

小野広祐です。サインネームは親指と人差し指で丸を作り、あごの横にちょんちょんと付けて表します。私立のろう学校 明晴学園の校長をしています。46歳です。

― 出身地はどこですか。

東京都世田谷区です。

― 今まで通っていた学校はどこですか。

東京都立杉並ろう学校(※注1)は幼稚部から中学部まで、高等部は東京都立大田ろう学校(※注2)、その後、和光大学に進学しました。人間関係学部人間関係学科(※注3)で心理学、差別問題、障害問題など、幅広く学びました。そこで中学校教諭一種免許状(社会)を取得しました。

ろう教育に関心を持ったのは大学に入ってから。
その後、小学校教諭免許状を取得するために玉川大学の通信教育も受けました。

※注1:2006年(平成18年)閉校

※注2:2007年(平成19年)閉校

※注3:2007年の学部体制変更により、現在は現代人間学部人間関係学科

― こどものときの夢は何でしたか。

料理人になりたいと思っていました。「レストランを開き、天皇陛下に食べてもらい文化勲章をもらう!」と小学部の卒業文集に残っています。よく料理をするようになったのは小学5年生から。自分が作った料理を食べた人の笑顔を見たり、「おいしい!」と言われるのが嬉しかったと記憶しています。

中学生になったころから公民に興味を持ち、安定しているだろうという理由で公務員になりたいと考えはじめました。勉強はもうしたくない、高校を卒業したらすぐに働きたい、と思って東京都職員採用試験を受けたのですが、落ちました。どうしよう……? と考えていたら先生に「大学へ行ってみたら?」と言われました。

なりゆきで和光大学に進学したのですが、良かったですね。高校とは違って、大学では自分で勉強したいことが選べるし、時間割を自分で作れるし、好きなことを研究することができたので。

― これまでの職歴は?

高校3年生からDPRO(ディープロ)(※注4)のろう教育チームに関わり、活動していました。DPROは「ろう文化宣言」を執筆した木村晴美さんたちが始めた啓蒙団体です。

そのあと、ろう教育を変える目的で設立された「デフフリースクール 龍の子学園」を立ち上げることになり、ここでいろいろなことを学びました。

そして学校法人 明晴学園設立に合わせて、通信で2年半学び、小学校教諭免許状を取得しました。明晴学園設立時は幼稚部と小学部だけだったからです。

実は和光大学を卒業したあと、2年間だけアウトソーシング企業で会社員をしていたんですよ。みんなから「先生になるなら一度は一般企業で働いてみたほうがいい」と言われて、なるほどなと思って。龍の子学園でスタッフをしながら、会社員として働いていました。

※注4:1998年に設立し、2024年に解散した任意団体。
DPROの理念は「ろう者がろう者としてろう者らしく生きていける社会にしていくために」(木村晴美noteより引用 )

― 教育の道に入ったきっかけは?

高校生の自分は、ろうとしてのアイデンティティがあいまいでした。口話を身につけて、自分は聴者並みにできる、と天狗になっていました。杉並ろう学校の先生方とは、声でスムーズにコミュニケーションができていたんです。

でも大田ろう学校で初めて会う聴者の先生とのコミュニケーションにつまずいてしまった。自分の声が伝わらない?! とショックでした。そんなとき、ふと同級生を見るとデフファミリーの子が多く、みんなの手話が魅力的に感じました。

「あれ、手話ってこんなに深い話ができるんだ。みんないろんなことを知っているんだな」と、知識の幅広さにも驚きました。

感覚的にやっぱりろう者には手話が必要なのだと思い、今まで見ているだけだった手話を積極的に使うことにしました。1998年のことでした。

1995年には木村晴美さんの「ろう文化宣言」が発表されて講演会がたくさん開催されていました。私も日本手話の知識を深めたいと講演を見に行き、「ろう文化」というものがあると知り衝撃を受けました。

たとえば人を呼ぶときに肩を叩く、部屋の照明を点灯させるなどがあります。聴者には驚かれる行為ですが、ろう者にとっては自然なことで、日常的な行為のひとつです。

こうした行為も、言語の違いから生まれる文化の違いなのだと知り、大きな気づきがありました。当時の自分にとっては難しい内容もありましたが、心を揺さぶられました。それがきっかけで、ろう教育に強く関心を持つようになりました。

― 明晴学園の特徴は?

バイリンガル・バイカルチュラルろう教育(※注5)を行っていることです。

現在も日本各地のろう学校では口話法での教育が中心になっています。明晴学園では日本手話と日本語をはっきり別の言語としてとらえ、日本手話と書記日本語で教育をしています。国内で他に例がなく、教育課程特例校として文部科学省から認可をもらっています。

ろう者が自分たちの手で学校を創ったことは世界的にも例がないそうで、外国からも多くの見学者が来ます。

デフフリースクール 龍の子学園を設立する前から、手話で学べるろう学校があったらいいなと思っていました。龍の子学園のスタッフと保護者たちが協力しあい、「構造改革特区(バイリンガルろう教育特区)」という制度をつかって開校しようと考えました。

国に提案し続けて、ようやく「手話でろう児を教育する」ことが認められましたが、すぐに次の壁が……。校地・校舎の確保です。校舎を建てる費用もない。探して探して、品川区が私たちの教育理念を理解してくれて、廃校になる小学校の校地・校舎を借りるかたちで無事に開校することができました。私立のろう学校として開校できたのが2008年。今年で18年目になります。

今の明晴学園には、乳児クラス、幼稚部、小学部、中学部があります。乳児クラス以外は縦割り教育・活動で、全員が交流できるようになっています。

また月1で交流企画をしています。たとえば、今月は幼稚部が企画担当だから、幼稚部の子たちがゲームなどを考えて、司会もやって、みんなで交流したりするんですよ。日本手話が共通言語になっているので、年齢関係なく、スムーズなコミュニケーションができています。私たち教員は見守るだけ。

小さいころから話し合いをし、企画をし、作り上げていく経験を重ねているからか、いろいろな場面で積極的に自分の考えを伝えることができる子が多いように思います。

※注5:
バイリンガル・バイカルチュラルろう教育では、次のことを目指しています。
①第一言語(母語)として日本手話、第二言語として書記日本語を身につけ、日本手話と書記日本語を使用するバイリンガルとして育成する。
②ろう者としてのアイデンティティ(自己肯定感)を育成するとともに、聴文化の理解と尊重する態度を身につける。
明晴学園公式サイトより引用)

―「明晴学園」の名前の由来は?

明晴学園の名前は、手話から始まりました。

/明るい(晴れる)/学園/という手話は、いずれも/ろう/と同じ手形で、両手を使って表します。乳児や幼稚部のこどもたちでも表現しやすい手話です。

「手話が禁止されていた時代が終わり、ろう児にとって、明るく晴れやかな学校生活になる」という願いを込めて、まず手話で/明るい(晴れる)/学校/と表現し、そこから日本手話の表現に合う日本語を選び、「明晴学園」という名前になりました。

― 先ほど通った廊下で、透明の壁を見かけました。

透明のアクリル板なので開放感があっていいですよね。

ろう者の目と身体に合った間取り、空間のことを「デフスペース」と言います。できるだけ見晴らしがいい、開放感がある間取りのほうがいいので、一部の壁を取り払いました。それによって隣の部屋で何をやっているのかを把握することができて安心します。

手洗い場の正面の壁は、全面を鏡にしました。手を洗っているときに後ろの情報を得ることができます。「誰かが後ろに立っているな、ぶつからないように振り返ろう」という配慮ができたり、鏡越しにアイコンタクトや手話で会話したり。

― 明晴学園が作った教科があるとお聞きしました。

はい。「手話科」「日本語科」を作りました。どちらも言語を学ぶための教科で、小学部から学びはじめます。一般の小・中学校の「国語」とは別の教科になります。「国語」は聴者が日本語を学ぶための教科なんです。

第一言語である日本手話を学ぶ「手話科」。
第二言語である書記日本語を学ぶ「日本語科」。

このふたつの言語科目があってこそ、バイリンガル教育が成り立ちます。
こどもたちを見てみると、やはり日本手話のほうが、差がなく、自然に獲得できています。第一言語、母語だからでしょう。

一方、日本語については、習得のペースや習熟度が一人ひとり違います。聴者の学校でも、英語の実力には差があると思いますが、それと同じようなものだと思います。

ただ、みんな日本語で基本的な筆談ができるようにはなっていきます。

― ここを卒業したあとの進路は?

当校には高等部がないので、他の学校へ進学します。これまでの卒業生は59人。そのうちの20%は一般の学校へ進学していきました。

その中の一人の実体験で面白い話があります。

「高校には日本手話がない。そしてみんな、授業中は積極的に手を上げない。なぜ……」と、カルチャーショックを受けたそうです。ですが、自分の考えを伝えるという基盤ができていたので、いろんな方法で積極的に発言。他の生徒はびっくりして、その子に興味を持ち、繋がりが生まれていったそうです。

ろうとしてのアイデンティティがしっかりとある子は、難題を乗り越える力もつけています。「言語が違うならこうしてみよう」と自分で考えて行動する力もあります。あきらめるのではなく、適応しようとする力。

「私は日本手話が第一言語。だから第二言語の日本語を間違えているときもあるかも。よろしくね」とはっきりと伝えることができる力もついています。

聴者の社会と対立するのではなく、共存する。相手は知らないだけ。私たちが伝える方法を学び、ろう文化や日本手話という言語を発信していく。
伝える力などをつけるための教科が、先ほど話した「手話科」です。

― どんな仕事をされていますか?

龍の子学園では小学部と事務を担当していました。月1で行われるフリースクールだったので毎月の会場の確保が大変でした。

明晴学園ではずっと小学部を担当して、中学部を2年間担当し、教頭職に就きました。教頭のときは現場のフォローや、保護者への対応をしたりしていました。そして今、校長として働いています。

校長になってからも授業を受け持ち、生徒たちにいろいろ教えています。同時に管理職として学校経営もしています。

東京都には教育に関する法律や支援がいろいろあり、今でも常に探り続けています。実現可能な難聴児支援はあるのだろうか、他のアプローチはあるのだろうか、他にいい方法は……と考え続けています。

校長になった理由は、私はここに長年関わってきているろう教員であり、現場をよく知っているということを自覚しているからです。まわりから推薦され、「自分がやらねば」と強く思い、決心しました。

校長になってからはやりたいこと、やってみたいことがどんどん出てきちゃって。改善したいなということも。一つひとつ実現していきたいですね。

― 実現できたことがあれば教えてください。

新たな試みとして各クラスの担任を複数にしました。生徒が「A先生と合わないな」と思ったとしても、我慢しないでB先生に話しかけたり相談することができます。「今日はA先生が面白いかも。話してみたいな」という日もあったり。

そして担任が複数人いることによって、一人の生徒について情報交換し、生徒を多面的に見て、向き合うことができる。「生徒Cはこういう性格で、ああいう行動をする。どうしたらいいのか」と一人で抱え込むよりも、もう一人の担任に話すことで意外なことに気づくことができるというメリットがあるんです。「生徒Cにはこういった一面がある。それを活かしたらどうだろう」とかね。

今、中学部で専科を担当している先生に、小学部でも授業をしてもらったりしています。小学部の担任だからという理由だけで教科を担当するのではなく、その教科を得意としている先生が教えたほうが、生徒たちにとっても、より良い授業になると思っています。

みんなの選択肢を増やし、余裕を持たせて、世界が広がっていくようにしたいんです。

実際にやってみて、試行錯誤して、真摯に続けていく。それを大切にしています。何度も壁にぶつかったりしますが、今は今しかない。そう信じて進み続けています。

また、日本手話で教育を受けることができる場をもっと増やしていきたいと考えています。日本手話によって、ろうのこどもたちが100%理解し、100%情報を得ることができ、成長していくことができる場を。

聴者の思考とろう者の思考はまったく違います。それぞれのいいところをお互いに知り、受け止め合い、よりよい社会を作っていけたらいいですね。

― 今の課題は?

ろう学校に通うこどもが減ってきているということです。インクルーシブ教育、人工内耳の普及や、家庭内の事情で地元の一般校に入ったり。いろんな要素が重なって……。

現代でもろう者は言語的少数者という考えではなく、治すべき、治せる病気だという見方がまだ残っているんです。それも悩ましい。

みんなに日本手話の魅力をもっと知ってほしいのですが、なかなか難しくて。マイノリティならではの悩みが尽きません。

人工内耳を使う人や手指日本語(日本語対応手話)が増えてきて、日本手話は今、消滅危機言語の一つとなっています。いつか消えてしまう言語という意味です。

手指日本語(日本語対応手話)がきっかけで、聴者が手話に興味を持ってくれるのは嬉しいのですが、言語としての日本手話がおざなりにされてしまっています。

日本手話なら、ろう児の本当の気持ちや考えを言語化し、伝え合うことができる。そして書記日本語の習得、上達にも繋がりやすくなります。

今の職場では人に恵まれているなと感じます。私がやりたいことを伝えると、みんなが力を合わせて、応援してサポートしてくれる。いいチームになっています。ありがたいですね。

― 5年後の自分は、どうなっていると思いますか?

51歳になっていますね。まだ校長をしているのかな。身体のことも考えつつ、がんばります!

日本手話の普及のために、NHK手話ニュースキャスターもしています。明晴学園の校長、手話ニュースキャスター。5年後もこの2つを同時にやりつつ、いろんな方面から日本手話を発信し続けていきたいです。明晴学園のこどもも増えたらいいな。

― 好きなたべものは何ですか?

お寿司ですね。毎日食べたいぐらいですよ。特にマグロが好き。休日にはよく家族で回転寿司店へ行きます。日本人でよかったなあ。

― 最近幸せだと思ったことは何ですか?

お風呂かな。慌ただしい1日が終わり、夜になって、家のお風呂にじっくり浸かって……頭の中がふわ〜っとなって……「今日も1日おつかれさま」と自分を褒めてあげます。お湯の温度は43度。冬は45度。スマホは持ち込みません。ただ、15分間お湯に浸かるのです。幸せ……。

動画インタビュー(手話)

インタビューの様子や、日常の様子をまとめたこの映像には、音声も字幕もテロップもありません。写真だけではどうしてもわからない、その人の手話の使い方に滲みでてくることばの特徴を感じてもらうためです。たとえ手話がわからなくても、そのリズムに目をゆだねてみてください。じわりと浸透する何かが、きっとあります。「こういうふうに話す人なんだなあ」と知ってもらった上で、写真を見てもらうと、見え方がまた変わります。

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連載:働くろう者を訪ねて|齋藤陽道